大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

国技相撲と向き合った不世出の哲人力士、笠置山

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皆さんこんにちは。

 

2020(令和2)年の初場所は、奈良県出身としては98年ぶりに、徳勝龍が西前頭17枚目からの劇的な優勝を遂げました。

奈良県は、「相撲発祥の地」(あくまで神話上ですが…)ともされているものの、明治以降の大相撲の歴史の中で幕内力士は10人ほどで、奈良県出身力士は決して多いとは言えません。

 

そんな奈良県出身力士の中で、その異才ぶりが、際立っている力士がいます。

その名は、笠置山勝一

昭和初期に大相撲で活躍した力士で、最高位は西関脇。

引退後は年寄、秀ノ山を襲名して、テレビ朝日系で1959(昭和34)年から2003(平成15)年まで、本場所中放送されていた「大相撲ダイジェスト」の初期解説者として、お茶の間でも広く知られた人でした。

 

この笠置山という力士の異才ぶりを、今回はご紹介したいともいます。

 

異色の学士力士

笠置山勝一、本名仲村勘治は1911(明治44)年、奈良県生駒郡郡山町(現大和郡山市)に生まれました。

小学生のころから相撲に取り組み、小学6年生のときには奈良県学童相撲で優勝する一方、学業も優れ、県立郡山中学校(現県立郡山高等学校)へ進学します。

郡山中学時代に力士を志すようになったものの、中学に相撲部がなかったため柔道部に在籍する一方、4年間級長を務めるなど、地元では文武両道で有名な少年でした。

中学在学中に、出羽海部屋への入門が認められると、上京後、学業を修了するため東京の早稲田中学へ転校します。

当時小学校卒業で社会に出るものも多かった中、相撲部屋に入門しながら学業を続けるというのは、非常に珍しかったと思われます。

やはり学業が相当優秀だったのでしょう。

1928(昭和3)年には早稲田第一高等学院に進学すると、相撲部に入部。大学相撲に出場するようになります。

1930(昭和5)年には早稲田大学専門部政治経済科に転入。

相撲部でも団体戦優勝などに貢献して知名度を上げましたが、出羽海親方からは大学卒業までは、本場所の土俵を踏まないようにと、言われていたようです。

当時の大学卒といえば、かなりのエリートです。

学業が優秀なため、どうにか大学はきちんと卒業させてやりたいという、親方の親心がうかがえますね。

 

しかし、少しでも早く初土俵を踏みたいと願う笠置山。そんな彼に、思わぬチャンスが訪れました。

1932(昭和7)年1月、当時の大日本相撲協会(現日本相撲協会)に対して、力士の地位向上、待遇改善を要求して、多くの力士たちが協会を脱退するという事件が起こります。

春秋園事件と呼ばれるこの事件で、十両以上の関取が14人しか協会に残らないという非常事態となりました。

この事態に出羽海親方も折れて、特別に大学在学のまま初土俵を許します。

こうして1932年2月場所、「笠置山」の四股名を与えられ、早稲田大学に在学のまま幕下付出で初土俵を踏みました。

異例の「学生力士」の誕生でした。

この年の大相撲は2月、5月が東京両国、3月に名古屋、10月に京都で本場所が開催され、その間に巡業もあったことから、学業の両立は相当に厳しいものであったと思います。

しかし、笠置山は学業を続けながら順調に出世。翌1933(昭和8)年1月場所には大学在学のまま十両に昇進しました。

こうして「学生関取」となった笠置山は、早稲田大学の卒業式には大銀杏を結って卒業したといいます。

笠置山はこうして史上初の学士力士となりました。

現在学士力士は珍しくないですが、大学在学中に関取になるような力士は、今後もう出てくることはないでしょう。

 

1935(昭和10)年1月場所では、全勝で十両優勝を飾ると、同年5月場所で新入幕を果たし、1937(昭和12)年1月場所では、生涯最高位である西関脇にまで昇進しました。

体格的に恵まれなかったため、非力な部分は対戦相手の足癖等を研究し、理詰めの攻めでカバーして、小兵ながら長く幕内上位を務めて人気を博しました、

また、一般に現役時代の笠置山は、当時連勝記録を伸ばしていた横綱双葉山の連勝阻止を目指す、出羽海一門の参謀役としても知られます。

笠置山双葉山が幼少期に事故で右目の視力をほとんど失っていたことに着目し、双葉山が右に付かれることを嫌うことから、右足を狙うことが有効と部屋の力士たちに伝えていました。

そして1939(昭和14)年1月場所4日目、前人未到の69連勝を前日までに記録していた双葉山は、出羽海部屋安藝ノ海(当時平幕、後に横綱)に、左外掛けからの攻めで崩され敗北。

残念ながら、笠置山自身は双葉山に生涯勝利することはできませんでしたが、笠置山の理論の正しさが実証された瞬間でもありました。

 

このように、知性派、技能派の力士として現役時代名を馳せた笠置山でしたが、彼の異才ぶりは、力士として土俵上で戦うだけでなく、現役力士でありながら言論、思想面でも広く活躍したことにあります。

 

「国技相撲」の誕生

昨今でも「八百長」「暴力」など、不祥事が起こるたびに、なにかと批判を受けることの多い大相撲。

実は明治から現在に至るまで、たびたび猛烈な批判を受け続けてきた興行団体でもあります。

 

まずは明治初年ごろ、急速に西欧化を目指す風潮にあって、大相撲を旧態を残す蛮習とみなす動きが現れました。

「公衆の面前で、男が裸で取っ組み合うなどみっともない」というわけです。

1871(明治3)年には、東京府が布告したいわゆる「裸体禁止令」により、東京相撲の力士が鞭打ち刑に処されるなど、大相撲は江戸時代の遺物と貶められ、存亡の危機にありました。

このような風潮にあって、大相撲の危機を救ったのは明治天皇でした。

自らも相撲をとるなど愛好していた明治天皇と、その意を汲んだ伊藤博文の働きかけで、1884(明治17)年、天覧相撲が行われます。

この天覧相撲により、大相撲の社会的地位は大幅に向上。大相撲は国家の保護を受けることで、なんとか命脈を保つことに成功します。

その後、日清戦争日露戦争による大衆のナショナリズム高揚や、常陸山梅ケ谷といった名横綱の輩出により、大相撲は一大ブームとなりました。

このブームに乗り、1909(明治42)年、それまでの両国回向院境内に臨時で建てた小屋での興行に替え、初めて大相撲興行の常設館が建設されます。

この常設館は建設落成式典のため、作家の江見水蔭が起草した「初興行披露文」の一節、「そもそも相撲は日本の国技、」から、「国技館」と命名されました。

国技館命名こそ、大相撲自身が相撲を「国技」と表明する契機であり、神事である相撲から、国技相撲へ転換する萌芽が、ここで生じたといえるでしょう。

また、この国技館の2階には、天皇や皇族を迎えるための「玉座」(現在の貴賓席)が設けられていました。

この玉座はほとんど使用されることがなかったものの、その存在自体が、訪れた観衆に対して、他の見世物興行との「別格」性をアピールする効果を生み出しました。

 

しかし、明治の相撲ブームも大正に入って再び人気が低迷します。

常陸山や梅ケ谷といったスター力士の引退が相次いだのに加え、「力士の品性向上」や「八百長の撲滅」、「旧態依然とした運営体質の改善」といった、周囲からの要求に、当時の協会が場当たり的な対応を繰り返して、大衆はそっぽを向いたのです。

しかし、現在の我々にとっても、たいへん既視感のある問題ばかりなのは驚きですね。

 

また、野球をはじめとした、欧米由来のスポーツ競技が興隆する中、相撲は、例えば当時「決まり手」の定義があいまいで、土俵下の勝負審判の判定と、各新聞の相撲記者たちで判定が異なるなど、欧米の合理的なスポーツに対して、その前近代性が問題視されるようになっていました。

こうして社会からも時代からも、取り残されつつあった大相撲を救ったのは、再び皇室でした。

 

1925(大正14)年、幼少時代から大変な好角家で、当時皇太子の昭和天皇の台覧相撲に際し、皇太子からの下賜金によって、優勝力士に送られる摂政宮賜杯が作られます。

この賜杯昭和天皇の即位にともない、現在の「天皇賜杯」となりました。

当時落ち目の東京大相撲協会は、天皇の権威を最大限活用しようともくろみ、当時懸案でもあった、大阪大相撲協会との一本化を、天皇賜杯の栄誉を分かち合うという大義名分のもと進めていきます。

当時人気の面で東京以上に苦労しており、経営の危機にも直面していた大阪大相撲協会にとっても、天皇賜杯のもとでの協会統合悪い話ではなかったのか、東京と大阪で別々の興行団体であった大相撲協会の一本化は、とんとん拍子に進んでいきました。

ところで、天皇賜杯を優勝力士に授与するにあたり、大きな問題がありました。

それは、大相撲協会が、一興行団体に過ぎなかった点です。

つまり大相撲は、伝統ある神事に由来する相撲を行う団体であることを標榜しているものの、現代的に言えば、新日本プロレス等のプロレス団体や、各種格闘技イベントを開催している団体と、何ら変わりないものだったということです。

そこでひねり出されたのが、団体の公益法人でした。

すなわち、「国技である相撲の普及と教化」を担う公益法人として、天皇賜杯を管理、授与するに値する団体たらんとしたわけです。

こうして1927(昭和2)年、東京と大阪の協会が合流して、財団法人大日本相撲協会が発足しました。

一興行団体に過ぎなかった大相撲が、公益法人として国家に公認され、天皇賜杯という天皇の権威を得ることで、不動の地位を確立した瞬間でした。

1931(昭和6)年の満州事変から、日本は戦争の時代に突入し、戦争激化でプロ野球をはじめとした他のスポーツ興行が次々と中止に追い込まれる中、国家の保護を受け、最強の興行団体となった大相撲だけは、1945(昭和20)年の敗戦に至るまで継続が許されたのです。

 

とはいえ、この公益法人という金看板が、実態は単なる興行団体に過ぎない大相撲へ、様々な課題を突き付けることになっていきます。

笠置山が入門した1928(昭和3)年は、大日本相撲協会発足の翌年に当たり、十両に昇進した1933(昭和8)年に日本は国際連盟から脱退、新入幕の1935(昭和10)年は美濃部達吉天皇機関説が排撃されました。

 

笠置山の土俵人生は、急速に高まるナショナリズム国家主義に、公益法人となった大相撲が直面せざるを得なかった時代と重なっていたのです。

 

現役力士笠置山、国技相撲と向き合う

さて、笠置山が幕内力士として活躍していた1930年代後半から~40年代前半、大相撲は不滅の69連勝を果たした大横綱双葉山を擁し、全国的な娯楽として空前の活況を呈した時代でした。

1928(昭和3)年からのラジオ中継開始により、「仕切り線」と「制限時間」が設けられたほか、優勝制度確立に伴う不戦勝制度の制定、物言いによる取り直し制度の施行など、急速に「スポーツ競技」化が進みました。

神事など、町の行事として各地で相撲がとられることは古来からありましたが、町や学校で、子供たちが盛んに「相撲ごっこ」を始めたのは、実はこの頃とされています。

 

そして時代は、満州事変を皮切りとして、日本が台湾、朝鮮半島に続き、積極的に大陸へ進出しようとする中、国粋主義ナショナリズムの高揚に基づいて、「国技相撲」が日本社会においてどうあるべきかを、厳しく問いただすようになるのです。

そのような時勢の中、大相撲は双葉山の人気もあり、興行重視の姿勢を崩そうとしませんでした。

公益法人とはいえ、実態は旧態の興行団体の域を脱することができなかった大相撲は、本来公益法人として果たすべき「国技相撲の普及と教化」という役割をほとんど果たしていなかったのです。

例外的に、10代目佐渡ヶ嶽親方である佐渡ヶ嶽高一郎が相撲体操を考案し、私費を投じて相撲の普及活動を個人的に努めましたが、協会としてこれを後援することはありませんでした。

もっとも協会は、佐渡ヶ嶽の普及活動が、あたかも協会の活動であるかのようにちゃっかりと宣伝して、大相撲に対する批判をかわそうとしています。

後に、佐渡ヶ嶽親方は1954(昭和29)年、相撲の普及活動に対する意見の対立から、協会を去ることになります。

相撲体操は後年、健康増進の観点から見直され、2014年にタニタから日本相撲協会は「タニタ健康大賞」を贈呈されるのですが、以上のような経緯を知ると、よく臆面もなく受け取れたものだと、思うのは私だけでしょうか。

 

ファッショ的な国粋主義の高まりの中で、大相撲の興行一辺倒の姿勢が強く批判される中、角界随一の知性派と目された笠置山は、ことあるごとに意見を求められるようになります。

このような要請に対し、雄弁で機知に富み、文才もあった笠置山は、現役力士ながら講演や執筆活動、著名文化人との対談といった言論活動を盛んに行います。

その活動の場は、協会の機関紙である「相撲」はもとより、当時の2大スポーツ雑誌である「野球界」「アサヒ・スポーツ」から「中央公論」「改造」といった総合雑誌まで、幅広いものでした。

特に「野球界」は編集長が早稲田の同窓であったこともあり、1940年代からはほぼ毎号のように、評論、エッセイ、対談に登場するようになります。

その内容も、相撲の解説だけにとどまらず、太平洋戦争開戦後の1942(昭和17)年のタイトルには「戦時体制下における相撲道」「大東亜戦争と相撲」といった、戦中の時事的なものが多く、対談でも、国策と相撲の関係を論じる回には、必ずといっていいほどその名を見せました。

 

それでは、笠置山はその言論においてどのような主張をしていったのでしょうか。

 

まず、「力士」の在り方として、笠置山は大相撲の力士も一個の近代的社会人であることを促します。

例えば、「相撲取りだから許される」というようなことは、世間が相撲取りを社会の埒外に置いて、土俵で相撲さえとっていればいいと考えてきたのを、力士が「特権」と誤認してきたにすぎず、そのため大相撲は「観賞的競技」となって、力士は社会の中で取り残されてきたのだと、1941(昭和16)年に論じています。

今でも不祥事のたびに批判の的となる、角界は特殊だからといった甘えの体質を、ばっさり切り捨てました。

 

また、「相撲甚句」や「初っ切り」といった、ショー的要素の強い力士による演目には批判的でした。

相撲は根本的には「武道」という考えが、笠置山にはあったのでしょう。

その思いを特に強くすることになったのは、当時盛んにおこなわれた朝鮮や満州での巡業中、その合間を縫って行われた、笠置山の講演活動にありました。

1930年代から1943年頃まで、大相撲は巡業や日中戦争開戦後は皇軍慰問で、朝鮮や満州、大陸の占領地に渡り、笠置山は行く先々で土俵に上がる一方で、現地に在住している早稲田の同窓生たちを中心に講演を要請され、相撲の起源や今後の在り方などを、講演しました。

ただでさえ強行軍の巡業に講演という仕事が加わり、笠置山は稽古不足と高負担に悲鳴を上げながらも、現地在住の人々、おそらく現地人も含まれていたと思いますが、彼らへの講演を通じて、「国技」とされる相撲の認知度の低さを知ることとなります。

外地に住む彼らへ相撲の歴史を語り、それとともに「日本精神」を語ることの意義を感じた笠置山は、大変な状況でも使命感をもって講演に臨みました。

特に釜山において、内地の相撲を知らない現地の財閥系企業の若手社員たちが、相撲のイメージとして、純粋に格技としての相撲、笠置山の言葉を借りるなら、「純な清らかな相撲」であったことにに深い感銘を受けました。

内地で大相撲といえば、「相撲甚句」や「初っ切り」など、演芸も交えた芸能的娯楽興行という側面が強いもので、笠置山はこのような現状の大相撲を「歌舞伎的相撲」とばっさり切り捨てます。

そしてこの「純な清らかな相撲」こそ、今後の「国技」相撲が進むべき道であると説いたのです。

 

また、1942年から学校教育に「相撲」が導入されると、笠置山は巡業先などで度々技術指導などの相談を受けるようになります。

柔道、剣道などと違い、相撲は体系的な技術指導の確立が進んでおらず、特に台湾、朝鮮、満州といった、もともと相撲に馴染みのない地域での相撲の指導は困難を極めていました。

協会は、相撲の普及活動をもっぱら佐渡ヶ嶽親方の個人的活動に丸投げしていた状況にあり、まったく積極的ではありません。

相撲の普及に関して笠置山は、普及活動に不熱心な協会の姿勢を批判し、内地、外地の巡業先で興行を打つときに、取り組みを見せて相撲を教えるだけでなく、引退した力士たちを同行させて技術指導を行うべきと、「野球界」の座談会で提言しています。

要するに取り組みを披露するだけでは不十分であり、指導も行うべきと考えていたのです。

そして、とくに取り組み方の心構えなど、精神面の指導についてはプロの力士でなければ指導は不可能であると考え、プロの力士による指導の重要性を説きました。

 

収益重視で旧来の娯楽性の高い興行のみ重視する大相撲。

その在り方への批判が急速に高まった戦時下の日本で、協会の内側に身を置きながら、大相撲の意義やあり方を、ときに客観的な視座で論じることで、笠置山は大相撲を守り、さらなる発展と向上を目指したのでしょう。

 

笠置山の国技相撲とは

太平洋戦争開戦後、日本国内の戦時体制は以前に増して強化され、武道に対しても国家主義的な奨励を目的として大日本武徳会が発足します。

柔道、剣道などの協会が参加する中、大日本相撲協会の参加は見送られました。

これはやはり、大相撲が武道の振興役というより、観賞用の娯楽と一般に認識されていた証左の一つといえるでしょう。

実際に大相撲は、皇軍慰問の他、具体的な「国家への奉仕」を行えておらず、興行中心で営利に走る大相撲の在り方は、ついに国会で槍玉に挙げられます。

1942(昭和17)年1月、日本自由党藤生安太郎は、「国民体力法」改正案の国会審議の中で大相撲への猛烈な批判を行いました。

藤生はもともと柔道家で、武道を国策に活用する旗振り役を担う立場にあった人物です。

 

さて、その批判の内容ですが、まず藤生は相撲が、心身を鍛錬するのに大変優れた武道であると説きます。

しかし、「あの両国の相撲」は彼のいう「正しい相撲」では決してないと主張しました。

「両国の相撲」は、旦那衆が芸者連れで酒に酔いながら楽しむ「娯楽」であり、そのようなものを武道と呼ぶのは、武道に対する冒涜であり、武道とはもっと荘厳で神聖なものでなければならないと述べました。

要するに大衆的な娯楽興行である大相撲は武道ではないと言い切ったのです。

さらに藤生は、このような大相撲を、柔道、剣道と同列に議論すべきではないと述べたうえで、厚生省の武井次官に対し「大相撲は武道であるか、娯楽であるか」と質問して答弁を求めました。

武井次官の回答は、藤生のいう「正しい相撲」とは、いうなれば「角道」というものであって、「角道」は立派な武道であるから、十分に維持育成していきたい、というものでした。

「大相撲が武道か娯楽か」という藤生の質問には正面から答えず、「相撲そのものは武道であるから推進していきますよ」と、官僚的答弁でお茶を濁したのです。

藤生もこの的外れな答弁にあきれたのか、官僚が正確に答弁するのは難しい問題であるとして、しぶしぶ引き下がりました。

そして最後に、座が盛り上がれば、座布団や一升瓶が飛び交うような土俵で、天皇賜杯が授与されるのは、天皇の権威を貶める懸念があると述べて、質問を終えました。

当時の政治家の大相撲に対する不満が、実に分かりやすく表出した質疑内容ですね。

 

この国会における大相撲批判について、笠置山は真っ向から否定の意見を論じます。

まず、「両国の相撲は武道ではない」について、土俵の上で命を懸けて真剣勝負を行うのであるから、その姿勢に冒涜というものはなく、その様を真剣に見ず、冒涜する観客がいたとして、そこで行われる相撲そのものまで冒涜であるというのは偏見であり、相撲は両国の相撲も立派に武道であると主張します。

本場所の土俵で、力士は真剣勝負を行っているのであるから、観客の態度が悪かろうが、立派に武道だというわけです。

また、武井次官の「正しい相撲」を「角道」として答弁した件については、大相撲と「正しい相撲」を分ける意図があったと喝破します。

そして、そもそも、このような議論で頻出する「正しい相撲」とは何なのか、具体的な「こうあるべき」という話を聞いたことがなく、「問う人も答える人も、問うだけのために問い、答えるだけのための答えであるように思われる」と、何ら根拠のある具体像を持たない「正しい相撲」の議論に対して、その非生産性を厳しく批判しました。

政治家と官僚が繰り広げる机上の空論に、これ以上付き合うのは懲り懲りという思いもあったと思いますが、この時代、大相撲の内部からこのような批判を理路整然と反論できる人物は、笠置山しかいなかったのです。

 

さて、笠置山は結局「相撲」というものが、どうあるべきものと考えていたのでしょう。

笠置山が相撲を取るうえで重要と考えたのは、「自由と個性の重視」でした。

笠置山は相撲というものは、形に束縛されず、人間の力を自由に発揮することにこそ、競技として優れた点があるとして、土俵の上での「自由」を何より重視しました。

最小限の禁じ手を除いて、あとは「何でもあり」ということが、相撲のだいご味であり、他のスポーツ競技との大きく異なる美点であって、技術的な進歩にも欠かせない要素であると主張したのです。

そのため、当時満州で普及活動を行っていた「角道(※先述の厚生官僚の答弁にあった「角道」とは別物)」が定めた、審判の号令による立会いや、佐渡ヶ嶽が相撲普及に当たって、危険とされた「外掛け」を禁止したこと、軍で奨励された猪突猛進的な取り口については、「世情に迎合的なもの」であり、本来の相撲がもつ美点を損なうものとして、否定的な主張をしています。

このような主張は、当時のとしては珍しく、大正期の自由主義的体育観の影響とみる向きもあります。

そういう側面もあったでしょうが、体格に恵まれなかった笠置山にとって、取り口を制限されることは、自身の相撲にとって死活問題であり、土俵内での自由を主張することは、彼にとっては自然な帰結だったのかもしれません。

また、他の競技と比較するというあたりは、ここでも笠置山の客観的視座が見て取れます。

 

さらに、土俵内での「自由」があるからこそ、自分自身でもの考え、自身の身体感覚を高めて、「個人が最高に錬成される」点に、相撲の最大の美点があるとしたのです。

当時満州において、満州人に相撲を普及させる運動がありましたが、笠置山は日本的な考えや型にはめた指導は無駄であり、満州人自身が自ら相撲を受容するにあたっては、自分たちの民族性や生活様式にあったものにしなければならないと主張しました。

そして、相撲には本来決まった型などなく、個々が自由な発想で取り組めることが、まず単純に「楽しい」のであって、そういう楽しいものであるからこそ、民族や文化の垣根を越えて普及していくものだと説きました。

 

外国出身力士たちの所作や態度、取り口に、とかく苦言が呈される昨今ですが、戦前の笠置山の主張には目から鱗が落ちる思いがします。

 

哲人力士、笠置山

 

現役力士でありながら、取組後の支度部屋で英字新聞や中央公論を読み込む姿や、その豊富な知見と文才から「インテリ力士」と称された笠置山ですが、本人は「インテリ力士」と呼ばれることを非常に嫌っていました。

常々、「頭で相撲は取れない」とマスコミに語り、知識だけではなく実践が最も重要と語っていた笠置山は、現役時代は常に幕内上位にあり続けることを自らに課しました。

自分が幕下力士では、誰も自分の話に納得しないとも言っています。

そして、言論活動の裏で猛稽古に励み、引退間際まで幕内上位の地位を守り続けたのは特筆に値するでしょう。

笠置山は1945(昭和20)年の11月場所で番付に名を残したまま引退。奇しくも打倒に燃えた双葉山と同じ場所で土俵を去りました。

引退後に年寄り・秀ノ山を襲名したあとも活躍は続き、1955(昭和30)年の「決まり手70手」の制定や、公認相撲規則の条文化で大きな役割を果たし、元双葉山時津風理事長の片腕として、日本相撲協会の運営にあたりました。

そして1971(昭和46)年、胃がんのため急逝します。享年60歳でした。

 

ここまで笠置山の主張をご紹介してきましたが、昨今大相撲が浴びる批判の数々が、大相撲の草創期から、繰り返し起きてきたことが、改めて浮き彫りになったのではないでしょうか。 

また、21世紀に台頭したモンゴル勢、特に朝青龍白鵬といった横綱たちの土俵上での態度や取り口に対する批判を、笠置山ならどう評したのだろうと非常に興味がわきます。

横綱は変化しない」「横綱が張り手、かち上げなどもってのほか」という声が、当然のことのように昨今沸き上がります。

しかし、このような横綱像、いわゆる横綱相撲は、一般に双葉山の「待ったは絶対にせず、相手を必ず受け止めてから勝つ」といった取り口が、理想化されたものといわれています。

笠置山の「自由と個人の尊重」を重視した見方でみれば、双葉山の取り口も、それが強靭な足腰を持つ双葉山にとって、最も自らの勝利のために最適化された取り口であったからにすぎないといえるでしょう。

笠置山であれば、それを後々の横綱すべてに当てはめるのは、相撲の発展の可能性を阻害する、くらいのことを言ったかもしれません。

 

笠置山の唱えた相撲論は、戦前に唱えられたものが多いにも関わらず、今も相撲を見るうえで新しい視座を与えてくれます。

笠置山は間違いなく、相撲界における不世出の哲人であったといえるでしょう。

 

 <参考文献>