皆さんこんにちは。
嶋左近(島左近)といえば、関ケ原の戦いで西軍を率いた石田三成の重臣として知られています。
特に関ケ原の前哨戦ともいうべき杭瀬川の戦いで東軍を打ち破り、関ケ原の戦いでも石田隊の主力として奮戦して武名を轟かせ、今も小説や漫画、映画やゲームなどにも登場する戦国の有名人です。
一方、これだけ有名にもかかわらず、その実像に謎が多い武将でもあります。
特に三成に仕える以前、筒井氏時代の活動については、信憑性において有力な多聞院日記などの同時代に書かれた一次史料にほとんど名が見えず、その出自や、いつから筒井順慶の家臣だったのか、などについても深い謎に包まれています。
三成に仕える以前は、大和国の国人大名である筒井順慶の有力家臣で、幼主を松倉右近と支えた、などの巷間伝わる左近像の多くは、江戸時代に書かれた軍記物「和州諸将軍傳」などにしか見られないもので、諱や出生にも諸説入り乱れているというのが実情です。
今回はそんな左近の出自について、わかっていること、わからないことなど、諸説ご紹介していきたいと思います。
名前について
嶋左近はとかく謎の多い武将です。
そもそも名前からして、諸説入り乱れています。
まずは苗字。
同時代の史料などには「嶋」と記載されていることが多いのですが、近年の多くの書物では島左近とされています。
しかし、2016年に発見された自筆書状では「嶋」と署名していることから、本人は「嶋」と名乗っていたことが分かります。
※そのため当ブログでは基本的に「嶋左近」と記載しています。
続いて諱ですが、これも勝猛、友之、清胤、清興など資料によりまちまちです。
これについては、近年発見された、1590(天正18)年の日付のある自筆書状の署名や、筒井氏家臣時代の1577(天正5)年に、春日大社へ左近が奉納した灯篭に刻印された名が「嶋左近烝清興」とあることから、少なくとも天正5年以降、清興と名乗っていたことは間違いないと言えます。
<春日大社の灯篭は下記リンクを参照ください>
http://www.m-network.com/sengoku/sakon/tourou_ex.html
対馬出自説
次に出自について、見てみましょう。
まず、対馬説ですが、これは幕末の1851(嘉永4)年に完成した「大日本野史」という歴史書に記載されているものです。
その内容はというと、「左近勝猛の父は対馬出身で左内友保といい、大和平群郡西宮に住んで筒井氏に所領一万石をもって仕えた。」というものです。
要するに、お父さんが対馬出身で現在の奈良県平群町に移住してきたというものです。
また、1977年編纂刊行された対馬の地元資料である「対馬人物志」では、左近は対馬出身で、天正の初め頃、大坂に出て秀吉に仕えようとしたが、三成がその才を見込んで自身の家臣としたとあります。
また、同じく地元資料である「対馬島志 町村編」には、対馬島山の山上に関ヶ原の西軍謀将であった島左近の墓があり、左近は島山の出身であったと伝承されていると記載されています。
また、文禄の役で朝鮮へ渡海した対馬の地侍たちの中に島姓の者が6名あり、その筆頭に左近の名が見えるとあります。
実際に、対馬の島山(対馬中部の島内島)には左近の墓と伝わる五輪塔まで現存します。
さて、対馬説の信憑性なのですが、まず嶋氏の出自について見ていきましょう。
対馬説では、嶋氏が平群谷に移住したとされますが、大和国の嶋氏の文献上の初見は1329(嘉暦4)年にまで遡り、鎌倉時代末期にはその活動を確認できる一族であるということです。
なので、嶋氏が父親の代から平群谷に居住したというのは、史実に反しているかと思われます。
また、仮に、たまたま平群谷の嶋氏と同姓の左近の父が移住してきたと仮定しても、当時の大和で1万石の大禄をもって、縁も所縁もない新参者が、筒井氏に召し抱えられるというのは、にわかには信じがたいと思います。
全盛期の筒井順慶は18万石の大名でしたが、戦国期、筒井氏の所領は大きくとも6~8万石程度で、1万石の領地といえば有力国人級です。
地縁血縁や家格が重視される中世社会で、対馬からやってきた新参者を、自領の1割以上を割いて召し抱えるというのは、どうしても考えにくいというわけです。
また「対馬人物志」にある、天正の初年に対馬から大阪に出てきて三成に仕えたというのは、どう考えてもつじつまが合いません。
というのも、当時の一級史料である「多聞院日記」にも、筒井順慶の没後まで、左近が筒井氏に仕えていたことが明記されているためです。
また、「対馬島志」については、この資料の中でも、対馬から朝鮮に渡った島左近が、いわゆる関ヶ原で勇名をはせた島左近ど同一人物かどうかは分からないとしています。
以上を踏まえると、対馬出自説は、いささか信憑性に欠けるかなと、私は考えますが、戦前権威の高かった「歴史人名辞典」の「島勝猛」の項には「對馬の人」と記載されており、ここから対馬説は広がっていったのではないでしょうか。
近江出自説
次に近江出自説です。
この説の出典は1942(昭和17)年に発刊された「近江国坂田郡志」という資料です。
その内容ですが、京極氏の被官であった近江国飯村の国人であった嶋氏の一族は、1573(天正元)年に織田信長によって浅井氏が滅亡したとき領地を失い、各地に離散したが、その時順慶に仕えた一族の者が左近であるという説です。
米原市近江町飯にある春日神社は、かつて嶋氏の館跡で、神社の境内にある説明版にも「嶋左近は当地の出身といわれている」と記載されています。
※説明版などは下記のブログで確認できます。
この説を取ると、左近と三成は同郷ということになり、三成が筒井家を辞して浪人となっていた左近を重臣として迎えたというのも、すんなり腑に落ちるかなと思われ、結構根強い説ではあります。
では、この説の信憑性ですが、気になるポイントは、近江の嶋氏が領地を失った1573(天正元)年8月というタイミングです。
まず、多聞院日記に初めて筒井順慶の家臣として嶋氏の人間が登場するのは、1570(元亀元)年4月、十市城に調略の使者として「嶋」が派遣されたとあるのが初見です。
この「嶋」が左近であった場合は、あきらかに辻褄が合わなくなります。
※もっとも、この「嶋」が左近その人である確証もないことは、注意しておかねばならないでしょう。
しかし、なんといっても近江説の弱いところは、文献的に左近が近江嶋氏の一族であることを示す史料が無いことに尽きるでしょう。
近江嶋氏の系譜や事績が記録された嶋記録や、嶋氏の系図には、肝心の左近の名が見えないのです。
近江説を主張する人の中には、徳川の時代になったため、その目を憚って記録から抹消したなどという声もあるようですが、それを言っては何でもアリの世界になってしまいます
以上から、新たに近江嶋氏と左近を結びつけるような、文献なり証拠が見つからない限り、近江説は筒井氏退去後の左近の動向から、かつて領地を失って離散した近江嶋氏を結び付けた、推論の域を脱しないと言えるでしょう。
大和出自説
さて、最後は大和説です。
当ブログの趣旨的には、ばちーんと「大和説で決まり!」と言ってしまいたいところですが、残念ながら確証はない、というのが現在のところの結論です。
ただし、他の出自説に比べ、圧倒的に否定する材料が少ないことは間違いなく、現状最も有力な説であると思います。
では、平群谷に割拠した嶋氏とはいかなるどのような一族だったのでしょう。
まず、平群谷の場所はこちら。
生駒山地と矢田丘陵に挟まれ、龍田川によって形成された谷間になります。
ちなみに奈良県平群町では、左近は地元のスター武将としてマスコットキャラ化されてます。
その名も「左近くん」。
コミュニティバスやその停留所など、町のそこかしこで見かけます。
左近「くん」というくらいで、平群で活躍してたのは若いころなんだから、子供時代とかを意匠にすればいいと思うんですが、なぜか姿はお爺ちゃんです。
やはり、関ヶ原前後のイメージが強いということなんでしょうね。
もっとも、その頃はすでに滋賀の人なんですが。。。
閑話休題。
嶋氏の人物とみられる文献上の初見は、先述している1329(嘉暦4)年の春日行幸の設備用竹の在所注文に記載された「平群嶋春靏」とされています。
その後もしばしば同時代の史料に名が見え、室町時代の初めごろには、春日社の国民にして、興福寺の別当寺院の一つ、一乗院に属していたとみられます。
一乗院といえば、筒井氏も同じく一乗院衆徒として知られていますね。
さて、この嶋氏なのですが、頻繁に同時代の史料に、その名や当時の当主と思しき人物の名が現れるものの、系譜が全く伝わっていません。
なので、左近が嶋氏のどのような系譜に属する人物なのかは、現状不明です。
では、左近の出生に関する記述がないのかといえば、一つだけあるのでご紹介しましょう。
多聞院日記の1567(永禄10)年6月21日の条に下記のようにあります。
今朝平郡嶋城ヘ庄屋入テ、継母・同男十五才ヲ始テ、至二才五人并御乳一人・南夫婦合九人令生害、親父豊前方ハ立出候了
要約すると「平群の嶋城に庄屋が討ち入って、その継母や一族が多数自害に追い込まれた。父親の豊前は脱出に成功した。」という記述です。
左近の父については、同時代の一次史料では見つかっておらず、幕末に水戸藩の大日本史編纂に当たって収集された系譜をもとに作成された「諸系図纂」に「父は豊前守、興福寺持寶院を建立」とあります。
そこで、「親父豊前」を豊前守としたとき、その子の「庄屋」は左近ではないかとされているわけです。
この時城を追われた「親父豊前」ですが、法隆寺に残された1560(永禄3)年3月3日付の湯屋坊(風呂場か?)の売買契約書の署名に、「嶋豊前守清國」とあり、「親父豊前」と「嶋清國」は同一人物であろうという説があります。
http://www.m-network.com/sengoku/sakon/buzen.html
左近の諱「清興」と同じ通字「清」を「親父豊前」が持っていたとすれば、「親父豊前」が左近の父親であるとする説の補足となるでしょう。
「庄屋」が左近だとすると、左近は一族の城に乱入して、多くの身内を殺害したことになります。
なぜこのような事件が起こったのか、原因についての史料はないため、真相は闇の中です。
しかし、当時の状況から、筒井順慶と松永久秀の一連の戦いの一部であった可能性はあるでしょう。
1567年6月といえば、東大寺近辺で、筒井順慶、三好三人衆の連合軍と、松永久秀が対峙していた時期です。
ちなみに東大寺大仏殿が焼け落ちたのが同年10月10日になります。
久秀の重要拠点であった信貴山城のふもとに位置する平群谷は、当時松永方に属していた可能性が高いと思われます。
左近がこの時期に順慶配下の武将であり、父の豊前は松永方であったと仮定すれば、久秀の拠点である多聞山城と信貴山城の連絡路を絶つ作戦の一環として、左近が父の城に討ち入ったと、考えることもできるでしょう。
戦国時代に親子、兄弟で敵味方に分かれる例は、決して珍しくはありませんしね。
と、ここまで長々と述べてきましたが、左近の出自が大和であったという説の信憑性はどれほどのものでしょうか。
結論から言えば、「確たる証拠はないけど、最も蓋然性の高い説」といえるでしょう。
平群谷の嶋氏は、同じ一乗院衆徒として筒井氏と行動を共にすることが多かったため、嶋氏出身の左近が、順慶の家臣となることに、まったく不自然さはありません。
また後年、左近の娘珠は、柳生兵庫助の妻となりましたが、柳生家は1559(永禄2)年に始まる久秀の大和侵攻以後、大和では一貫して反筒井陣営におり、筒井家臣であった上に、関ヶ原でも敵方となった左近の娘を、柳生家が受け入れるというのは少し不自然な感もあります。
しかし、柳生氏も嶋氏も同じ春日社の国民であり、両家の間に春日社を通じた横のつながりがあったと考えれば、両家の結びつきも不自然なものではなくなります。
「剣豪、柳生石舟斎と島左近は敵味方であっても、武芸などを通じて個人的な友誼を深めていた」みたいな時代小説めいた挿話がなくてもつじつまが合うわけです。
もっとも、こちらのほうが、ドラマの筋立てとしては面白いかもしれませんが。
有名人でありながら、その半生は全くの謎という点は、明智光秀などとも共通しますね。
それだけに様々な創作で、自由に動かしやすい人物といえるかもしれません。
<参考サイト>
次回はこちらです。