大和徒然草子

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筒井の右近左近は真実か。嶋左近(2)

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皆さんこんにちは。

 

前回は、謎に包まれた嶋左近島左近)の出自について、諸説をご紹介しました。

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今回は、またもや謎だらけの、筒井氏時代の左近について、ご紹介したいと思います。

 

筒井順慶の家臣となった時期

さて、左近といえば、幼くして父を失って家督を継いだ筒井順慶を、若年の頃から支えた侍大将と巷間伝わっていますね。

しかし、意外にも、松永久秀と激しい抗争を繰り広げた、永禄から元亀にかけて、同時代の一次史料には、その名は全く見えません。

左近の名が大和国に見える最も古い痕跡は、春日大社の参道に奉納された1577(天正5)年4月の日付とその名が刻まれた石灯篭になります。

時期的には、前年に信長から塙直政の後任として、筒井順慶が大和守護に任じられ、半年後に松永久秀信貴山城で滅亡するといった時期です。

もっともその名が刻まれた石灯篭があったからといって、その時期に順慶の家臣であったという確証にはならないわけですが、当時の大和の情勢を考えたとき、何らかの形で順慶の傘下にあった蓋然性は十分にあるでしょう。

 

一次史料に初めて順慶の家臣として左近のが見えるのは、1583(天正11)年5月10日、信長横死後に不安定化した伊賀に順慶が出兵した際、夜襲にあって多くの者が負傷したのですが、同日条の「多聞院日記」に書かれた負傷者たちの名の中に、「嶋左近」の名が見え、これが初見かと思われます。

当時の高僧の日記に登場するほどには、この時期には名のある武将となっていたことが伺えますね。

一方で、それほどの有力家臣ではなかったという見方もあります。

というのも、同年11月、伝統的に筒井氏と敵対的だった大和南部の越智氏をはじめとした国人たちの粛清が終わり、その闕所(没収した領地)が羽柴秀吉の命で順慶の内衆、すなわち内々の家臣に与えられるのですが、その中に左近の名が無いためです。

 しかし同じ年に、左近は現在の奈良県御所市で一千石の領地を与えられており、少なくともこの時期には有力な家臣となっていたとみて、良いのではないかと思います。

 

関ケ原の戦いで名を馳せたため、とかく武辺の猛将というイメージが強い左近ですが、同時代の一次史料に見える筒井氏時代の槍働きといえば、先述した1583年伊賀での負傷の記録くらいというのは意外な感じもします。

18世紀の軍記物「和州諸将軍傳」では、1569(永禄12)年に、法隆寺近辺で行われたといわれる並松の戦い(史実かどうか疑念がある合戦です)や、1571(元亀2)年の辰市城の戦いなど、順慶の主要な合戦で先鋒を務める左近ですが、どこまで史実が反映されたものなのかは、深い霧の中です。

 

ちなみに、「左近」の名は見えないものの、一次史料で順慶配下の「嶋」の名が出る初見は、「多聞院日記」の1570(元亀元)年4月27日条の以下の記述です。

 

昨夜十城ヘ、嶋沙汰トシテ可有引入通ノ處顯現了ト云々、ウソ也、乍去雑説アル故ニ、廿九日歟ニ嶋ハ取退了ト云々

『多聞院日記』

この頃は信長上洛後、東山中に追われた順慶がようやく反転攻勢に出始めた時期で、十市遠勝死後に筒井派と松永派で内部分裂状態にあった十市氏へ、順慶の意を受けて「嶋」が調略にあたっていたとされる記述です。

この「嶋」が左近である確証はないものの、もし左近であったなら、後に石田三成の家臣となったときも、外交の使者としても活躍していることから、後々の活躍と符合する活動ともいえるでしょう。

また、1581(天正9)年、天正伊賀の乱に参戦した筒井軍の戦況を記した資料の中にも以下のような記述がみられます。

 

(前略) 一昨日六日伊賀ニテ合戰、嶋衆少〃損了、(後略)

『多聞院日記』天正9年9月8日条 

「嶋」の軍が、戦いで少々損害を受けたという記述です。 

遅くとも、この頃には一隊を預かる侍大将であった可能性が高いと、いえるんじゃないでしょうか。

 

1583年に続いて、嶋左近の名が再び史料にその名を表すのが、1584(天正12)年に執り行われた、筒井順慶の葬儀です。

順慶陽舜房法印葬送次第目録」には、一番から二十二番まで順慶の葬送行列が記されていますが、その中に「五番 幡嶋左近殿」と記載されています。

四本幡の一つを左近が持って、順慶の葬送の列に加わっていたことがわかります。

このとき、井戸良弘が同じく幡持ちを務めているのですが、これは注目すべきポイントだと思います。

井戸良弘は順慶の有力配下でしたが、中坊飛騨松蔵弥八郎といった順慶の内衆とは違い、もともとは独立性の強い国人でした。

幡持ちを井戸良弘と同じ立場の順慶家臣が担っていたとすれば、左近は順慶にべったり近侍する内衆ではなく、自身の領地に在地する国人領主であった可能性がやはり高いのではないでしょうか。

そうなると、記録に残る元亀、天正にかけて筒井城に在城した人物に、まったく左近の名が見えないことも頷けます。

 

筒井の右近左近

さて、筒井氏の重臣といえば、「島左近」、「松倉右近」が、常に先鋒を務めた侍大将として、幼主筒井順慶を支えた、というお話が巷間広まっていますね。

しかし、広く知られる筒井氏時代の左近の事績の多くが、後世の軍記物にしか現れないということで、この筒井の「右近左近」の実像も謎に包まれています。

では、左近と右近がともに順慶の家臣として登場する資料はというと、先述の「順慶陽舜房法印葬送次第目録」の中に、「嶋左近」、「松蔵右近」の名が見え、ともに登場する唯一の当時の史料となります。

少なくとも、順慶の死の直前頃には、両名ともそれなりの有力家臣となっていたことが伺えます。

しかし、順慶が松永久秀に居城を追われ、大和の覇権を争っていたころから、2人が順慶の重臣であったのかといえば、先述のとおり、まず左近の事績が不明のため、史料上全く確証がありません。

さらに右近の方も、その名が初めて一次史料に現れるのが、これまた順慶の葬儀に際してでした。

「多聞院日記」に、順慶の追善のため千部経を執り行うよう差配した重臣として、「松蔵右近」の名が見えますが、それ以前の同時代史料にはその名が全く見えなのです。

そもそも松蔵氏とはどういった氏族なのでしょう。

松蔵氏は、現在西名阪自動車道の郡山ICの北側一帯にあたる横田(現大和郡山市横田町)の領主であったといわれます。

小領主だったためか、早くから筒井氏の被官となって、有力な内衆となっていたようです。

特に松蔵権助秀政は、順慶の重臣として度々「多聞院日記」等、同時代史料にその名が登場します。

この秀政の子とみられる松蔵弥八郎が松蔵右近と同一人物であるという見方が、現在有力です。

弥八郎の名が当寺の史料に現れるのは1583(天正11)年5月、左近と同じく、伊賀で負傷した武将として、「多聞院日記」にその名が見えます。

同年の12月に、父秀政が死去しているため、父に代わって一隊の将として戦列に加わっていたのかもしれません。

また、同年12月には、滅亡した越智氏の領地3千石を与えられ、順慶の内衆一の大身となりました。

父から家督を継いだうえで、内衆の筆頭格となったのでしょう。

順慶が病床に臥せった1584(天正12)年には、後に誤聞と分かった旨書き足されていますが、「弥八郎が病身の順慶の代理で大将として大和国衆を率いて出陣した」旨の記述が「多聞院日記」に記されており、弥八郎が順慶の名代を務められると目される重臣であったことが伺えます。

 

しかし松蔵氏についても、嶋氏同様に確かな系図が伝わってないため、左近と並んで右近も謎多き武将といえますね。

右近の子である松倉重政は、五條二見の領主時代は、現在伝統的町並み保存地区として知られる、五條新町の礎を築いた名君として知られましたが、肥前日野江に移封後は圧政を布き、その子勝家の代に島原の乱を引き起こした咎で、大名家の松倉家は改易されてしまいました。

もし、松倉家が残っていたら、松倉家の系譜はもとより、左近や筒井氏の事績を記した史料がたくさん残されてたんじゃないかなと思います。

 

松蔵右近については、以下のサイトが詳しいので、興味のある方はこちらもご覧ください。 

http://www.m-network.com/tsutsui/t_column02.html

 

以上のように、松蔵氏で松永氏との激しい抗争で順慶を支えたのは、右近の父、秀政とみられるため、やはり永禄年間から、幼主順慶を右近左近が支えたというのは、史実ではないと見ざるを得ないかと思います。

 

とはいえ、順慶の最晩年には、右近左近が筒井の双璧をなす重臣であったかはともかく、右近は重臣の筆頭格、左近も一隊の将として有力家臣に名を連ねていたことは、間違いないでしょう。

 

<参考文献>

島左近 〜平群谷の驍将〜


 

次回はこちらです。

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