大和徒然草子

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筒井順慶とは何者か

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皆さんこんにちは。

 

2020年大河ドラマ麒麟がくる」にいよいよ筒井順慶が登場しました。

 

戦国時代に関心がある方なら、名前くらいは聞いたことがある、という人も多いかもしれないですが、ドラマや小説などに取り上げられることも少なく、一般的な知名度は正直低いかもしれません。

「元の木阿弥」「洞が峠を決め込む」といったワードを連想する人も多いかもしれないですね。

 

戦国の大事件、本能寺の変とその後の天下の動向に、深く関わった人物にもかかわらず、今までは大河ドラマでも、ほとんど無視され続けたと言ってよいかと思います。

 

従来の戦国ドラマは、三英傑を生み、江戸時代のほとんどの殿様たちのご先祖になる、東海地方出身の武将たちが、高い評価を受けがちでした。

その一方で、本来全国政治の中心である畿内の武将たちは、三英傑に粉砕される当て馬のような扱いがほとんどだったんじゃないでしょうか。

しかし、「麒麟がくる」では、主人公明智光秀幕臣であったこともあり、三好長慶松永久秀といった、畿内の武将たちが最新の研究に基づいて再評価され、重要な役どころとなっています。

そういった中で、順慶もようやく大河ドラマで主要なキャラクターとして登場しました。

 

今回は筒井順慶という戦国武将がどんな人物なのかを、かいつまんでご紹介したいと思います。 

出自について

さて、筒井順慶はどんな人?ということで、このページの冒頭が順慶の肖像画です。

見た目は完全にお坊さんですね。

実際に出家していて、陽舜房順慶というのが、僧侶としての正式な名前です。

武田信玄上杉謙信のように、出家した戦国武将は珍しくはないですが、順慶の生まれた筒井氏は、代々当主は成人すると必ず出家するという家でした。

どうしてそんなことになっているのかといえば、筒井氏は代々、興福寺別当(長官)を輩出する一乗院に所属する衆徒の一族だったためです。

では衆徒とは何なのでしょう。

中世の寺院には、役割に応じて、大きく学侶衆徒(堂衆ともいいます)という二つの身分がありました。

仏教教学の研究や儀式、儀礼に専念するのが学侶で、中世には主に貴族や高級武士の子弟が出家すると学侶となり、寺院の高位の職務を独占して支配層を形成するようになります。

一方の衆徒は、寺院の世俗的な実務全般を担当する身分でした。

高名な興福寺衆徒に、鎌倉時代を代表する仏師、運慶快慶がいますが、衆徒は様々な技能で寺院に奉仕する人々で、僧兵として仕える在地の武士もおり、興福寺は彼らを積極的に衆徒として組み入れました。

結果として、興福寺の荘園支配は強まり、大きな武力を保持して、鎌倉、室町の武家政権が大和に入り込む余地をなくして、全国でも異例の守護の存在しない国となるのです。

筒井家もそんな衆徒の一族で、特に太政官符で定められた正式な衆徒である、官符衆徒の筆頭格を代々務めた一族でした。

官符衆徒は、奈良の町の検断権(警察権+刑事裁判権)を興福寺代理人として委ねられて事実上奈良の支配者としてふるまったほか、その筆頭となると興福寺傘下の衆徒たちを指揮、指導する存在でもあったことから、大和国内では絶大な権威を持ちました。

また、官符衆徒は正式な僧侶ですから、その地位に就くには出家得度して僧侶になる必要があったので、順慶も元服と同時に出家して法体となったわけです。

ちなみに出家前は、将軍足利義藤(後の義輝)から偏諱をもらって藤勝藤政と名乗っていました。

 

そんな筒井家の当主、順昭の嫡男として1549(天文18)年に順慶は生まれました。

順昭は混乱期の大和をほぼ統一した傑物でしたが、順慶の生後間もなく病死してしまいます。

1550(天文19)年、叔父たち一門衆に支えられて、順慶は2歳で家督を継ぐことになりました。

この2歳というのは数え年なので、現在の歳の数えかたなら1歳児。

物心つく前に、南北朝の騒乱以来、全国に先駆けて戦国騒乱となっていた大和の荒波に放り込まれることになったのでした。

 

松永久秀との抗争

さて、順慶を後見した叔父の筒井順政は、管領家であり河内守護であった畠山氏と連携して、勢力の確保をはかります。

しかし、畠山氏が畿内最大の実力者となっていた三好長慶と対立すると、畠山氏と近しい筒井氏は長慶から敵視され、ついに1559(永禄)年、長慶の侵攻に遭います。

このとき三好軍を率いて大和に乱入したのが、順慶の生涯の敵となる松永久秀でした。

この時の侵攻で、筒井氏は本拠の筒井城(現奈良県大和郡山市)は維持したものの、奈良盆地から東山中にいたる大和のほぼ全域の国人たちが、久秀に攻略されたり、軍門に降ってしまいます。

久秀は、奈良町の支配や大和の国人たちを指揮し、官符衆徒筆頭である筒井氏の権威を否定する動きを見せたため、ここに順慶と久秀は、相容れることのない不倶戴天の関係となりました。

この頃の順慶の旗色は非常に悪く、久秀に追われた後見役の叔父順政が、逃亡先の堺で病死するなど、順慶は窮地に追い込まれていきます。

 

しかし1564(永禄7)年、三好長慶が病死すると、松永久秀三好三人衆の間で、三好家中の主導権争いが勃発。

三好氏は内部分裂して、内戦の様相となりました。

これを好機と見た順慶は、すかさず三好三人衆と手を結んで久秀に対して巻き返しを図ります。

ようやく反転攻勢かと思った矢先の1565(永禄8)年11月、久秀が筒井城を急襲し、不意を衝かれた順慶は、一族の布施氏の居城布施城(現奈良県葛城市)に落ち延びました。

筒井城は、久秀の大和侵攻拠点である信貴山(現奈良県平群町)と、奈良支配の拠点である多聞山城(現奈良市)をつなぐ要衝でもあったため、以後、順慶と久秀の間で熾烈な争奪戦が繰り広げられます。

 

居城を奪われた順慶でしたが、三好三人衆との同盟で勢力を盛り返して、翌年に筒井城の奪回に成功しました。

ここから順慶は反転攻勢を開始し、三好三人衆とともに、久秀の居城多聞山城を包囲します。

この包囲戦の最中、順慶は得度して「陽舜房順慶」を名乗りました。

時に順慶18歳。正式に官符衆徒となり、大和武士の頂点に立ったことを内外に宣言したといえるでしょう。

しかしこの直後、東大寺大仏殿の戦いが発生。

東大寺大仏殿を要塞化していた三好三人衆の軍に久秀が奇襲をかけ、三好三人衆の軍は大混乱を起こします。

混乱に拍車をかけたのが、混乱の中、失火によって東大寺で発生した大火災でした。

この火災で鎌倉時代に再建された東大寺大仏殿は全焼し、大仏も頭部が溶け落ち、江戸時代に再建されるまで、奈良の大仏は野ざらしとなりました。

三好三人衆は大混乱の中で潰走。河内へ撤退します。

順慶は大乗院付近(現在の奈良ホテル近辺)に着陣していて、直接この混乱に巻き込まれることはありませんでしたが、三好三人衆が撤退したため、やむなく筒井城に撤退します。

しかし、なお戦況は三好三人衆が久秀を圧倒しており、順慶も大和の支配権を取り戻すかに見えました。

そんな畿内の状況をひっくり返したのが、1568(永禄11)年、足利義昭を奉じた織田信長の上洛です。

久秀はいち早く信長に近付き、義昭の幕府に参画することに成功。

一方の順慶は、義昭と敵対した三好三人衆と同盟関係にあり、久秀とも戦っていたため義昭、信長への帰参を許されませんでした。

三好三人衆は信長と正面から激突することの不利を悟り、早々に四国へ引き上げてしまい、大和で孤立した順慶はまたもや窮地に追い込まれました。

信長から「大和切り取り次第」のお墨付きを得た久秀は、再び筒井城を攻撃。

多くの国人達が順慶を見限って久秀に寝返り、順慶は東山中の福住城(現奈良県天理市)に逼塞せざるをえませんでした。

こうして順慶は再び本拠を奪取されてしまうのです。

ここから1年あまり、順慶は歴史の表舞台から姿を消しますが、1570(元亀元)年になると、ようやく勢力を盛り返します。

というのも、このころの久秀はというと、信長の畿内平定戦に駆り出され、その主力は畿内を転戦しており、大和に軍事的な空白ができていたのです。

機を見るに敏な順慶は再び軍事行動を再開し、十市城(現奈良県橿原市)を攻略するなど、着々と反攻の準備を進めました。

 

ちなみに「麒麟がくる」で順慶が登場したのはまさにこの頃です。

ドラマの中で鉄砲を大量に注文していましたが、久秀との決戦を前に武器を調達していたとみることができるでしょう。

また劇中、順慶は堺で出会った光秀に、将軍義昭と信長へのとりなしを願い出ていましたね。

実際、順慶は信長の上洛以来、義昭、信長への接近を試みていましたが、久秀との関係もあって、中々話を進めることができていませんでした。

このあたりの事情を知ると、光秀にとりなしを願う順慶の切実さがより伝わるかと思います。

 

1571(元亀2)年、義昭と久秀の関係が悪化してくると、畿内で味方を増やしたい義昭は、突如として順慶に九条家の娘を養女として嫁がせ、急接近します。

この婚姻は「麒麟がくる」でも取り上げられていましたね。

笑顔の順慶に、憤懣やるかたなしの久秀が描かれていましたが、実際に史実でもこの婚姻によって、筒井方に寝返る国人が多数出ています。

久秀は面目を失ったばかりか、順調だった大和支配の根幹を揺るがされてしまいまったわけで、ドラマ中では、吉田鋼太郎演じる久秀が、筒井と戦だ!と息巻いていたのももっともなことです。

実際、この直後、順慶と久秀は、大和の覇権を決める一大決戦に及ぶわけですが、この戦いは残念ながらドラマでは見事にスルー。

まあ、光秀主眼のドラマなのでやむを得ないところでしょう。

という訳で、どのような戦いだったのかご紹介します。

 

同年7月、本格的に奈良多聞山城の攻略に動いた順慶は、奈良南郊の辰市に城を築きました。

この辰市城をめぐって、同年8月辰市城の戦いが勃発します。

順慶配下の嶋左近や久秀配下だった柳生新陰流開祖の柳生宗厳(石舟斎)とその子厳勝(剣豪柳生兵庫介の父親)といった、大和の戦国オールスターキャストが参加したと伝わるこの一戦は、大和の覇権を争う大規模な戦闘となり、この戦いに順慶は大勝します。

 

久秀は家老をはじめ、多くの重臣、兵を失う大敗を喫して、多聞山城へ撤退。

余勢をかった順慶は、再び本拠の筒井城を奪回しました。

そして、この戦いで挙げた松永方の首級を240信長のもとに送ったといいます。

自分の強さを信長に売り込もうとしたのでしょう。

 

信長への臣従

辰市城の戦いのあと、順慶と久秀は光秀の仲介により和睦します。

表面上は友好関係を築いたようで、茶席や能楽に同席したりしていましたが、実際には国人層の取り込み争いを水面下で激しく行っていました。

1572(元亀3)年、久秀が武田信玄の西上に呼応して信長に反旗を翻すと、松永方の諸城を攻略し、信長を側面から支援します。

この頃、光秀の仲介で信長へ急接近した順慶は、1574(天正2)年の正月、岐阜で信長に謁見。母親を人質に差し出して、信長に従属することになります。

一方、順慶と大和の覇権を争った久秀は、信長に反抗したものの、頼みの信玄の急死によって、最終的に信長に降伏せざるをえなくなります。

先の辰市城での大敗に加えて、信長への反抗、屈服で大和における久秀のプレゼンスは完全に失墜。

1575(天正3)年に、信長子飼いの原田直政が新たに大和守護に任じられ、順慶ら大和国人はその軍事的指揮下に入ることになりました。

順慶は直政旗下で長篠の戦い越前一向一揆討伐と転戦して、信長配下の外様大名として着実に実績を積みます。

その甲斐あってか、1576(天正4)年に石山本願寺との戦いで原田直政が戦死すると、その後任として大和守護に抜擢され、大和国人の軍事指揮権を委ねられました。

このときの任命の使者は光秀で、以後、順慶は光秀の与力大名として活動することになります。

 

一方、この順慶の大和守護就任は、大和の覇権を争ってきた久秀には受け入れがたいことでした。

さらに久秀降伏後に信長によって接収されていた多聞山城が、信長の命で順慶の手によって破却されます。

久秀が奈良支配の拠点として築いた多聞山城の破却は、久秀の17年に及んだ大和統一事業の頓挫を象徴する出来事でした。

しかし、順慶の風下に置かれることを良しとしない久秀は、再び乾坤一擲の挙に出ます。

1577(天正5)年8月、久秀は越後の上杉謙信、中国地方の毛利輝元石山本願寺と呼応して、再び信長に反旗を翻しました。

しかし、今回も謙信の西上が加賀でピタリと止まってしまったため、大和で孤立した久秀は、信長の主力軍の総攻撃を受けることになります。

その先鋒となったのは、当然ですが大和に領国を持つ順慶でした。

久秀が籠る信貴山城の支城、片岡城の攻略と、それに続く信貴山城への総攻撃で最前線で順慶は奮闘します。

順慶の活躍もあり、10月10日、信貴山城は落城。

天主は炎上し、久秀は自害して果てました。

奇しく東大寺大仏殿が10年前に焼けた、同じ日のことでした。

 

こうして松永久秀は亡び、順慶は大和国外には大和守護、大和国内には官符衆徒筆頭として、内外に大和の支配者としての地位を確立します。

2度も居城を奪われるなど、久秀との戦いでは度々窮地に追い込まれた順慶でしたが、1570年以降は巧みな外交戦略で味方を増やし、辰市城の戦いでは久秀を直接対決で撃破するなど、その実力はもっと高く評価されていいんじゃないでしょうか。

 

その後の順慶は、信長配下の有力外様大名として各地を転戦し、播磨攻めや反乱を起こした荒木村重の居城、有岡城攻めなど、あわただしく従軍します。

一方、大和国内でも、反抗的だった国人衆の粛清をすすめて着々と勢力を扶植し、直轄領18万石、指揮下の大和国人衆たちの総石高を合わせると、45万石という、信長旗下でも屈指の動員力を誇る大名となるのです。

1580(天正)年、信長の命で大和国は、郡山城を残して全ての城が破却され、順慶は居城を筒井城から郡山城へ移しました。

近世、大和最大の城下町となる郡山の歴史は、この時から始まります。

 

本能寺の変

1582(天正10)年6月2日、京都本能寺に宿泊していた信長は、明智光秀の急襲を受け、嫡子信忠ともども討ち取られます。

史上もっとも有名な政変、本能寺の変の勃発です。

さて、光秀が謀反を起こすにあたって、頼りとした大名が二人いました。

愛娘、を輿入れさせ、足利義昭の家臣時代から関係の深かった丹後宮津11万石の細川藤孝忠興親子。

そして傘下で最大の軍事動員力を持つ、大和郡山18万石、与力衆を含めると45万石の順慶です。

 

順慶と光秀の関係は、順慶が信長に従属する際、仲介の労を光秀がとったことに始まります。

光秀は順慶の内政、軍事のサポートを事あるごとに行い、畿内の軍事指揮権を握ると、順慶もその与力に組み込まれました。

茶席をともにするなど、個人的にも親しい間柄だったことが伺えます。

 

6月2日、順慶は東国への出兵を命じられていたことから、早朝京へ向かって出発しました。

しかしその途上、信長が西国へ向け京を発ったとの報を受けて、郡山へ引き返します。

実際にはこれは誤報で、その日の早朝、信長、信忠親子は光秀によって殺害されていたのです。

本能寺の変後、畿内の武将たちは、光秀に与するか否かの決断を迫られることになりました。

光秀の盟友、細川藤孝はいち早く味方することを拒否し、剃髪して家督を忠興に譲ります。

一方の順慶は、少数ながら手勢を近江に送り、当初は光秀に味方するかのような動きを取りました。

しかし、順慶自身は出馬せず、旗幟を明らかにすることがなかったので、いち早く立場を表明した藤孝の「果断」ぶりに対して、「日和見」したと揶揄されることになるのですが、ちょっとこの評価は順慶にはかわいそうに思います。

藤孝だって、京都から遠く離れた宮津ではなく、旧領の長岡あたりの大名だったとしたら、きっと順慶と同じような態度をとっていたのでは思うのです。

当時はまだ信長の生死が明らかになっていませんでした。

そのため、すぐに光秀の味方をするというのは、万一信長が生きていた時のことを考えると、採れる策ではありません。

かといって、明らかな敵対行動をとれば、光秀の攻撃を正面から受ける恐れがあり、順慶とすれば消極的に、最低限の協力をするというのがとりうる最善の策だったのでしょう。

しかし、6月9日になると、秀吉が毛利と和睦を結び、猛スピードで反転しているとの情報が順慶にも入り、光秀の要請で進めていた河内への出兵を、順慶は延期させます。

この日に順慶は秀吉に味方することを決断したようで、翌10日には河内に出兵していた光秀への援軍を全て撤退させました。

これに対して、光秀は自ら兵を率いて山城河内国境の洞ヶ峠に着陣。重臣であり、長年順慶との連絡役であった藤田伝五郡山城へ派遣して、味方に付くよう説得を試みます。

しかし、順慶はこれを拒絶しました。

順慶自身、光秀と秀吉のどちらにつくかは相当揺れていたようで、この日順慶が切腹したという風聞が当時の僧の日記に残されているほどです。

公私ともに親しかった光秀に味方したいという気持ちと、生き残るにはどちらにつくべきかという、筒井家当主としての責任のはざまで苦しんだ末に出した結論だったのでしょう。

翌11日には秀吉に誓紙を差し出して、正式に秀吉に味方することを表明するとともに、与力の大和国人衆を郡山城へ集め、秀吉方につくことで大和国内の意思を統一させました。

13日の山崎の戦い本戦への参陣は間に合いませんでしたが、光秀が敗亡した後も大和一国を安堵されるのです。

秀吉にすれば、大和45万石の軍勢が動かなかっただけでもありがたかったんじゃないでしょうか。

また秀吉は、光秀討伐後も織田家中での主導権争いを勝ち抜くため、一人でも多くの味方を作っておきたかったとも考えられ、順慶を粗略に扱うことは得策とは言えませんでした。

順慶は山崎の戦いには参陣しないことで光秀への義理も果たし、秀吉には最も高値で自身を売りつけた形になったと思います。

そう考えると、本能寺の変のあとの先の見えない状況下で、順慶の行動は最適解の一つだったということができるでしょう。

 

さいごに

山崎の戦いのあと、順慶は常に秀吉に従って行動します。

賤ヶ岳の戦いにも出陣し、秀吉の織田家中での覇権獲得に貢献しました。

しかし、1584(天正12)年になると、徐々に体調が悪化します。

病身でありながら、小牧長久手の戦いにも参加し、主に伊勢方面に出兵しました。

しかし7月になると病状が悪化し、8月、郡山城内で世を去りました。

享年38。短くも、波乱に満ちた生涯でした。

順慶には子がいなかったので、従弟の定次が養子として跡を継ぎます。

定次は家督を継いでも出家せず、官符衆徒として興福寺の権威による従来の支配体制を完全に放棄します。

順慶の時代から、筒井家は興福寺の支配を完全に離れ、近世大名化を進めていましたが、順慶の死によって興福寺による大和支配は名実ともに終わったといえるでしょう。

 

駆け足で筒井順慶の人生をご紹介してきましたが、短い人生ながら、非常に波乱に富んだ人生を送った人物でした。

生まれてすぐに父を失い、幼少期から畿内の覇者である三好長慶と対峙して、戦国を代表する名将松永久秀と、若年ながら巧みな外交戦略で互角の戦いを繰り広げます。

また、本能寺の変という未曽有の事態に際しては、決して事態に流されるがまま、日和見で何もしなかったという人物ではなく、情勢を的確に判断して、最善手を模索しながら打ち続けた、優れた武将でした。

麒麟がくる」がきっかけで、三好長慶松永久秀らの再評価がますます加速する中、筒井順慶の評価も、これを機会に高まってほしいと願います。

 

さらに順慶について詳しく知りたいという方はこちらをご覧ください。

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中世大和を支配した興福寺の実態に興味のある方は、こちらをぜひご覧ください。

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