大和徒然草子

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「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(1)

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皆さんこんにちは。

 

奈良で文化遺産といえば、やはり古代から伝わる寺社建築を思い浮かべる方が多いことでしょう。

特に、法隆寺西院伽藍や薬師寺の東塔は、飛鳥、天平時代から1300年以上も残る、日本最古級の木造建築として知られ、世界遺産にも登録された日本を代表する建築物です。

このような古代からの建築を、長い歳月に渡って支え続けてきたのが、宮大工の人々です。

特に、世界最古の木造建築である法隆寺に古来から仕えてきた宮大工たちは、その技術の高さを知られ、安土桃山時代法隆寺大工の棟梁であった中井正清は、徳川氏に召し出され、二条城、江戸城駿府城ほか、多くの徳川氏の大規模建築を棟梁として担当し、その子孫は代々畿内の大工頭を務めました。

さて、この中井正清を輩出した西里(現奈良県斑鳩町法隆寺西1丁目付近)から、もう一人、正清に勝るとも劣らぬ法隆寺宮大工の巨人が明治末期に生まれます。

最後の法隆寺宮大工棟梁、西岡常一(にしおかつねかず)です。

 

常一は、代々伝わる古代建築の技法を継承するだけでなく、すでに絶えた工具やその技法を復元し、大工棟梁として法隆寺法輪寺、そして薬師寺の修築、復興に多大な貢献を果たします。

復興修築にあたっては、建築学の泰斗や碩学たちを相手にしても、彼らの意見や学説が、現場で実物から得られた知見と食い違う場合は一歩も引かず、歯に衣着せぬ言説で舌鋒鋭く反論し、「法隆寺の鬼」とも呼ばれました。

 

また、絶えようとしていた法隆寺宮大工の技術を後進に伝え、常一の薫陶を受けた弟子や大工たちが、現在も日本古来の伝統建築を守っており、脈々と技術が受け継がれる礎となったことは特筆すべきことでしょう。

 

今回は不世出の宮大工、西岡常一をご紹介したいと思います。

生い立ち

西岡常一は1908(明治41)年、西里の地に生まれました。

 

彼の生家である西岡家は古くから法隆寺に仕える宮大工の家で、17世紀には大坂城の普請にも携わったと伝えられます。

この時、機密保持のため、普請に参加した常一の先祖を含めた法隆寺の大工たちは、口封じに危うく殺害されようとしたところを、片桐且元が助命し、弟貞隆の領地である大和国小泉の市場(現JR大和小泉駅西口周辺)で匿ったといいます。

江戸時代まで、法隆寺の宮大工たちは寺領から知行を割り当てられ、建物の修築、造営を担い、古代から口伝で脈々と伝えられた技術をもって奉仕を続けていました。

ところが、突然の試練が法隆寺と宮大工たちを襲います。

明治維新にともなう神仏分離令に始まる廃仏毀釈の荒波が、法隆寺にも容赦なく押し寄せたのです。

とくに1871(明治4)年と1875(明治8)年の2度にわたる政府の上知令によって、法隆寺は寺領を失い、経済的に困窮を極めました。

宮大工をはじめとした法隆寺に奉仕する職人たちも、収入の道を断たれ、多くが廃業、転業を余儀なくされたといいます。

なお、現在、寺社の造営、改修を手掛ける大工を宮大工と呼びますが、江戸時代以前の法隆寺の宮大工は寺社番匠と呼ばれていたそうで、廃仏毀釈の風潮の中、呼び名の中に寺が含まれるのはけしからんということで、宮大工と呼ばれるようになったそうです。

 

西岡家は法隆寺の本坊(住職の居所)である西園院に属する宮大工であったため、かろうじて廃業はまぬがれたものの、大工仕事のない期間は農業でかろうじて生計を立てました。

大工なのだから、一般家屋の普請も行えばよいではないかと思われるかもしれません。

しかし、「宮大工は民家を建ててはいけない」という掟があり、西岡家の人々はこの掟を忠実に守っていました。

寺社を建てるというのは、利益や儲けのために行うのではない。

利益を追いかけて民家を建てると、どうしても利潤追求に走るようになり、そうなると、造作に対するきめ細かな気遣いや、丁寧な仕事がどうしてもおろそかになりがちとなる。

この思いを胸に、周囲の大工や職人たちが次々と転廃業していく中で、ストイックな姿勢を貫いたのでした。

 

後に常一も生涯民家を普請することはなく、自宅の修理、改装すらほかの大工に依頼するなど、徹底しています。

このような事情もあり、常一が生まれた頃の西岡家は、経済的にも厳しい状況にありました。

 

常一が生まれたときの、西岡家当主は、祖父の常吉です。

常吉は西岡家で初めて法隆寺宮大工の棟梁となった人物で、法輪寺三重塔や法隆寺仁王門の解体修理など、明治以降の法隆寺の多くの修理を手掛けました。

常吉には長男がいましたが、夭折して男子の後継者がいなかったため、次女ツギの婿養子に、当時24歳の松岡楢光を迎え、弟子に仕込みます。

そして1908(明治41)年、楢光とツギの間に生まれたのが常一でした。

 

常一の誕生を喜んだ常吉は、自分の「常」の字を与えて「常一」と命名します。

養子の楢光は、大工修業を始めたのが20歳過ぎと遅かったため、大変な努力をしていたものの、同年代の大工たちの技量に追いつくのに苦労しており、常吉は、孫の常一を将来棟梁とするべく、徹底的な英才教育を施すことになります。

5歳ごろになると、常一を現場に連れてくるようになり、その空気にいち早くなじませようとしました。

当時の法隆寺の境内は、地元の少年たちの格好の遊び場で、常一は大工仕事の見学をさせられているすぐそばで、友達が野球を楽しんでいるのを見て、「なんで自分だけ大工をせんならんのやろ」と恨めしく思ったと後に述懐しています。

嫌々仕事場に連れてこられる日が続きましたが、たまの休みに友達と遊びに行っても、うまく輪の中に入ることができず、見ているだけだったそうです。

こうして小学校に上がるまで、毎月1日と15日の大工の休日以外は、毎日現場で見学の日々となりましたが、子どもながら毎日現場を見ていると、くぎを打つのがうまい人や下手な人など、いろいろと見えてくるものがあったといいます。

小学校に上がると、毎日の現場見学の日々からは解放され、常一も「やれやれ助かった」と思ったそうですが、夏休みになるとみっちり仕込まれたといいます。

最初に渡された道具は鑿(のみ)で、これをひたすら研がされました。

 

大工の仕事の質は、道具、とくに鑿や鉋(かんな)、のこぎりといった刃物の良し悪しで決まります。

特に刃物の切れ味に直結する「研ぎ」の技術が最も重要なものでした。

 

常吉の技術指導は、直接研ぎ方、切り方を教えることは一切ありません。

たとえば鑿の研ぎならば、ひたすらダメ出しをするばかりで、どうダメなのかは教えません。

鉋であれば、常吉が自分の鉋でだした鉋屑を常一に見せ、同じ鉋屑が出るように研ぐよう指示するといった具合です。

徹底的に一から自分で観察し、考え、解決策を探り、コツを身体にしみこませるという指導でした。

できないならば、できるまでやる。

指導する方もされる方も、気が遠くなるような忍耐を必要とする指導法ですが、これによって常一は鍛えられていきました。

 

天然素材である木材を扱う大工、とくに大きな部材を使うことの多い宮大工は、現場の状況、個性の強い部材の性質に合わせた仕事が要求されます。

一般論で語られるようなセオリーだけでは、とても対応できず、木材という現物を扱う大工仕事は小手先のごまかしも効かないうえに、つねに百点の仕事が求められます。

技術は知識ではなく、現場で実際にやってみて、「手で覚える」というこの指導方法は、常一が本格的に大工修行を始めるようになってから一貫しました。

 

農学校への進学

小学校を卒業した常一は、生駒農学校(後に郡山農業高校→城内高校→現郡山高校)に進学します。

この、農学校への進学も常吉の考えによるものでした。

父親の楢光は、近代工法の知識も重要と考え、工業学校へ進学すればよいと考えていましたが、常吉は農学校への進学を命じます。

「大工は木のことを知らなければならないが、木を知るには土を知らなければならない。土を知って、初めてそこから育った木のことがわかる。」

というのが、常吉の考えでした。

大工になるのに、なぜ農学校なのか。釈然としなかった常一は当初まじめに学校で教わる農作業に取り組みませんでしたが、常吉からはしっかりと勉強するよう諭されます。

そのうちに、農作業の楽しさや醍醐味に気付いた常一は、次第に熱心に作業に取り組むようになりました。

法隆寺宮大工に代々伝わる口伝に、「堂塔の建立には木を買はず山を買へ」という条があります。

木の性質は土壌の性質や生えていた立地によって決まるため、用材を求めるときは、切り出された材木を買うのではなく、実際に山林に赴いて土壌や生え方を見なければいけないという戒めです。

農学校で培った土壌学や林業の知識は、後に常一がこの口伝を守るうえで、大きな武器になったといいます。

祖父常吉の真意は、材木の性質を見極めるには、そもそもその木がどうしてそのような性質をもつのかを知る必要がある。それを知るには、植物がどのように育つのかを実地に身につけさせたい。そんなところにあったのではないでしょうか。

1924(大正13)年、16歳で農学校を卒業した常一は、いよいよ本格的に大工修業と思っていましたが、常吉は常一に耕地を与え、1年農作業をさせました。

常一は学校で教わった通りに作物を育てましたが、農家の人より収穫が少なく、常吉は「これはどういうことやと思う?」と常一に聞きました。

常一は肥料や水の量も教えられたとおりにちゃんとやったけど、どうしてこうなったのかはわからないと答えると、常吉はこのように諭しました。

「お前はな、稲を作りながら、稲とではなく本と話し合いしてたんや。稲と話合いできる者なら、今、水ほしがっとるんか、こういう肥料をほしがっとるんやということがわかるんや。大工でも同じことで、大工は木と話し合いができなんだら、本当の大工にはなれんぞ。」

見聞きした知識だけを頼りとせず、実物と向き合うことが肝要であると説いた言葉通り、常一は現場で数多くの経験を積むことで一流の大工となっていくのです。

 

大工修業

1925(大正14)年、一年間の農作業を終えた常一は、見習いとして本格的な大工修業に入りました。

 

指導方法は一貫して技術は手で覚えさせるというものです。

しかし、行儀作法だけは口やかましいほどに躾けられたそうです。

胡坐をかくな、半纏の帯はきちんと締めろ、口笛は「盗人の真似事や」などに始まり、人と対するときの目線まで、事細かく言いつけました。

法隆寺には世界中から人がやってくる。

そしてことあるごとに棟梁が呼びだされるため、どこに出ても恥ずかしくない所作を常一に身につけさせようという、常吉の思いが、そこにありました。 

また、夜になると常吉を按摩するのが常一の日課となります。

このとき、常吉は按摩を受けながら、常一に大工としての心得や、職人たちの評価、どこの瓦が土がいいなど、自身の持つ知識や知見を話しました。

この按摩をしながらの口伝は常一が大工として一本立ちする20歳ごろまで続きました。

 

1928(昭和3)年、常一は営繕大工として認められ、一本立ちします。

そして常吉から、父楢光とともに常吉から法隆寺棟梁に代々伝わった口伝を授けられます。

 

神仏を崇めず仏法を賛仰せずして伽藍社頭を口にすべからず。
伽藍造営には四神相應の地を選べ。
堂塔の建立には木を買はず山を買へ。
木は生育の方位のままに使へ。
堂塔の木組は木の癖組。
木の癖組は工人たちの心組。
工人等の心根は匠長が工人への思やり。
百工あれば百念あり。一つに統ぶるが匠長が裁量也。
百論一つに止まるを正とや云う也。
一つに止めるの器量なきは謹み惧れ匠長の座を去れ。
諸々の技法は一日にして成らず。祖神の徳恵也。

 

これが祖父常吉が常一に授けた最後の教えとなりました。

そして、後の法隆寺昭和の大修理を通じて、常一はこの口伝の重みを改めて実感することとなります。

 

1929(昭和4)年1月から、常一は衛生兵として兵役に就き、それを機会に常吉は隠居して、楢光に一切を任せました。

翌年7月に除隊して奈良に戻った常一は、父の楢光から法隆寺の末寺、成福寺の庫裏の解体工事の仕事を与えられます。

江戸時代の建物で、常一にとっては初めての解体修理となりました。

翌1931(昭和6)年には橿原神宮拝殿で新築工事に初めて挑みます。

元々楢光が棟梁として請けた仕事でしたが、法隆寺の修理で多忙なため、常一に代理棟梁を任せました。

この時、常一は23歳。この辺で一度現場の仕切りを任せてみようという、父楢光の親心が見える気がします。

 

同年、法隆寺西室の修理工事や鞍馬寺本堂の増築にも大工として参加し、常一は着々と現場で経験を積んでいきました。

法隆寺昭和の大修理はじまる

さて、この頃、昭和初期の法隆寺はというと、屋根は壊れ、雨は漏ると、全体的ないたみがいよいよひどく、簡単な修理では間に合わない状況となっていました。

1921(大正10)年の聖徳太子の1300年忌をきっかけとして聖徳太子奉賛会が発足し、明治の廃仏毀釈で大きなダメージを負った法隆寺の保存・維持に向け、大規模改修工事の機運が大きな高まりを見せます。

 

1932(昭和7)年、常一は法隆寺五重塔の10分の1の学術模型製作に4人の職人の一人として参加します。

この模型の製作を通じて、常一は木工芸の技術に興味を持ち、一緒に模型作成に参加していた職人に弟子入りして技術習得し、伝統建築には必須の設計技術である規矩術を習得しました。

 

1933(昭和8)年、ついに法隆寺大修理の予算がおりて、翌年から開始と決まりました。

常一は、修理設計の実測にあたります。

大修理を翌年に控えたこの年、祖父の常吉が世を去りました。

享年81。

常吉の後半生は、養子の楢光と孫の常一を一人前の棟梁とすることに注がれ、20歳を過ぎてから婿養子として大工となった楢光は、本人の努力もあって棟梁となり、常一も一人前の大工として活躍するのを見届けたうえでの大往生でした。

 

1934(昭和9)年2月、大修理を目前に控えた常一は27歳で結婚します。

相手は大和郡山の農家の娘、奥村カズエ。

親類のおばさんに勧められて見合いし、そのままとんとん拍子に話が進んで結婚となりました。

新婚とはいえ、常一は大修理に向けた修理設計の実測に忙殺され、新婚旅行などとてもできる状態ではなかったといいます。

5月、ついに本格的な解体朱里が開始されました。

この昭和の大修理は、これまで全く解体修理されたことのない建造物20件を、12年の工期を予定して行う大規模なものでした。

総棟梁は、父、楢光が務め、常一は、鎌倉時代の建築である東院礼堂の解体修理で、ついに初めて棟梁を務めることになります。

全国から職人が集まり、常一のもとで働く大工たちは、すべて常一より年上。

正直不安がないわけではなかったと、常一は後にその時の心情を述懐しています。

 

法隆寺には飛鳥時代から江戸時代まで、それぞれの時期に立てられた建造物があり、何回か修理も行われていました。

その修理の際、時代の流行に応じて様式の変更が行われたりしているのですが、昭和の大修理に際しては、創建当時の様式に戻そうという基本方針がとられることとなりました。

1936(昭和11)年、礼堂の工事が終わり、1月から平安時代に再建された大講堂の解体修理が開始されます。

棟梁は楢光で、常一は副棟梁となりました。

 

法隆寺の昭和の大修理は、戦争の混乱もあって、1955(昭和30)年まで長期間続くことになりますが、常一にとって、この大修理での知見・経験が、後に「大学どころじゃない、大大学に行かせてもろうたようなもんです。」と述懐するほど、貴重な財産となっていきます。

 

常一は礼堂の修理のときから、原木から製材して、適材適所で部材を使用するなど、手間を惜しまず、大修理に取り組みました。

明治以降、寺社の修築でもすでに製材されたものを使うのが主流となっていましたが、原木から製材することで、部材がもつ個々の特質を見極め、適材適所の使用を可能にしたのです。

このとき原木のもつ特質の見極めに、農学校で得た林業の知識が非常に役立ったといいます。

 

精力的に法隆寺の大修理に取り組む常一。

しかし、1937(昭和12)年に勃発した日中戦争のため、常一は敗戦の年まで、招集と現場復帰の繰り返しを余儀なくされることになります。

戦地での経験は過酷なものでしたが、大陸での経験は大工としての常一の知見を一層広めるものとなりました。

次回は、戦時下の常一と法隆寺大修理をご紹介しようと思います。

 

 参考文献


 

 


 

 


 

次回はこちらです。

 

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