大和徒然草子

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横田環濠(横田平城)・筒井順慶の重臣・松倉右近の旧跡を巡る

皆さんこんにちは。

 

大和国戦国大名と言えば筒井順慶が有名ですが、順慶を支えた重臣として知られるのが、島左近松倉右近

今回はかつて松倉右近が本拠とした、現奈良県大和郡山市横田町の横田環濠をご紹介します。

 

島左近は、後に石田三成の家臣として関ヶ原の戦いなどで活躍したこともあって、知名度が高い戦国武将ですが、同じ順慶の家臣であった松倉右近知名度は、いささか低いかもしれませんね。

歴史に詳しい方なら、子孫の松倉重政勝家が、転封された肥前で暴政を働き、島原の乱を誘発したことで、記憶にとどめていらっしゃる方もおられるかなと思います。

平群町などで島左近が、町を代表する人物として顕彰される一方、松倉右近は子孫の評判が芳しくなかったこともあってか、地元大和郡山でも、その存在はほぼ無視されてしまっている感もありますね。

 

横田環濠と松倉氏

横田環濠の場所はこちら。

横田環濠は西名阪自動車道の郡山ICの北側、高瀬川の南岸に位置する集落です。

もともと領主居館と集落を堀で囲んだ環濠集落で、横田平城と中世の史料にその名が登場し、正確な築城年代は不明ですが、戦国期以前から成立していたとみられる、歴史ある集落になります。

この横田を拠点としていたのが、筒井氏重臣であった松倉氏でした。

松倉氏は室町時代の史料では「松蔵」とあり、活躍した当時の書き方は「松蔵」が正しいようです。

そのルーツについては不明点も多く、越中から移住してきた一族とも、筒井氏の一族で、横田一帯を支配していた横田氏に婿入りして松蔵を名乗ったと伝える史料もあり、判然としません。

しかし、島氏のように筒井氏から独立性の強い国人ではなく、代々筒井氏の家来筋の家であったようで、右近以前の当主も筒井氏の重臣を務めた一族でした。

松倉右近は、名は重信とも勝重とも伝わる人物で、右近の名で最初に現れるのは1583(天正11)年に秀吉に従って順慶が伊賀に攻め込んだ際に従軍し、島左近ともども負傷した記事で、松倉右近島左近の名が同時に現れる史料は、筒井順慶の葬儀の記録のみで、順慶時代の活動は、島左近同様、詳細がほとんど不明の人物です。

右近は筒井順慶が大和一国の国主となった後は、筒井氏のライバルであった越智氏の旧領、高市郡(現明日香村、高取町付近)を領して、1584(天正12)年には高取城を再建して入った後、筒井氏の伊賀転封後は名張城主となりました。

右近の死後、子の重政は筒井氏から離れていったん浪人した後、五條二見の領主となって二見城を築城。

城下を整備して善政を敷き、現在散策スポットとしても非常に人気の高い、五條新町の礎を築きます

松倉重政の事跡についての詳細は、こちらの記事もご一読ください。

www.yamatotsurezure.com

しかし、大坂の陣の軍功で肥前日野江へ転封となった重政は、五條時代とは人が変わったような苛烈な圧政を敷き、次代の勝家の時代に島原の乱が勃発。

松倉家は大乱勃発の責を問われ、当主勝家は江戸時代で唯一斬首された大名となり、取り潰しとなったのです。

 

一介の小国人であった松倉氏は、筒井氏家臣を振り出しに、豊臣、徳川と時の天下人を主人とすることで、最終的に4万3千石の大名にまで成り上がりました。

横田城は、そんな松倉氏の始まりの地になります。

 

横田城のおおよその領域は下記の感じです。

国土地理院HPから作成

集落北東部、和爾下神社の南側と、集落内の八幡神社南側に領主居館跡とみられる曲輪があり、城館と村落と一体化して環濠と枝堀で防備を固めた城塞でした。
集落内の街路は、地図を見れば一目瞭然ですが、クランクや丁字路が連続する遠見遮断が駆使され、環濠集落に特徴的な道筋を遺したものとなっています。

 

現在の城跡・集落の様子

さて、それでは現在の横田環濠の様子をご紹介していきます。

こちらは集落北側を東西に走る福住横田線(県道192号線)。

古代官道である北の横大路(竜田道)をルーツとする道路で、東西にまっすぐ伸びています。

横田の集落周辺は車の離合に気を遣うほど狭隘な区間もあるのですが、国道25号線から名阪国道の天理ICに抜ける道路ということもあり、非常に交通量は多いです。

 

集落北側の堀にかかるこちらの橋を渡って南側が、横田環濠集落になります。

北側のこちらの堀跡は結構深いです。

 

横大路沿い、集落の北側に鎮座している和爾下神社

こちらの場所から、2.5Kmほど東、名阪国道の天理IC北側にも同じ名前の神社がありますが、天理の方が上治道宮と呼ばれるのに対し、こちらは下治道宮と呼ばれます。

ちなみに「治道」は「はるみち」と読みます。

 

10世紀にまとめられた延喜式神名帳にもその名が見える古社で、ご祭神は素戔嗚命

中世から江戸期にかけては牛頭天王を祀り「下治道天王社」と呼ばれていたようです。

正面鳥居の脇に立つ石灯篭にも「牛頭天王」と刻まれており、かつての天王信仰の面影を今に伝えます。

明治の神仏分離令で天王信仰が否定され、牛頭天王と習合していた素戔嗚命を祀る神社となりました

 

石灯篭の脇に、ほとんど地中に埋もれている石碑がありました。

旧治道村道路原標です。

この横田の集落が、現在の大和郡山市治道地区の中心地だったことが分かります。

 

丹塗りの朱が鮮やかな社殿です。

1633(寛永10)年に春日大社の摂社水谷神社の旧社殿が譲渡されたとの記録が残り、当時の物がそのまま残っているのであれば、文化財としても非常に貴重な建築です。

ちなみに、天理の方の和爾下神社本殿は、安土桃山時代の建築で国の重要文化財。戦前は国宝でした。

こちらの社殿も記録によれば十分に安土桃山時代以前に遡る可能性があります。

奈良県内の歴史ある集落の社殿は、近隣の超有名な寺社から移築されてるケースも多いので、びっくりするほど立派な建物が多かったりするんですよね。

 

こちらは和爾下神社の南側にある、集落東端の堀跡の水路。

和爾下神社南側の一角が、主郭の跡と推定されています。

主郭跡の住宅地を取り囲むように堀跡の水路が流れています。

堀跡の水路は、集落の中心部では暗渠となります。

 

こちらは集落の中央を東西に貫く道ですが、道の下に暗渠化された堀跡の水路が流れています。

格子状の水路の蓋から、地中を流れる水の音が耳に聞こえてきました。

 

集落中央の八幡神社

公園と集会所が併設されています。

こちらの八幡神社の南側にも、堀跡の水路が残っています。

横田環濠の南側は奥氏の居城、辰巳城があったとも伝えられます。

詳しいことは史料も乏しく不明ですが、番条環濠など、複数の城館が連立している環濠集落の例もありますので、横田も戦国期は集落の南北に城館を有する城塞だったのかもしれませんね。

 

こちらは、集落北西側の街路ですが、遠見遮断のクランクが連続しています。

車社会の現代、自動車が利用しづらい等、不便なところも多い道ですが、中世の息吹を今に伝える貴重な風景です。


非常に静かな集落で、とくに城跡の案内もないため付近にお住まいの方でも、この場所が中世大和武士の城跡であったことを、ご存知ない方も多いかもしれません。
近年、大和郡山市では、市内の歴史ある旧跡に案内板や石碑の設置も進めているので、こちらの場所にも、是非案内板など設置してもらえると嬉しいです。

どうして町の周りを囲むように水路が巡っているのか、どうして狭いくねくね道が町の中を走るのか、地域の子どもたちにもぜひ伝えていってもらいたいです。

 

リンク

奈良県内のその他の城跡スポットはこちらをご覧ください。