皆さんこんにちは。
「逃げるは恥だが役に立つ」といえば、2016年にTBS系でドラマ化され、主題歌も大ヒットした漫画のタイトルですね。
もとはハンガリーのことわざで、恥ずかしい逃げ方だとしても、生き抜くことが大切であることを意味します。
「逃げる」というと、とかくマイナスイメージが付きまといますが、歴史上成功した人物も、その大業を果たすまでにこっぴどい逃亡劇を演じた人も少なくありません。
源頼朝
関東の武士をまとめ上げ、鎌倉に武家政権を打ち立てた源頼朝ですが、その人生には2度の絶体絶命の危機がありました。
最初の危機は、平治の乱です。
13歳の頼朝にとって、この戦いは初陣でした。
保元の乱後、信西入道とともに政権の中枢にあった平清盛が、熊野詣に出た間隙をついて、反信西派が挙兵したクーデターが平治の乱です。
頼朝の父、義朝は反信西派の軍事力の中心で、当初は信西を討ち果たし、クーデターは成功したかに思われましたが、後白河上皇、二条天皇の確保に失敗して形勢が逆転。
六波羅合戦で敗れた義朝、頼朝父子は京都から敗走して東国に落ち延びます。
途中、義朝とはぐれた頼朝は近江で捕縛されました。
この後、父義朝は尾張で味方の裏切りに遭って殺害されているので、近江で父とはぐれたことは、結果的には頼朝にとってラッキーだったといえるでしょう。
頼朝は処刑されるものと思われましたが、清盛の継母池禅尼の嘆願もあって助命され、伊豆に流罪となります。
後の武家の棟梁も、その初陣は散々なものでした。
続いての危機は、平家打倒の兵を挙げた直後に訪れます。
1180(治承4)年、以仁王の令旨を受けた頼朝は、8月に伊豆目代の山木兼隆を襲撃して挙兵します。
首尾よく山木兼隆を打ち取ったものの、まだまだ軍事力が不足していた頼朝は、相模の三浦氏と連携を目指して、相模に入りました。
しかし、折からの大雨で、三浦氏との合流が遅れてしまい、戦力が整わないうちに平家方3000騎との対峙を余儀なくされます。
このとき頼朝の手勢は300騎ほどで、挙句に背後を伊豆の平家方武士であった伊東氏に衝かれて挟み撃ちに遭います。
この石橋山の戦いでは、大将の頼朝自ら弓を引いて戦う激戦となったものの、衆寡敵せず、頼朝は多くの重臣を失って潰走しました。
山中に逃れた頼朝はまさに絶体絶命の危機にありましたが、平家方の関東武士の中には頼朝に心を寄せるものが多く、大庭景親の配下にいた梶原景時に見逃されるなどの僥倖にも恵まれました。
命からがら箱根山を経て真鶴に到達した頼朝は、海路安房国へ脱出に成功。
海上で三浦氏と合流し、房総半島で勢力を盛り返すことに成功した頼朝は、関東に割拠して、最後には西国の平家政権を打倒することになるのです。
この石橋山の戦いの敗戦後の逃亡劇は、頼朝にとっては大変な苦難であったようで、逃亡中に世話になった人々へ、恩賞代わりに多くの名字を与えています。
真鶴では食事の世話などをしてくれた村人に「御守」「五味」「青木」、安房の竜島ではもてなしを受けた村人に「左右加(そうか)」「馬賀(まが)」という名字を与えました。
ちなみに、安房で与えたという二つの名字の伝承は、少し変わったものです。
頼朝が感謝の気持ちを伝えようと、「安房一国を与える」と言ったところ、村人たちは「粟一石(あわいっこく)」と聞き間違え、そんなものより名字が欲しいといいました。
これを、頼朝が欲がないと笑い「そうか、ばかだなあ」と言ったのを、村人たちはまたもや聞き間違えて、名字をくれたと思い込んで「左右加」「馬賀」と名乗るようになったとか。
落語の滑稽噺のようなエピソードですが、鎌倉殿となった頼朝からもらった由緒ある名字として、今も子孫の方々に伝えられています。
足利尊氏
室町幕府を開いた足利尊氏は、鎌倉幕府の滅亡から、観応の擾乱まで終生戦乱の中に身を置いた人物です。
尊氏も、全ての戦いに勝ち続けたわけではなく、きわどい敗戦を何度も経験しました。
鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇を中心とした建武の新政が始まりますが、1335(建武2)年に尊氏は新政に不満を持つ武士たちとともに関東で挙兵し、京の新政権へ反旗を翻します。
後醍醐天皇は新田義貞を尊氏討伐に向かわせますが、箱根・竹ノ下の戦いで返り討ちにした尊氏は、一気に西上して1月には京に入ります。
しかし、京を退いて比叡山へ陣取った後醍醐天皇方の反攻に遭い、地勢の不利も悟ったのか、尊氏はあっけなく京を放棄して丹波へ逃れます。
尊氏は非常に合戦の状況判断に優れた人物で、勝ち戦では攻め時を間違えず、戦況が不利と見るや、即断で逃亡することをいとわない人物でした。
ここで態勢を立て直した尊氏は摂津へ移動し、西国の武士たちの糾合して、新田義貞らと決戦に及びます。
1336(建武3)年2月、摂津豊島河原(現大阪府箕面市)で両軍合わせて数万騎が激突しました。
鎌倉から室町時代初期にかけての戦いで、最大規模の合戦となりますが、尊氏はこの戦いで敗北を喫します。
この戦いでも、尊氏は敗勢を察知すると、周防・長門からの援軍とともに、九州へ落ち延びました。
通常、このような一大決戦に敗北すると、中々再起は難しいものですが、尊氏は九州で勢力を盛り返し、5月には再度京を目指して東上し、湊川の戦いで楠木正成を撃破。
ついに後醍醐天皇の政権を打倒し、新たな武家政権を打ち立てることになります。
征夷大将軍となったあとも、尊氏の戦いは終わりません。
吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝方との戦いや、弟直義と争ったの観応の擾乱に至るまで、尊氏はその死の直前まで、戦場に立ち続けました。
おそらく、鎌倉時代から江戸時代まで、実戦に最も多く参加した現職の将軍ではないでしょうか。
将軍就任後も、尊氏は何度も戦いに敗れては臆面もなく逃走を繰り返し、窮地に陥れば自ら担いだ北朝を見捨てて、南朝に降伏するなど、融通無碍に行動して混乱期を生き抜きました。
もっとも、この尊氏の融通無碍が、近世に至るまでの大混乱の一因ともいえるのでしょうが、こと戦いに関しては、先入観や面目に囚われることなく、合理的な判断を即決できる人物であったことは間違いないでしょう。
織田信長
信長には合戦での敗北というイメージがあまり無いのですが、命を落とした本能寺の変を除いて、絶体絶命の危機となると、金ヶ崎の退き口になるでしょう。
1570(元亀元)年4月25日、2度の上洛命令に従わなかった朝倉義景を討伐すべく、信長は越前に攻め込みます。
瞬く間に敦賀方面を席捲した信長でしたが、同盟関係にあった浅井長政が、信長の背後を衝こうと進軍しているとの報を受けます。
長政には妹のお市を嫁がせており、当初「虚説たるべき」と信じなかった信長ですが、事実と知るや、撤退を即決。
4月27日、自らわずかな供回りを従え、本軍とは別行動で、一目散に京を目指して駆け出しました。
もたもたしていると、北から朝倉、南から浅井に挟撃され、全軍潰滅の危機に陥ると瞬時に判断したのでしょう。
信長の素早い判断で、朝倉方の追撃を受けたものの、信長は朽木谷を抜け、4月30日には無事京に戻り、本軍も無事京へ帰還を果たします。
この時の織田方が受けた損害は諸説あり、多聞院日記のように2千余りの兵を失ったと、大きな被害を受けたという記述も残されていますが、同年6月には姉川の戦いで浅井、朝倉連合軍を打ち破っていることから、壊滅的な被害は受けていなかったと見ることができると思います。
足利尊氏同様、危険を察知したときの脊髄反射のような素早い判断が、敗勢の中にあっても再起を可能にしたといえるでしょう。
それにしても信長という人は、浅井長政、松永久秀、荒木村重、明智光秀と信頼した人物にことごとく裏切られ、見えない人の心に全く鈍感のように思えますが、窮地に在っての情勢判断には、天才的な閃きを見せますね。
筒井順慶
当ブログは奈良県域の話題を中心にご紹介していますので、逃げるといえば、この人、筒井順慶を外すことはできません。
順慶は大和の有力国人、筒井氏の出身で、その父、順昭の時代には大和一国をほぼ手中に収めていました。
しかし順昭は1550(天文19)年8月、28歳で急死してしまいます。
このとき順慶はまだ2歳、といっても、この年齢は数え年なので現在なら1歳児。
順慶は叔父順政をはじめとした一族の支えを受け、家督を継いだものの、筒井氏の求心力低下は避けられませんでした。
この間隙をついて大和を狙ったのが、当時畿内の覇者となった三好長慶です。
1559(永禄2)年、長慶は河内の守護代、安見宗房を討伐。宗房は出身地の大和へ逃亡しますが、これを追撃する名目で松永久秀に大和侵攻を命じました。
久秀が大和に乱入すると、筒井氏に従っていた大和国人たちは次々とその軍門に降り、ここから順慶と久秀の長きにわたる闘乱が始まります。
三好長慶が1564(永禄7)年に病死すると、翌1565(永禄8)年11月、三好家は分裂して内紛状態となりました。
順慶は久秀と対立する三好三人衆と同盟して、久秀に対抗します。
1559年以来終始押され気味の順慶ですが、三好家中の混乱により、ようやく反攻の足掛かりを得られたといったところでしょうか。
しかし、これで気が緩んだというわけではないでしょうか、三好三人衆と同盟を結んで間もない同年11月18日、久秀は順慶の居城、筒井城に奇襲をかけてあっさりと奪取しました。
思いがけない奇襲に、順慶は城を焼く間も与えられず、筒井城を脱して布施城(現奈良県葛城市)に逃亡します。
久秀の手際の良さに、それまで筒井氏に従っていた箸尾氏などの有力国人が、この筒井城落城をきっかけに、次々と久秀に寝返りました。
多くの国人たちに見限られた順慶でしたが、逃亡先の布施城を拠点に頑強に抵抗を続け、三好三人衆とも連携しながら徐々に勢力を盛り返し、翌1566(永禄9)年6月には、筒井城を奪回。
三好三人衆の援軍を受けて、大和での戦況が順慶の優位に進むかに見えましたが、1568(永禄11)年の信長上洛によって、事態が急変します。
信長にいち早く近づいた久秀は、信長から大和の支配権を認められ、再度攻勢に出ました。
信長から2万もの圧倒的な援軍を得た久秀に寝返る国人たちが続出し、前日まで味方だった郡山氏に城下を焼き払われた順慶は、筒井城を再び脱出して東山中の福住中定城へ落ち延びました。
順慶は1年にわたって歴史の表舞台から姿を消すことになりましたが、しぶとく生き残って、東山中に逼塞しながら、反攻の機会を伺います。
信長が岐阜に戻り、新将軍足利義昭の周辺が不安定になってくると、順慶は急転直下で義昭と婚姻関係を結ぶことに成功して、劣勢の挽回につとめます。
1571(元亀2)年に辰市城の戦いで久秀を撃破した順慶は、久秀と関係が悪化しつつあった信長に接近。明智光秀の仲介もあって、信長に臣従することに成功しました。
久秀が1572(元亀3)年に信長にいったん反旗を翻したものの、恃みとしていた武田信玄の病死により降伏を余儀なくされるに及び、順慶は久秀に対する大和での優位を確固たるものとします。
2度にわたって居城に攻撃を受け、落城の憂き目にあった順慶でしたが、辛抱強く生き延びて、ついには直轄領18万石を含む大和40万石余の軍事指揮権を握る大和守護として信長、秀吉の時代を生き抜きました。
みっともない負け方で、一時は味方に付いていたものの多くに見限られたとしても、やはり生きてこそ、再起の道はあるものです。
また、敗勢をいち早く察知し、迷わず逃げだすことで、被害を最小に抑え、素早く立ち直ることもできます。
とかく逃げることは、否定的にとらえられることが多いものですが、取りうる合理的な選択肢、最適解であることすら場合によってはあるのです。