大和徒然草子

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思ってたんと違う(12)どうする家康!?神君伊賀越え~異説大和越えルート・決死の逃避行で大和を越えた家康

皆さんこんにちは。

 

2023年の大河ドラマは「どうする家康」。

その苦難に満ちた人生で、何度も危機に直面した徳川家康

「どうする?」と迫られ続けたその生涯がどのように描かれるのか、楽しみな作品です。

 

家康が直面した人生最大の危機と言えば、江戸幕府の正史である『徳川実記』に「御生涯御艱難の第一とす」と記された、本能寺の変直後の逃避行、「神君伊賀越え」を思い浮かべる方も多いんじゃないでしょうか。

1582(天正10)年6月2日未明、天下統一を目前としていた織田信長が、京都本能寺で重臣明智光秀に討たれたとき、家康は上方見物の最中で、わずかな供回りとともに泉州に逗留していました。

覇王・信長の突然の死で、混乱の極みある畿内で孤立した家康主従は、突然絶体絶命の危機に見舞われます。

この時一緒に堺で上方見物をしていた穴山梅雪が、領国への帰還途中に一揆に襲われて命を落とす中、家康は命がけの逃避行の末、無事三河まで帰還。

その逃避ルートから、「神君伊賀越え」と呼ばれたこの出来事は、天下人家康の一大苦難として人口に膾炙してきました。

 

大河ドラマ「どうする家康」でも、山場の一つになるエピソードと言えるでしょう。

 

現在通説となっている逃避ルートは、堺から四条畷(現大阪府四条畷市)を経て山城南部に入り、宇治田原(現用途府宇治田原町)から信楽(現滋賀県甲賀市)、柘植(現三重県伊賀市)に入って伊勢へと抜け、海路領国三河へ抜けたというもので、他にも詳細地域に差はあるものの、概ね堺から河内、山城を経由し伊賀、伊勢に抜けるルートが主流となっています。

 

しかし、堺から伊勢に至るルートについて、実は大和国(現奈良県)を越えていたという説があることをご存知でしょうか。

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※本ページの情報は2023年1月時点のものです。最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。

通説・山城~信楽~伊賀ルート

本能寺の変後に家康がとった逃避ルートですが、実は同時代の記録である一次史料が乏しく、その実態は謎に包まれています

先にご紹介した通説に大きな影響を与えているのが、『石川忠総留書』という史料。

この史料は、家康の逃避行に同行した大久保忠隣の次男、石川忠総が著した史料で、実父忠隣のほかにも、伯父の石川康や大叔父の大久保忠佐など、忠総の近親者には、この時の家康に同行していたものが多く、後世の著作ながら家康の伊賀越えについて、比較的信憑性の高い史料とされてきました。

ちなみに、本能寺の変後に家康が取り乱し、追い腹を切ろうとして本多忠勝に止められた逸話などは、この『石川忠総留書』が元ネタ。

その他、織田信長の事績を記した太田牛一の『信長公記』も宇治田原を経由して逃走したことが記されるなど、研究者が良質と判断する史料の多くに山城~伊賀~伊勢~三河と続くルートが記されたこともあり、現在は一般的にはこのルートが通説とされています。

 

異説・大和越えルートとは

一方、『石川忠総留書』『信長公記』同様、江戸時代の初期に書かれた二次史料には、堺で凶報を聞いた家康は、大和国を越えて伊勢、三河へ逃れたと記されたものもあります。

家康の外孫松平忠明が編纂し、寛永年間(1624~44年)に成立した『当代記』の巻二には、堺で本能寺の変を知った家康は6月2日当日に出発し、大和国の高田(現奈良県大和高田市)の城に入って6月4日に三河に到着したと記されています。

また、1574(天正2)年に生まれ、のちに川越藩家老となった三河武士、石川正西が17世紀中頃に著した『石川正西聞見集』には「堺より大和路へ御出、伊賀こえ被成候」とある他、姫路藩主・榊原忠次が1664(寛文4)年に編纂した『御当家記年録』には「家康公聞信長生害、経大和伊賀路。」とあります。

このように、家康の死後間もない頃、既にいくつかの史料に、家康の大和越えが記録されていることは興味深い事実です。

特に榊原忠次は伊賀越えで家康に同行した榊原康政の孫であり、『御当家記年録』は異論がある場合は両論併記するなど、記述の正確さを心掛けた点で史料的価値も高いと評価されていることから、家康の大和越えは単なる風説とは片付けられないと言えるでしょう。

そのほかにも、家康の伊賀越えを支援した「伊賀者」たちの子孫が、後世著した「伊賀者由緒」をはじめとした由緒書きにも、大和を経由して家康が逃げたことが度々記されていました。

家康の大和越えについて多くの史料が残される中、安井久善氏(後日本大学名誉教授。専門は国文学者だが軍事史の研究者でもあった)が発掘した史料をもとに1965(昭和40)年に家康の大和越え説を提唱したものの、昭和40年代に広吉寿彦氏が、大和越えを示唆する多くの雑書に地名の混乱が見られることなどを理由に、大和越え説を「妄説」と退けます。

そして、それを受ける形で久保文武氏も大和越え説を否定する論文を発表し、以後、多くの著作が異説としての大和越えを否定するのに、二人の論文を引用したことで、すっかり大和越え説はまともに顧みられることもなくなってしまいました。

 

蘇る大和越えルート

昭和40年代に否定され、「妄説」の烙印を押された家康の大和越え説に再び光が当てられたのは、2017(平成29)年3月、歴史作家の上島秀友氏が奈良新聞紙上で連載していた「大和の中世・つれづれ漫歩」のなかで、今までの論考に取り上げられることのなかった以下の文書を発掘して世に出したことでした。

『記録御用諸本 古文書 近世旗本家伝文書集 上巻所収』
(上島秀友著『本能寺の変 神君伊賀越えの真実』より引用)

この文書は内閣文庫に所蔵されている家康の書状の写しです。

「記録御用諸本」とは幕府が諸家から古文書を提出させた家伝の文書集であり、この文書は「東照宮御判物」、すなわち家康発給文書の写しということになります。

その内容は書き下すと以下の通り。

東照宮御判物

今度大和越之節、越度なき様めされ給わり悉く存じ候、重ねて越智玄蕃允迠申し入れる可く候、以上、

天正十年午六月 御諱御判

筒井順慶

森本左馬之助殿

竹村九兵衛殿

外嶋加賀守殿

和田助太夫殿

内容を見て明らかなように、この文書は家康が堺から大和を越えて三河へ逃亡する際、協力した者たちに宛てた感状なのです。

今回の記事の論点から少し外れますが、協力者の名に大和守護で変の直後は明智寄りの行動をとったとされる筒井順慶が含まれていることも非常に興味深い点ですね。

 

この感状は、文書の中にも名がみえる竹村九兵衛こと村道の子孫・旗本竹村家に伝えられたもので、寛政年間(1789年~1801年)に幕府が大名や旗本の家譜集である『寛政重修諸家譜』を編纂した際、時の竹村家当主が家の由緒を示す資料の一つとして幕府に提出したものでした。

寛政重修諸家譜』の道清の項には、本能寺の変直後に家康が堺から大和に入る際、道清が国境の竹内峠を嚮導し、その功によって1000石の領地と石見銀山奉行に取り立てられたことが記載されています。

この記載は、「当代記」が伝える家康の逃走ルート・堺~高田の城(現奈良県大和高田市)の想定ルートとも一致するものであると、土地勘のある方ならぴんと来られたかもしれません。

堺から竹内峠を越えて大和高田に至るルートといえば、日本最古の官道として知られる竹内街道であり、竹内街道は大和で横大路に接続して伊賀、伊勢へ通じる、堺から伊勢に抜ける最短ルートでした。

 

ところで竹村道清とは、そもそもどんな人物なのでしょうか。

道清の父は、興福寺一乗院方国人であった細井戸氏に仕えた人物でした。

細井戸氏は現在広陵町広陵西小学校の敷地にあった細井戸城を拠点とし、筒井氏の与党として同じ広陵町内を拠点とした箸尾氏と抗争を繰り広げ、1570(元亀元)年に松永久秀に与した箸尾氏の攻撃を受けて居城が落城(『多聞院日記』)、没落します。

この時、道清の父は戦死し、当時数えで11歳の道清は弟とともに外祖父の下で養育されました。

没落した大和国人・細井戸氏のそのまた家臣の遺児であった道清ですが、その後異例の経歴を辿ります。

1602(慶長7)年、大久保長安配下の石見銀山付役人となり、翌年には知恩院大改修の普請奉行に抜擢。

1613(慶長18)年にはついに石見銀山奉行にまで出世を果たすのです。

人材の登用に地縁・血縁が特に重んじられた江戸時代以前の社会において、家康とは直接の地縁・血縁を持たない道清の出世は異例であり、上島氏もその著書『本能寺の変 神君伊賀越えの真相』の中で、この道清の出世を家康の大和越えを示す大きな傍証と主張しています。

同じ大和国出身の大久保長安長安は元々金春流傍流の能楽師)と何らかの関係があって登用された可能性も、0ではないでしょうが、子孫の竹村家に家の由緒として家康の大和越えに協力した功績が伝えられ、そのまま幕府の公式記録にも残された事実は、家康の実際の逃走ルートを考えるうえで、非常に重いものと考えられます。

一次史料と言ってもよい竹村家に伝えられた家康の感状は、家康の大和越えが、決して「妄説」と切って捨てるような説ではなく、再検討が必要な説であると再び注目を集めるきっかけとなりました。

 

家康は本能寺の変をどこで知ったか

さて、大和越え説の蓋然性が高いか低いかを判断するうえで重要なのは、家康が本能寺の変をどこで知ったか、にあります。

通説の重要資料とされる『石川忠総留書』によれば、6月1日堺を見物した家康一行は、6月2日には本能寺で信長と会見するため上洛の途上にあり、四条畷で凶報に接したとあります。

四条畷で家康が本能寺の変を知ったのであれば、ほぼ現在の国道307号線を辿る通説ルートも、十分蓋然性が高いと考えられるでしょう。

一方、この場合に竹内峠を越える大和ルートはかなりの大回りとなり、わざわざ選択するとは考えづらいかもしれません。

 

しかし『当代記』や『信長公記』、大久保彦左衛門が著した『三河物語』など、家康は本能寺の変を堺で知ったとする史料も、実は存在します。

中でも1583年2月13日付で宣教師ルイス・フロイスイエズス会総長に宛てた書簡(『耶蘇会日本年報』)には、「凶報が堺に達してから家康が領地に戻ろうとした」と記載されており、当事者情報ではないものの、同時代を生きたフロイスの耳に、家康が堺で本能寺の変を知ったという情報が入っていた事実は、見逃せません。

 

もし、家康が堺で本能寺の変を知ったのなら、大和越えのルートを選択する蓋然性が、俄然高まります。

堺から伊勢に抜ける最短ルートは、竹内街道を通って大和に入り、伊勢街道を使って伊賀経由(現国道165号線にほぼ沿う)、もしくは直接高見峠を越えて伊勢に抜けるルート(現国道166号線にほぼ沿う)であり、一刻も早く安全に堺から伊勢に抜けるために最も合理的なルートと言えます。

 

さらに、通説である山城南部を通るルートは、本能寺の変直後は家康が通るにはリスクが高いルートでもありました。

京都と奈良を結ぶ奈良街道は、本能寺の変直後から重要な街道として厳重な警戒態勢がとられたようで、本能寺の変当日6月2日付の『蓮成院記録』には、「宇治から先は通行止めとなり飛脚も遣れずに引き返してきた」と、記載されています。

通説ルートでは、必ず奈良街道を横切る必要があり、さらに通行する綴喜郡相楽郡筒井順慶の与力ながら、早くから光秀方として行動した槙島城(現京都府宇治市)主の井戸良弘の影響下にあった可能性がある地域でもあり、家康が近づくには非常に危険なエリアであったと言えるでしょう。

まあ、そもそも堺で本能寺の変を知ったなら、山城に向かうルートは、わざわざ敵である光秀の軍勢に近付くような行動で、常識的にも考えにくいんじゃないでしょうか。

 

混在する山城ルートと大和ルート

ここまで家康の大和越えについて、史料も交えながらその可能性などご紹介してきました。

繰り返しになりますが、神君伊賀越えについては当事者による一次史料が乏しく、ルートについては通説通りのルートを示唆する史料も、大和を越えたルートを示唆する史料も多数あり、中にはどちらも混在している史料もあるなど、非常に混乱した状態にあると言えます。

 

どうしてこのような状態になっているのか、上島氏はその著書『本能寺の変 神君伊賀越えの真相』の中で、通説山城越えのルートも大和越えルートも両方存在したと推理されています。

つまり、家康一行は二手に分かれ、山城ルートへは囮部隊を向かわせ、家康本隊は竹内峠を越えて大和を経由し、伊勢へ抜けたという訳です。

これならば、通説ルートと大和越えルートそれぞれに、家康一行がその場を通った証跡が併存することに矛盾がなくなるので、「なるほど」と頷ける仮説かと思います。

上島氏の説を補強する一次史料として、挙げられているのが『宇野主水日記』。

これは、本願寺法主であった顕如の祐筆・宇野主水が著した日記で、本能寺の変における堺での徳川家康の行動を詳細に記述していることで知られます。

この日記の6月2日付の記事には、「6月2日朝、家康は信長に会見するため、「ふたふた(=あたふた)」と上洛した」とあるのですが、記事の後ろに細字で「これは信長御生害ヲ知テ計略ヲ云テ上洛也」と追記されているのです。

これは、「6月2日に信長に会うため上洛したというのは、信長殺害を知って行った計略=カモフラージュ工作」と、読むこともできる訳で、なかなか、スリリングな史料と言えるでしょう。

どうして顕如の祐筆だった宇野主水の記述に信憑性があるのか、興味のある方は上島氏の『本能寺の変 神君伊賀越えの真相』で様々な史料を検討して論考されていますので、機会がありましたらぜひ手に取ってご一読下さい。

 

さて、ここまで「神君伊賀越え」の大和越え説についてご紹介してきましたが、決して根拠の薄弱な妄説などではないと、感じていただければ幸いです。

 

「神君伊賀越え」は、2023年大河ドラマの「どうする家康」で主要なエピソードの一つになることは間違いなく、ドラマ本編で通説通りのルートを通るのか、はたまた異説の大和ルートが採用されるのか、個人的には楽しみでもあります。

近年の大河ドラマは、信憑性の高くなった新説を採用するケースもままある(「麒麟がくる」の松永久秀の描き方や「鎌倉殿の13人」での公暁の呼び方等)のと、ドラマ的にも通説ルート一択より、どちらのルートを選択するか決断を迫られる方が、まさに「どうする家康」というドラマ名にも合致していて面白いと思うのは筆者だけでしょうか。

 

「神君伊賀越え」の経由地とされる自治体は、大河ドラマを契機に町おこしのイベントなども企画されているかもしれません。

通説の山城ルートと、現在は異説の大和ルートが、リニア新駅を巡る奈良・京都の綱引きに匹敵する、新たな両府県対立の火種になるかもしれませんね(笑)

まあ、そうなるぐらい家康の大和越え説に関する史料の再検討や研究が、さらに進んで盛り上がってくれることを期待します。

 

参考文献

昭和40年代に一度は「妄説」と退けられた家康の大和越え説について、新たな史料を含めて論考された一冊です。

筒井順慶の生涯を、一次史料を中心に再検証された一冊。

筆者は家康の大和越え説を、この本で最初に知り関心を持ちました。

 

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