皆さんこんにちは。
鎌倉時代に多くの新仏教が生まれましたが、奈良を中心とした大和国内では興福寺、東大寺といった旧仏教の勢力が強く、新仏教はその教線を大和へ伸ばせませんでした。
室町時代に入り、全国に教線を伸ばした一向宗こと浄土真宗本願寺教団も、大和国、とりわけ北和地域にその布教拠点を築くことは難しく、北和への本格的な進出は戦国時代の混乱で興福寺の力が大幅に弱まるまで叶いませんでした。
本願寺8世法主蓮如の時代、大和国における本格的な本願寺教団の進出は、比較的旧仏教勢力の弱い吉野から始まります。
このとき、吉野の一向宗拠点となったのが、飯貝(現奈良県吉野町飯貝)の本善寺と、今回ご紹介する下市(現奈良県下市町)の願行寺です。
願行寺とは
願行寺の場所はこちら。奈良県下市町を貫く吉野川の支流、秋野川西岸にあります。
公共交通機関だと近鉄下市口駅から奈良交通のバスで、札の辻バス停下車が便利です。
下市口駅から1.6Kmほどの場所にあるので、気候が良ければ、本町を散策しながら徒歩でゆっくり向かうのもよいですね。
願行寺は、南北朝時代の14世紀に開かれた念仏道場・秋野坊舎を起源とします。
もとは別の場所にありましたが、1468(応仁2)年に吉野を訪れた蓮如が新たな布教拠点として現所在地を見定め、1495(明応4)年に現在地へ移転させました。
下市は古くから大峰参詣道として人々の往来が盛んだった丹生天川街道の入り口にあります。
秋野川と吉野川は下市で合流し、平安時代以来、荘園経営のため貴族たちによる開発が進み、商機を見出した人々が集まりました。
中世には吉野の玄関口として様々な商いの市がたつ、大和国でも屈指の商業地域に成長し、蓮如が下市を拠点としたのは、こうした下市の賑わいに目を付けたものだったと考えられます。
蓮如は初代住持に娘婿の勝恵を就け、願行寺は戦国時代から江戸時代を通じて本願寺の一家衆(本願寺法主の傍系一族衆)として、大和では格別の寺格を有し、下市御坊と称しました。
全盛期には大和、摂津、近江に70以上の末寺をもち、門前には寺内町を形成。
本願寺教団の中本山として隆盛を誇りました。
1578(天正6)年、石山合戦のさ中、本願寺に呼応した吉野の一向宗門徒拠点であった願行寺は、織田信長の命を受けた筒井順慶によって焼き討ちに遭い、壊滅的な打撃を受けましたが、まもなく再建。
天正11(1583)年頃までに本堂などを復興させ、江戸中期までには現在の伽藍が再建されます。
その後の本願寺東西分裂に際しては本願寺派(西本願寺)に従い、江戸時代以降も下市寺内町の中心拠点として栄えました。
境内
それでは境内に入ってみましょう。
境内は秋野川のによって形成された河岸段丘上にあり、前を走る道路より一段高い場所にあります。
山号は至心山。山門わきに大きな石柱が立っています。
本堂は1578年の筒井順慶による焼き討ち後、天正7~11(1579~83)年の間に再建されたもので、下市町指定文化財です。
再建後、1986(昭和61)年の大修理を含めて3回の大規模修理が施されていますが、室町時代末期までに見られる古式の浄土真宗寺院建築の様式を残した貴重な建築です。
虹梁の彫刻も江戸時代には豪華になりますが、室町の様式で建てられた願行寺のものはいたってシンプル。
象さん可愛いですね。
本堂わきの蓮如上人像。
浄土真宗寺院は親鸞像が建てられていることが多いですが、吉野は飯貝の本善寺もそうなのですが、お寺の開基となった蓮如推しです。
本堂わきの蓮如堂。
開基である蓮如上人の木像がお祀りされています。
蓮如堂前の歌碑。
いにしへの 心うかりし 三吉野の
けふは紅葉も さかりとぞみる
1468(応仁2)年、高野山から十津川を経て吉野を巡った蓮如が、吉野で詠んだ歌の一つで、吉野の蔵王堂を眺めて悩みの多かった一年を振り返って詠ったもの。
吉野つながりで設置されているんでしょうか。
こちらは書院です。
本堂と書院に囲まれた枯山水の庭園は、室町時代の作庭で奈良県指定名勝。
奈良県内で室町時代以前の作庭は、こちらと奈良市の奈良ホテル隣にある大乗院庭園だけで、大変貴重なお庭です。
拝観には事前に電話で予約が必要です(有料)。
※庭園の詳細は下記の記事が詳しいです。
石組みが大変美しい、枯山水の良いお庭です。
到着時間が読めなくて、事前予約できず。。。一度は伺いたい庭園です。
書院の前に変わった形の石灯籠がありました。
設置した方の数寄者ぶりがうかがえる、おもしろい形です。
鐘楼と梵鐘は1567(永禄10)年頃に造立されたもので、下市町指定文化財です。
鐘楼は室町時代の様式を色濃く残す、境内で最も古い貴重な建築。
梵鐘は1567年に竜王城主の堀内守俊が寄進したことが銘に記され、県内で唯一の永禄在銘の鐘になります。
竜王城の場所を調べましたが、下市町内で竜王の地名があるのは、町内東部の立石と西部の平原にあり、堀内はどちらかの領主だったのでしょう。
こちらは、書院門。
書院へご案内するような、大事なお客さんが来るときにしか開かない格式の高い門になります。
願行寺の裏山は下市御坊峰城の城跡。
1578年に筒井順慶が侵攻した際の陣城とも、戦後に一帯支配のために設けた城ともいわれますが、詳細は不明です。
城跡は一帯が私有地になっているため、現在立ち入りはできません。
寺内町と周辺
お城の周辺も少し歩いてみました。
願行寺の前の通りを少し北に進むと、奈良交通の「寺内」のバス停があります。
現在の住所からは消えていますが、周辺が寺内町であったことを示すバス停名です。
秋野川に架橋された寺内町と本町を結ぶ橋。
欄干に御坊橋とあります。
こちらは下市の町を南北に流れる秋野川。
一般に寺内町というと環濠で防備を固めた町というイメージがありますが、願行寺の寺内町は河岸段丘という地勢を活かし、秋野川を天然の堀として南北の狭い入り口を固める形で、防備を固めていたようです。
旧丹生天川街道(現県道48号線)、問屋(といや)橋から見える願行寺。
街道から山門までは、一度屈曲させる道筋になっています。
願行寺の建っている場所が階段状の河岸段丘にあることがよくわかる場所です。
現在の下市町の町域には江戸時代、多くの薬園が設置され、下市の町は薬草の集荷販売を行う問屋が多く集まり大変栄えました。
こちらの問屋橋周辺にも多くの薬種商が集まったことか橋の名前の由来です。
奈良県の山間地域は宇陀や高取もそうですが、薬の生産が古くから盛んな地域が多く、江戸時代の大和国は富山、加賀と全国シェアを争う漢方・生薬の一大産地でした。
富山や加賀が、大名である前田家の政策として販路拡大したのとは対照的に、大和国は民間中心で販路を拡大しましたが、富山とは互いに競合を避けるために協定を結んでいたとのこと。
参考:https://www.pref.nara.jp/secure/51648/test1.pdf
今回は時間がなくて秋野川東岸の本町地区を回れなかったのですが、機会を見つけてまた来たいと思っています。
「山家なれども下市は都、大坂商人の津でござる」と謳われた下市は、江戸時代には吉野地方最大の商業都市で、17世紀初頭の元和のころ、日本で最初の手形である「下市札」が発行された町です。
今でも国道309号線の一つ東の筋を走る旧街道沿いには、趣ある古い日本家屋が残っているので、こちらの散策も楽しそうな町です。
※下市町の観光情報は下記をご覧ください。
今回、散策の拠点にしたのが下市町観光文化センター。
寺内町のすぐ南側にあり、車を停めて下市の町をぶらりと散策するのに大変便利です。
場所はこちら。
願行寺の基本情報
住所:〒638-0041 奈良県吉野郡下市町下市2952
電話:0747-52-2344
時間:8:00~16:00
境内は無料で拝観できますが、本堂や蓮如堂、書院、庭園の拝観は事前に電話で予約が必要(こちらは有料になります)。
吉野における本願寺教団のもう一つの拠点、飯貝御坊・本善寺についても近日中にご紹介します。