皆さんこんにちは。
これまで3回にわたって、奈良県各地に広く伝わる妖怪たちについてご紹介してきました。
今回は少し趣向を変えて、地域に語り継がれる不思議なお話を紹介しようと思いましたので、私の地元、大和郡山に伝わる怪異や、不思議な伝承をご紹介します。
三の丸蛙
まず最初は郡山城に関する怪異です。
郡山城の三の丸(現在の大和郡山城ホールから市役所にかけての区域)には、梅雨時になると2、3mmほどの、とても小さな蛙が何万匹も現れたといいます。
これを三の丸蛙といい、城で処刑された者たちの妄念といわれています。
何万匹もの小さな蛙がうごめくというのは、なかなかグロテスクな光景ですね。
現在郡山城三の丸の堀は、市役所前にちょっとだけしか残されていませんが、昔は 蛙や水辺の生き物も多かったのでしょう。
源九郎狐
大和郡山市街の洞泉寺町に、源九郎稲荷神社というお稲荷さんがあります。
場所はこちらで、遊郭の風情が今も残る街並みの参道を南に進むと、お社が見えてきます。
豊臣秀吉の弟の豊臣秀長が郡山城主の時代、長安寺村(現大和郡山市長安寺町。近鉄平端駅付近)に草庵を構えていた宝譽という僧の夢枕に、静御前を吉野に落ち延びた源義経のもとに導き、義経からその名を与えられた白狐、源九郎狐が現れ、 自分を郡山城の辰巳に祀れば守護神となって城を守ると伝えました。
宝譽からこの話を聞いた秀長が郡山城内の竜雲郭に社を祀り、1719(享保4)年に現在の位置に移ったといわれています。
この源九郎稲荷神社にまつわる不思議な伝承が「綿帽子」のお話です。
柳町にある帽子屋に、男が綿帽子を買いに来ました。
男は「代金は月末に洞泉寺の源九郎稲荷に取りに来てくれ」と言って去りました。
月末、店の主人が代金を受け取りに源九郎稲荷神社を訪れましたが、社人に事情を話しましたが、社人は知らないと言います。
押し問答していると、白狐が綿帽子をかぶり、眷族を引き連れて現れたといいます。
この綿帽子の話は他にもバリエーションがあり、女性が子供のために帽子を3つ買い求め、代金は源九郎稲荷に取りに来るよう言われたため、後日店の主人が神社に行っても神社にその女性はおらず、不審がっている主人の前に、綿帽子を被った3匹の子ぎつねが現れたというものもあります。
こちらはとてもかわいらしいお話になっていますね。
源九郎稲荷神社は、こじんまりとしたお社ですが、1747(延享4)年、大坂竹本座で初演となった人形浄瑠璃「義経千本桜」が大当たりとなり、歌舞伎となって江戸でも上演されると源九郎狐は全国的な知名度となります。
このメディアミックス効果もあり、今は静かなこの神社も、大変な賑わいになったそうです。
現在でも、源九郎稲荷は市民から「源九郎さん」と呼ばれて親しまれています。
毎年春のお城まつりでは、市内の少年少女が白狐に扮し、白狐囃子に合わせて踊りながら市内を練り歩く、白狐渡御が行われ、郡山の春の風物詩となっています。
時代行列・白狐渡御|金魚とお城のまち やまとこおりやま(一般社団法人 大和郡山市観光協会公式ウェブサイト)
ちなみにこの白狐渡御は、昭和の初期に洞泉寺遊郭の楼主たちが、源九郎稲荷の祭礼に際して市内を練り歩いたのが始まりで、戦争で中断されましたが、1978(昭和53)年に復活され、1983(昭和58)年からは、お城まつりの行事として行われるようになりました。
嫁取り橋の大蛇
続いては、恐ろしい人の妄念の物語です。
筒井の茶屋にこまのという娘がいました。
こまのは、街道を通る美男の飛脚に恋心を抱きました。
ある日、夕暮れに通りかかった飛脚と居合わせ、もう遅いからと、飛脚を家に泊めました。
その夜、こまのは飛脚の寝所に忍んでいきましたが、飛脚は親の病気の平癒を祈願して女断をしていたため、願掛けが敗れるのを恐れて逃げ出しました。
こまのは飛脚の後を追いかけましたが、飛脚はとある淵の傍にあった木の上に登って身を隠しました、
飛脚を見失ったこまのでしたが、飛脚の姿が月光に照らされた淵の水面に映りこんでいるのを見ると、淵の中に飛び込み、大蛇と化したのです。
以来、この大蛇は飛脚を他の女に取られまいと、淵に近づく女をことごとく殺すようになりました。
男を追いかけた女が、淵に身を投げるというお話は、在原業平伝説を想起させますね。
あるとき、この淵のそばの小川に架かる橋を、駕籠に乗った花嫁が通りかかったとき、急に雨が降り出しました。
駕籠かきが雨具を借りに行っている間に、この花嫁は跡形もなく消えてしまいました。
それから、この橋は「嫁取り橋」と呼ばれ、嫁入り道中で通ることが避けられるようになったといいます。
この嫁取り橋、実は現存しています。
場所はこちら。郡山インターのすぐ南側ですね。
※2022年4月に訪れると、橋名の板が据え付けられていました。
一見すると農道にかかる小橋にしか見えず、現在の様子からはこのような伝承が伝わる場所とはとても思えませんね。
実はこの道、古代の官道、下ツ道中街道なのです。
この橋を渡って北上していくと、有名な稗田環濠集落を経て、最終的には平城京の羅城門に至る道となっています。
現在は、この道から少し東に通る国道24号線が、奈良盆地を縦断する大幹線となっていますが、江戸時代まではこちらの道路が幹線道路で、多くの人が行きかう街道だったのです。
さて、猛威を振るう嫁取り橋の大蛇ですが、これには退治譚も伝わっています。
昔、八条(大和郡山市八条町)の庄屋に、乳母がいて、近くの土山で子守のため庄屋の子供と一緒によく遊んでいました。
この土山には親子の狐が住んでいたのですが、あるとき母狐が子狐を残して死んでしまいます。
不憫に思った乳母は、庄屋の子供と一緒にその子狐を育てました。
年月が経ち、子狐と一緒に育った庄屋の子供は親を継いで庄屋にりました。
そんなころ、郡山城の殿様の命令で、嫁取り橋の大蛇を退治することになり、庄屋に大蛇の退治が命じられました。
庄屋と一緒に育った狐は、今が恩返しの時と思い立ち、勅使の大行列に化けて石上神宮の宝剣を借り受けます。
庄屋は見事に宝剣の霊力に守られ、大蛇を退治しました。
この時用いた宝刀が、石上神宮に伝わる「小狐丸」と伝えられます。
また、源九郎稲荷神社の社伝にも、この時の退治譚が伝わっています。
こちらの社伝では、大蛇は源九郎狐の助力で退治され、そのとき大蛇の尾を切り落とすと一振りの刀が出てきたため、「小狐丸」と名付けて石上神宮に奉納したとされます。
なお、小狐丸は石上神宮に現存しており、平安時代末から鎌倉時代にかけて活躍した備前の刀工義憲の作とされる名刀です。
こちらの社伝では、稲荷神の助力をもらって鍛えた刀なので小狐丸と名付けられたとされています。
各社とも、多くの参詣者を呼び込もうと、自社の霊験にまつわる色々な縁起話が生まれていったことがうかがえますね。
牛の宮
最後は、大和郡山市池之内町に伝わる、牛の宮という塚のお話です。
ある百姓が6年の年季奉公で、10歳になる小僧を雇いました。
この小僧は大変な働き者でしたが、3年後、年季を3年残した年ににわかに病となり、亡くなってしまいました。
その後、百姓の夢枕に小僧が現れ、「年季を3年残して死んでしまい、申し訳ありません。明日、牛飼いが1頭の黒牛を引いてきますが、私はその牛になって残りの3年働きます。」と言って消えました。
翌日、夢で小僧が言ったとおり、牛飼いが黒牛を引いてきたので、百姓はその黒牛を買いました。
その黒牛は、他の牛の何倍もよく働く牛でしたが、買ってから3年後に亡くなってしまいました。
百姓は小僧が黒牛に生まれ変わって、残りの年季奉公を務めに来たのだと、牛の亡骸をねんごろに葬り、その塚の名は「牛の宮」と呼ばれるようになりました。
死んでなお年季を務めあげようとする小僧さんの、なんとも、もの悲しい物語ですね。
また、債務を果たせないまま亡くなったものが、残りの債務を牛に生まれ変わって勤め上げたという説話が、「日本霊異記」にあることから、その説話の影響を受けた伝説かもしれません。
牛の宮の場所はこちらです。
「伝説の森」と呼ばれる小さな叢林の中に塚があり、「うしの宮」と書かれた石碑が建っています。
森と塚は、現在も池之内町の人々によって大切に守られています。
ちなみに、この牛の宮の伝承は、まんが日本昔話でも取り上げられました。
源九郎狐や牛の宮などは、現在なお地元の人々に親しまれている伝承といえるでしょう。
また、嫁取り橋は恐ろしい地名伝承ですが、現在小さな農道にしか見えない道が、かつては幹線道路であったことを伝えてくれます。
地域に古くから伝わる不思議なお話は、大切な郷土の記憶としてこれからも語り継いでいきたいですね。
<参考文献>