歴史好きの大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

みんな大好き「陰謀論」。黒幕は存在するのか。

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皆さんこんにちは。

 

今回は巷にあふれる「陰謀論」について取り上げてみたいと思います。

 

個人的にはいろいろと想像を膨らませてくれることもあり、歴史的事件の陰謀論の類は大好物です。

とはいえ、扱いを誤ると、危険なものにもなりかねないものなので、注意も必要ですね。

世の中は「陰謀」であふれている

さて、世の中には様々な陰謀論が存在してます。

 

歴史的事件でも、「あの事件は、実は裏で糸を引いていた者がいる」といった黒幕説をともなう陰謀論が数多くあります。

有名どころでは、明智光秀織田信長を討った本能寺の変で語られる、数多くの「黒幕説」、関ヶ原の戦い徳川家康の陰謀により誘発されたとする説、太平洋戦争アメリカの陰謀によって引きおこされたというものでしょうか。

もちろん、学問上は否定されているものがほとんどなのですが、意外と信じている人も少なくないようで、多くの書籍が出版されて人気を博すものもあれば、注目度の高いものは、テレビなどのメディアで取り上げられることもあります。 

 

多くの研究者たちによって、長い時間をかけて積み重ねられた通説で否定されながらも、根強く陰謀論が一定の支持を集める理由は何でしょう。

 

ひとつは、陰謀論、とりわけ黒幕説には、それなりの説得力が備わっていることが多いことにあるんじゃないでしょうか。

 

先にあげた、本能寺の変の黒幕説、とりわけ秀吉を黒幕とする説、関ヶ原の戦いが家康の陰謀とする説、太平洋戦争開戦がアメリカの陰謀とする説に共通する特徴は、その事件の後、最大の利益を得たものが黒幕としてあげられている点です。

 

事件で最大の利益を上げたものが、犯人である。

これは推理小説の物語づくりでも、オーソドックスな手法ですね。

推理小説はフィクション・作り話ですから、事件を起こした真犯人には、合理的(と考えられるよう)な動機や、事件によって得られる利益が存在しなければ、そもそも小説として成立しません。

真犯人が偶然被害者の側を通りかかっただけの人だったり、まったく登場人物と絡んでいない第三者だったりしては、説得力もありませんし、そんなオチでは、推理小説というより、シュールなナンセンス小説となってしまいます。

この手法は、推理小説というフィクションに、リアリティを与えているわけです。

そういった手法が、歴史的事件に当てはめて語られると、陰謀論や黒幕説に、「あり得るかもしれない」という、一定の説得力が生まれてくるわけです。

 

本能寺の変に黒幕は存在するか

戦国時代でもっとも衝撃的で、その後の政治情勢に大きな影響を与えた事件といえば、本能寺の変といえるでしょう。

謀反を起こした光秀が、事件後2週間足らずで敗亡したこともあり、事件の動機が判然とせず、様々な説が乱立していますね。

シンプルに光秀が信長に替わって天下を狙ったとする「野望説」、信長からの仕打ちに対する「怨恨説」などとともに、実は裏で光秀を操る、もしくは共謀した黒幕がいたとする「黒幕説」が、いくつも存在します。

朝廷黒幕説」「足利義昭黒幕説」果ては「イエズス会黒幕説」など、多彩な説が存在していますが、その中から、秀吉黒幕説を取り上げてみたいと思います。

 

秀吉黒幕説は、羽柴秀吉が光秀をそそのかし、または光秀と共謀して本能寺の変を引き起こしたというものです。

秀吉がなぜ犯人とされるのか、その最大の理由は、本能寺の変による最大の受益者が、秀吉であったからでしょう。

さらに、世に名高い中国大返しは常識外のスピードで行われており、これは事前の準備なしには不可能だとされます。

そして、秀吉が本能寺の変から日を置かず、その知らせをいち早くつかんだのも、事前に変の勃発を知っており、毛利方との和睦交渉を瞬く間にまとめたのも、事前に毛利方との根回しが済んでいたためとします。

 

なるほど、秀吉が最初から糸を引いていたとするなら、すべてうまく事が進みそうな事実が並んでいますね。

では実際のところどうなのか、まず中国大返しから見てみましょう。

中国大返しは現在の岡山市から姫路市までの70キロをわずか1日で撤収したというものです。

確かにこれだけ聞くと、異様な速さといえますね。

しかし、実際に1日で姫路まで帰還できたのは、騎馬で移動した秀吉たち上層の武士たちだけで、足軽を中心に歩兵は、それより遅れて帰還してきたとする説があります。

これであれば、確かに強行軍とはいえるものの、不可能ではないでしょう。

信長の死により、帰還路となる備前の宇喜多家が裏切る可能性もあり、秀吉としては一刻も早く備前を抜け本拠の姫路にたどり着く必要がありました。

そこで、主要幹部は一目散に姫路へ向かって退散し、それを徒歩の者たちが追いかけていったのでしょう。

実際に山崎の戦いに間に合わなかった者もいたというのが実情で、あらかじめ予期して行われたこととは、必ずしも言えないと見えます。

 

続いて、秀吉がいち早く本能寺の変の凶報をつかんだ点と毛利と変後まもなく和睦した点です。

秀吉は毛利攻めにあたって、信長に援軍を要請しており、信長がそれに応じて出陣するとの報を当時受けていました。

実は備中高松城を水攻めによって無力化した時点で、毛利方から和睦の申し出を、秀吉は受けていました。

毛利の申し出に、秀吉は信長の出馬も意識して、備中、備後、美作、伯耆、出雲の五か国割譲という超強気な要求。

この秀吉のいささか吹っ掛け気味の条件に、交渉は難航してしまいます。

毛利とタフな和睦交渉が進むなか、秀吉にとって、いつ信長が前線に到着するかは、交渉でより強く押し出すか、あるいは譲歩するかを判断するのに重要な情報でした。

そのため、秀吉は信長の動向をいち早くつかむため、情報網を張り巡らせており、そのような状況の中で、いち早く本能寺の変の報を知ることができたと考えられます。

そんな折りに本能寺の変の一報がもたらされたのです。

信長の死を知った秀吉は、それまでの強気の要求から一転して大幅に譲歩した和睦条件を毛利へ提示しました。

信長の死を知らない毛利方は、これ幸いと秀吉の条件をのんで、あっさり和睦してしまったのでしょう。

 

最後にこの秀吉黒幕説について、成立させるための最大の難関は、いかにして秀吉が光秀を説得したのかというのが、大変難しい問題となることです。

常識的に考えて、同僚というか、ライバル関係にあったとさえいえる光秀に、秀吉が謀反を持ちかけるなんてリスキーなことがあり得るでしょうか。

光秀から信長に通報されて、身を亡ぼすのが関の山と考える方が妥当といえるでしょう。

また、毛利や宇喜多がひとたび信長の死を知れば、和睦や同盟を破棄されて、秀吉は敵中で孤立する公算も少なくありません。

よしんば信長を討ったとしても、帰還困難に陥るような作戦を、通報の可能性のある光秀にリスクを負って持ち掛けるような真似を、秀吉がするとはどうしても思えません。

以上のことからも、秀吉黒幕説は、本能寺の変以後、秀吉の行動と結果からの後知恵であるといえるんじゃないでしょうか。

 

関ヶ原西軍蜂起は家康の陰謀か

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利し、この時点で事実上の天下人となった徳川家康

秀吉死後の豊臣政権内で、前田利長石田三成といった政敵を屈服、追放して権勢をほしいままにしつつあった家康は、会津上杉景勝に謀反の兆しありと難癖をつけ、豊臣秀頼の名代として、豊臣恩顧の大名たちを引き連れて、会津征伐に向かいました。

その間隙を縫って石田三成大谷吉継が上方で挙兵。豊臣政権下の大名たちが西軍、東軍に分かれて激突したのが関ヶ原の戦いですね。

この西軍の挙兵を、家康の陰謀とする説があります。

曰く、豊臣政権内で権勢を高める家康が、会津征伐で畿内に軍事的空白を作ることで、三成ら反徳川方の決起を誘発、これを一網打尽して一気に天下を取ったとするものです。

 司馬遼太郎の代表作「関ヶ原」も採ったこの説の信ぴょう性は、どのようなものなのでしょう。

 

結論から言うと、これも戦後の結果からの後知恵と考えた方が、妥当のように思われます。

というのも、石田三成大谷吉継らが蜂起し、毛利輝元宇喜多秀家が西軍への参加を表明して大坂城を抑えた時点で、家康は状況をコントロールしているといえるほど、余裕のある状況であったとは到底考えられないからです。

 

6月15日、会津征伐のため家康が大坂を出た後、7月17日に毛利輝元大坂城を占拠します。

そして、毛利輝元宇喜多秀家、そして豊臣家の三奉行、増田長盛長束正家前田玄以の連名で、家康の専横を弾劾する「内府ちがいの条々」を諸大名に送付。いよいよ家康と反徳川一派の戦いが勃発します。

この時点で、反徳川派は豊臣秀頼を抑えることで、家康の会津征伐を公儀の戦ではなく私戦とし、家康が諸大名を統率する大義名分を奪うことに成功していました。

一方の家康は7月21日に会津征伐のため江戸を発ち北上を開始。しかしその途上、上方で大規模蜂起が伝えられ、家康は会津征伐を中止して江戸に引き上げるのです。

8月5日に江戸に引き上げた家康は、月末までのほぼ1か月間、江戸を動かず北の上杉、東の佐竹への備えを固めます。

「内府ちがいの条々」により、諸大名を指揮する大義名分を失っていた家康は、信頼のおける味方大名が、秀吉没後に急接近してきた藤堂高虎、婿の池田輝政、そして黒田長政細川忠興などごく少数に限られていました。

三成憎しで今は味方している福島正則などは、仮に秀頼が総大将として押し出してきた場合、たちまち西軍に寝返りかねず、とても信頼の置ける状況にありません。

このような状況で、上杉景勝の動向を見極められるまで、家康は全く身動きが取れない状況となったのです。

まさに絶体絶命の状況であり、家康が意図的に三成らの挙兵を起こさせ、絵にかいたとおりの状況に持ち込んだとは到底考えられません。

結局のところ、西軍の蜂起は、家康の油断によって、もたらされたものともいえるでしょう。

家康とすれば前田利長に続き、五大老である上杉景勝を屈服させれば、政権の主導権を完全に握れると踏んでの会津討伐だったと考えられます。

三成が失脚した後、毛利とは協調姿勢を示していたし、宇喜多はお家騒動に明け暮れ、豊臣の三奉行はすっかり家康の圧力に従順姿勢を示していたため、まさか彼らが一斉に手を組んで自分に反旗を翻すなど、家康は予想だにしていなかったのかもしれません。

 

ところで西軍側についても、蜂起前から石田三成上杉景勝直江兼続は連携していたとする説は、根強く語られます。

すなわち、上杉が会津に家康を釣りだしたところを、上方で三成が挙兵する計画があったとする説で、こちらも司馬遼太郎の「関ヶ原」で採られたことで、よく人口に膾炙している話といえるでしょう。

しかし、三成から真田昌幸に宛てた書状で、真田家に上杉への情報中継を依頼していることや、上方で三成が挙兵して家康が江戸に引き上げたとき、上杉は家康を追撃することなく、最上領へ侵攻して奥羽に割拠する姿勢を見せたことから、三成ら上方で挙兵した一派と当初から連携していたとは状況的に考えにくいと思います。

三成の挙兵は、その直前まで決行を確実なものとするため、殆ど誰にも報せていなかったようで、直前まで大坂にいた真田昌幸が三成に「どうして大坂にいるとき知らせてくれなかったのか」と、問い質したのに対して、「秘密を守るためどうしても伝えられなかった」と返答した書状が真田家に残されています。

三成挙兵は間違いなく陰謀ですが、陰謀を成功させるには、実行の秘匿が最も重要で、実際に三成はその腹の中を、決行直前まで回りのものに伝えていなかったことをうかがわせる史料といえるでしょう。

三成挙兵を家康に最初に知らせたのは、豊臣三奉行の増田長盛でした。

後に西軍に付くことから、長盛は家康にも通じて保身を計ったと見る向きもありますが、三成の決起直後、おそらくそれを知らされていなかった長盛は、慌てて政権の大黒柱であった家康に、大変なことが起こったと報告したのでしょう。

しかし、上方で毛利、宇喜多という大大名が相次いで大坂に入城したことで、なし崩し的に西軍に参加せざるを得なくなった、というのが実情ではないでしょうか。

大坂で留守を守っていた大名の多くが、この時西軍に付きましたが、彼らも似たようなもので、当時大坂に残っていれば、不承不承ながらも西軍に与するしか選択肢はなかったのでしょう。

家康のいない上方に毛利、宇喜多の大きな軍事力を招き入れ、豊臣秀頼を抱き込むことで、在坂の大名たちが自陣営に参加せざるを得ないような空気を作り出したところまでは、三成の謀略は見事であったといえます。

しかし、機密保持のため、在坂の近しいものにも事前に伝えていなかった計画を、果たして遥か遠方の上杉と連絡を取り合っていたとは、なかなか考えにくいといえるでしょう。

 

以上のように実際の状況をつぶさに見ていくと、「家康が天下を取るため、反徳川派の大名を一網打尽にすべく、意図的に上方で挙兵させた」や、「三成と上杉は、挙兵前から連携していた」という説は、やはりその後の結果から逆算した後知恵バイアスが強くかかったものと考えるのが妥当かと思います。

しかし、司馬遼太郎の「関ヶ原」は、これらの説を採ったことで、家康の政権奪取へのなりふり構わぬ執念や、それに抗う石田三成の人物像が鮮明となり、劇的な一級の歴史エンタテインメントとなっているんですよね。

 

真珠湾攻撃アメリカは知っていたか

日米開戦の緒戦となった、日本海軍による真珠湾攻撃

アメリカがこれを事前に察知していながら、 第二次世界大戦への参戦を企図したルーズベルトが、意図的にハワイの太平洋艦隊には伝えず、日本に真珠湾攻撃をあえて行わせたという説があります。

 

この陰謀論の歴史は古く、早くも戦中に共和党が、民主党の大統領であるルーズベルトを、非難・攻撃するため唱えています。

すなわち、自身の支持率を上げるために、わざと日本に隙を見せて攻撃させたのだろうと。

実際のところ、アメリカは傍受した日本の外交暗号の殆どを解読していたことも、この説を唱える人の論拠となっています。

 

しかし、具体的な攻撃目標の把握まではできてなかったと見るのが妥当でしょう。

というのもアメリカは1941年12月時点で、日本海軍の暗号解読はできていなかったと見る向きが有力だからです。

真珠湾攻撃は日本国内でも極秘裏に進められたため、外務省すら具体的な作戦目標や攻撃予定日を知らされていませんでした。そのうえ、最終的な攻撃命令も書面で手渡しで行われているため、アメリカ側に攻撃目標や日時を知る由もなかったのです。

また、当時の日本海軍の艦艇は、侵攻してくる米英艦隊を素早く迎撃するため、艦艇の速度は速いものの、航続距離が短く、主力艦隊が長駆ハワイに攻撃をかけてくるなど、ほとんど考えられないことでした。

 

1941年1月の末頃、東京のアメリカ大使、グルーから、ハル国務長官あてに日米開戦となった時、ハワイへ大攻撃をかけると噂になっているという電報が入っています。

この時点で真珠湾攻撃山本五十六の腹案であり、知らされていたのは数名の海軍将校だけで、海軍筋から漏れた情報とは考えられません。

この情報自体は当時出版されていた「三国同盟と日米開戦」(松尾樹明著)という書籍の中で、「日米開戦の劈頭に真珠湾を攻撃してハワイを占領するべき」という記述の影響を受けた噂のようで、この情報を受けたアメリカの海軍情報部は、現状分析から「信じられないもの」として一蹴しています。

 

当時のアメリカは、対日開戦となった時、日本は南太平洋方面へ進出するであろうという見方が大勢を占めていました。

事実、真珠湾攻撃とともに日本がまず大規模侵攻したのは南太平洋で、実際にアメリカは対日開戦時の想定戦場を南太平洋に定め、開戦前に太平洋に展開する潜水艦部隊へ発令した無制限潜水艦戦の指示海域も、南太平洋が中心で、ハワイ方面は含まれていません。

この事実は、戦前のアメリカが、日本の主力艦隊がハワイ方面まで攻勢を仕掛けてくるとは、想像だにしていなかったことを示していると思われます。

以上のことから、戦前にアメリカが真珠湾攻撃を知っていて、わざと攻撃させたというような陰謀は成り立たないと私は考えます。

この陰謀論の中には、アメリカが「主力の空母を逃がして旧式戦艦を囮に日本の攻撃を誘った」という説もありますが、空母や航空機が艦隊決戦の主力と認められるのは真珠湾攻撃とその後のマレー沖海戦からであり、これこそ「結果」からさかのぼって後付けした、牽強付会の説といわざるを得ないでしょう。

 

しかしながら、真珠湾攻撃に関するアメリカの陰謀論は、意外に信じている人(というか信じたいと願う人)も多いようですね。

アメリカ側では、あまりに手ひどいやられ方だったことから、「知っていてわざとやられたんだ」と考えたい人が多いようです。

一方の日本では、太平洋戦争はアメリカに嵌められたのだと考えたい人が、この陰謀論を採る人に多いようです。

 

陰謀論との付き合い方

陰謀論が広く浸透していくのは、事件の原因を一つに絞り、事件の構造を単純化するため、事件をわかりやすく理解できたと思わせてしまうことにあります。

結果からさかのぼって説を組み立てるため、原因である黒幕の絵に描いた通り物事が運ぶように見え、思わずなるほどと感じる人も多いことでしょう。

全ては黒幕の思惑通り、実に単純な見方ですべてが説明できてしまうことが陰謀論の魅惑的なところで、危険なところでもあります。

歴史関係書籍や、フィクションとして楽しむ分には特に害はないのですが、陰謀論が政治的に利用されてしまった場合、ナチスドイツが、ドイツのすべての不幸の原因をユダヤ人であるとした例を見ても明らかなように、大変危険なものにもなります。

 

実際の陰謀というものは、本能寺の変を起こした光秀や、関ヶ原石田三成のように、得てして首謀者の思惑どおりには進まないものです。

あまりに黒幕の思惑通りに事が進む「陰謀」というものは、眉に唾して話を聞いた方がいいでしょう。

 

 <参考文献>

 

ベストセラー「応仁の乱」著者、呉座勇一さんが、巷に喧伝される様々陰謀論について、最新の研究成果も交えながら、その非合理性を明らかにしてくれる本です。

私は以前から、明智憲三郎氏や井沢元彦氏の著作を読んで、面白いなと思いつつ、その著書で展開される、通説や専門の研究者に対する批判について、もやっとすることも多かったのですが、この本を読んでかなりすっきりしました。

まさに「事実は小説より奇なり」です。

 

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