大和徒然草子

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強訴。時の権力者を震撼させた興福寺

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皆さん、こんにちは。

 

平安時代末期から、興福寺は各所に荘園を持ち、それを守るための大きな武力も備えて、中世大和の支配者として君臨しました。

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興福寺が中世、その力を世に示した行動に「強訴」があります。

畿内の大寺院は、平安末期から自身の権益を守るため盛んに強訴を行うことで、時の世俗権力を動かしてきました。

数ある寺院の中でも、興福寺延暦寺は「南都北嶺」と権力者から恐れられ、とくに盛んに強訴を行った寺院として知られます。

 

興福寺の強訴は平安時代末の10世紀から室町時代後半の16世紀にかけ、実に80回以上に及び、その多くで時の権力者たちは、興福寺の要求をのまざるを得ませんでした。

院政期以降は、朝廷も武士を動員して強訴に対抗することもあり、武力だけで権力者を動かすことは難しかったはずです。

にもかかわらず、興福寺の強訴は、どうしてこれほどまでに効果を出したのでしょう。 

神木動座(しんぼくどうざ)

さて、興福寺で強訴が行われるときの基本的な手順を見ていきましょう。

 

強訴の理由は様々ですが、多くは荘園の権益をめぐり、国司や武士、東大寺多武峰といった他の大寺院と対立が発生した場合や、関連寺社の人事、興福寺衆徒や春日社神人が殺傷された場合などの加害者処罰をめぐるものでした。

 

まず、興福寺全体の権益にかかわる事案が発生したとき、全僧侶を招集して満山集会(まんざんしゅうえ)という会議が開かれます。

この会議は、興福寺の最高意思を議決するもので、大きな特徴は参加者が平等に意見を出し合うところです。

興福寺では出自に応じて厳格に身分が定められており、特に貴族出身者で固められる学侶と、一般出身(武士含)の堂衆たちとの間には大きな身分上の隔たりがありました。

しかしながら、この満山集会に参加するときは、すべての僧侶が裏頭(かとう)と呼ばれる覆面で素顔を隠し、声色を変えて話すことで、身分の上下に関係なく議論を交わします。

世俗の家格制度が、そのまま持ち込まれていた中世の寺院社会でしたが、興福寺全体の意思を決定するこの満山集会では、本来的に仏教の持つ平等性を、参加者の匿名性を保証することで実現していたのです。

この満山集会での決定事項は、全山の総意として速やかに実行に移されました。

 

この満山集会で強訴が決まると、衆徒たちは春日大社の本殿などに安置されている神鏡を、榊の枝につけて注連をかけて神木とし、大社本殿脇の移殿に遷座させ、強訴の予告を行いました。

興福寺の要求が、朝廷や幕府に受け入れられれば、直ちに神鏡はもとの位置に還御して強訴は終了しますが、要求が受け入れられない場合は、この神木を段階的に京都へ向かって移動させ、権力者への心理的圧迫を図ります。

これを神木動座といいました。

「要求を聞かないと、ご神木の祟りに遭うぞ!」

というわけですね。

ちなみに、神木を使った強訴のことを「榊振り」とも言います。

強訴は、僧兵の武力による物理的圧力だけでなく、当時神仏習合で一体の関係にあった春日大社の神威による、精神的圧力をともなうものだったのです。

 

移殿に神木を動座させて、要求が受け入れられない場合は、神木を興福寺の金堂に移し、石上神宮、吉野勝手明神に神輿の派遣を要請し、大和国中の荘園から農民たちを動員して、人数を揃えます。

準備が整うと、春日社の神人が神木を奉じ、衆徒たちが隊伍を組んで京都に向かって進発します。

奈良坂越えで現在の国道24号線のルートを北上し、いったん宇治平等院に入って再交渉を行い、この交渉も決裂した場合は神木ごと入洛し、藤原氏大学別曹である勧学院などに安置されました。

場合によっては御所の門前に神木を掲げて威圧することもあったようで、それでも要求が受け入れられない場合は、神木を京都に安置したまま神人たちが引き上げる「振り捨て」を行うことで、さらなる心理的圧迫を与えました。

 

「放氏」による朝政のマヒ

強訴が物理的圧迫だけでなく、心理的圧迫を伴うものであったことが分かりましたが、当時の権力者、とりわけ朝廷にとって最大の脅威は、興福寺によって行われる藤原氏公卿たちに対する「放氏」処分でした。

放氏とは、氏族からの追放、勘当を意味します。

本来藤原氏における放氏は、藤原氏の氏の長者である藤氏長者が行うべきものですが、強訴に際しては、藤原氏の氏寺である興福寺別当が、春日明神の意向として藤氏長者に命令して、興福寺に従わない藤原氏の公卿を強制的に放氏していました。

中世は家格制度が支配する社会であり、自らの氏族から追放されることは、現在の地位につく根拠そのものが失われることを意味します。

つまり、放氏されれば官位や政治的地位、それにともなう荘園に対する権利など、全てを失うことに通じるのです。

 

興福寺による強訴が行われた場合、とくに神木の入洛後は、藤原氏の公卿たちは自宅への謹慎が求められました。

もし藤原氏の公卿がこれを破って、朝廷へ出仕したり、強訴に異議でも唱えようものなら、すぐさま放氏処分となります。

中世の朝廷は、そのほとんどが藤原氏の公卿により運営されていましたから、強訴が起こると、その過半が出仕できないことになり、朝政はたちまちマヒ状態に陥ったのです。

 

朝廷は神木の入洛を阻止しようと、武士たちを宇治あたりまで派遣する場合もありましたが、武力衝突を引き起こして、興福寺側に死傷者が出た場合は、それを理由に、京都を防衛した武士の罷免や死罪を求める強訴が再び引き起こされ、最終的に興福寺側の要求が、どのような無理であろうと通る状況となったのです。

人々はこのような状況を、興福寺の前身である山階寺の名から「山階道理」と皮肉を込めて呼びました。

 

神木が帰座するときには、藤原氏の公卿、殿上人が奈良まで供奉して、春日大社に祈謝し、天皇の命で奉幣使が春日大社と京都におけるその分社である大原野神社吉田神社に派遣されました。

 

このように強訴は、僧兵の武力と春日大社の神威だけでなく、放氏という当時の社会制度に根差した強制力をともなうことで、時の権力者たちをねじ伏せる実効力を持ったのです。

 

強訴の衰退

院政期から鎌倉時代を通して猛威を振るった興福寺の強訴ですが、室町時代の初めに衰えを見せます。

その大きな要因は、室町幕府、とりわけ足利義満から始まる、足利将軍による朝廷支配でした。

義満は征夷大将軍として武家の棟梁として君臨するだけでなく、公卿としても頂点に上り詰めて朝政も主導します。

まさに公武一体となった政治体制であり、公家社会とは一線を画した鎌倉幕府と全く異なる室町幕府の特徴でした。

 

さて、南北朝時代の1379(康暦元)年8月14日、興福寺十市遠康ら南朝方武士により横領された寺社領の回復を求め、神木を奉じて洛中に入ります。

例によって興福寺への遠慮から、摂関家を筆頭とする藤原氏系の公卿たちが、朝廷への出仕を控える中、源氏である義満は興福寺の放氏を恐れる必要もないため、宮中への出仕を続けます。

そればかりか、翌1380(康暦2)年には長らく宮中で途絶えていた御遊始、作文始、歌会始を立て続けに復興。

朝廷を主導する動きを見せて、逆に興福寺衆徒たちを威圧しました。

そして同年12月には、十市討伐の約束以外、具体的な成果がないまま神木帰座となります。

史上初めて興福寺の強訴が失敗した瞬間でした。

この強訴失敗は、興福寺の権威を大きく失墜させるものとなり、以後、神木動座は宇治平等院にとどめられ、洛中に入ることがなくなるのです。

 

一方の義満は、興福寺の強訴による朝廷の空洞化を利用することで、朝政を主導することに成功。興福寺の強訴を退けたことで、寺社勢力に対しても優位に立つこととなりました。

こうして義満は武家だけでなく、公家や寺社といった全ての権門を従える、空前の権力を握ることになったのです。

 

室町将軍の出現により、放氏という切り札が弱体化したことは、興福寺の権威を大きく損なうものでした。

しかも、興福寺はその後も放氏を濫発することで、自らその権威を貶めていきます。

特に1509(永正6)年、多武峰との所領争いにともない、多武峰が祀る藤原氏始祖の藤原鎌足の放氏を提案するに至っては、藤原氏廷臣たちの嘲笑を買うありさまとなりました。

 

16世紀にはいると、大和国内の戦乱が激しさを増して、神木動座の実施が困難となります。

ついには1501(文亀元)年に細川政元の配下で大和に乱入した赤沢朝経による寺領横領を訴えて、別殿に神木を移動させたことを最後に、神木動座は行われなくなります。

 

まさに興福寺の隆盛とともに活発化した強訴ですが、16世紀の初めには、世俗権力としての興福寺の衰退とともに、その姿を消したのです。