1454(享徳3)年以来、管領家・畠山氏の家督を巡る畠山義就と政長の争い収まることなく続き、大和でも義就支持派の越智家栄を中心とする勢力と、政長を擁立支持する筒井氏出身の成身院光宣、筒井順永の一派に分かれて、混乱は深まるばかりでした。
畠山氏の内訌は幕府の主導権を巡る細川勝元と山名宗全の対立と結びつき、1467(文正2)年正月には室町御所を中心に、細川方と山名方の軍勢が睨み合う事態となります。
ここで将軍・足利義政は、畠山氏の内訌に他家の加勢を禁じ、義就軍と政長軍だけで合戦を行わせ、その勝者に家督を認めるという無定見極まりない姿勢を見せました。
細川勝元は将軍の命を守って政長に加勢しない一方、山名宗全は将軍・義政の命を無視して義就に加勢。
御霊合戦は義就が大勝して、宗全が一気に幕政を主導するようになります。
一方、政長を支援していた勝元は、「味方を見殺しにした大将」という不名誉を、宗全の命令無視によって被ることになり、派閥の領袖として存立の危機に立たされます。
※ここまでの詳細は前回記事をご一読ください。
同年3月、元号が応仁と改元される中、勝元は知恵袋と頼みにする光宣とともに、復讐の機会をうかがっていました。
応仁の乱・開戦
1467(応仁元)年5月、戦火は地方から起こりました。
細川方の斯波義敏が対立する斯波義廉の領国・越前に侵攻したのを皮切りに、伊賀、伊勢、若狭で次々と細川方が山名方に攻め込んだのです。
5月16日になると、細川勝元は摂津から手兵を上洛させ、山名宗全、畠山義就、斯波義廉らも続々と兵を上洛させたため、京都の緊張は急激に高まりました。
そして5月26日、細川勝元、成身院光宣らに策を授けられた武田信賢と細川成之の軍が山名方の一色義直の屋敷を急襲し、ついに京都における応仁の乱の火蓋が切られたのです。
戦闘は京都各所で28日まで続き、双方による放火で船岡山から二条にいたる広範囲の武家、公家の屋敷と寺院が焼亡しました。
この事態に将軍・義政は5月28日双方に停戦を命じ、いったん戦いは収まります。
この時、義政としては中立を保って戦闘の拡大を抑え、両者を仲裁しようと努めていたようです。
しかし、義政の態度は一定せず、細川勝元が6月1日に義政へ将軍旗と山名宗全治罰の綸旨拝領を願い出ると、3日には義政は勝元へ将軍旗を与えてしまいました。
これで、細川方は幕府軍となり、将軍・義政の中立性は失われ、調停役を失った戦いは泥沼化を避けられなくなったのです。
細川方は将軍御所周辺に展開して陣を構えたのに対し、山名方は堀川を挟んで西側の一条大宮一帯、現在の西陣地域に陣を固めて両軍は対峙しました。
堀川を挟んで細川方が東側、山名方が西側に陣を構えることになったため、前者が東軍、後者を西軍と呼ぶようになります。
当初、幕府軍となった東軍は優勢にことを進め、西軍の中には降伏を申し出る者が続出し、大義名分も兵力も優位に立ってました。
しかし、西軍の畠山義就や斯波義廉の重臣で越前守護代の朝倉孝景の奮戦で、東軍は決定的な勝利を得られません。
そうこうしているうちに、大和の古市胤栄を始め、続々と西軍に呼応した各地の大名たちが上洛してきます。
8月になると、周防の大内政弘が数万の大軍を引き連れて入京。数的に優位に立った西軍は攻勢を強めます。
将軍・義政は戦闘の激化を避けようと、畠山義就に対して御内書を送り「宗全とともに分国へ帰国すること」「河内は政長と分け合うこと」を命じ、畠山氏の内訌を鎮めることで事態の収拾を図りますが、大内軍の加勢で優位に立つ西軍は義政の命令を完全に無視しました。
西軍の攻撃は苛烈さを増し、10月2~4日の相国寺合戦で細川氏の陣が置かれた将軍御所東隣の相国寺は完全に焼亡し、御所も半焼する有様となったのです。
この合戦の後、洛中では大きな戦闘は起こらなくなり、戦線が膠着状態に入った大乱は2年目の1468(応仁2)年を迎えます。
小競り合いが続く中、西軍に属しながら管領職にとどまっていた斯波義廉は、幕府と敵対する関東の古河公方・足利成氏と結びつく動きを見せ、この動き怒った将軍・義政はようやく義廉を管領職から罷免し、細川勝元を再び管領としました。
義政から管領職を取り上げられた義廉ですが、西軍内では引き続き管領として振舞うことになります。
だらだらと続く戦いを終わらせようと工作を続ける義政ですが、自身の指導力を発揮できない状況が続いていました。
そこで義政は文正の政変で失脚した腹心・伊勢貞親を政界に復帰させて、自身の指導力の底上げを画策しましたが、これに大きく反発したのが、かつて貞親の讒言で誅殺されかかった義政の弟・義視です。
前年から義政との関係が悪化して一時は出奔していた義視は、9月に逃亡先の伊勢から京都に戻っていましたが、閏10月に伊勢貞親が政界に復帰すると身の危険を感じて再び出奔。
なんと、西軍の斯波義廉の元に逃げ込んだのです。
前年10月に後花園法皇から治罰綸旨を受け、反幕府の上に朝敵とされた西軍にとって、義視は貴重な「玉体」であり、山名宗全、畠山義就、斯波義廉、大内政弘といった西軍諸将は義視を将軍として推戴。
ここに幕府は事実上二分され、南北朝の動乱、観応の擾乱と繰り返された内部分裂が、再び繰り返されたのです。
それまで東軍寄りながら西軍との和睦の道を探っていた義政も、西軍が将軍として義視を立てたことで態度を硬化せざるを得なくなり、戦乱の短期収束への道は完全に閉ざされました。
成身院光宣の死と南帝擁立
1468(応仁2)年前半まで戦いの中心は洛中でしたが、戦いは次第に山科や鳥羽など京都郊外に移り、やがて山城南部へと広がります。
1469(文明元)年5月には、西軍主力・大内政弘の軍が田原、鳥見(ともに現奈良県生駒市)に兵を進めると、大和国内も緊張状態となりました。
そんな中、同年11月に東軍の謀将として暗躍していた光宣が80歳で世を去ります。
中世の一級史料『大乗院寺社雑事記』の著者として知られる大乗院門跡・尋尊は、長年にわたって興福寺に貢献してきた光宣の功績を「大正直の者なり」と称える一方、僧侶でありながら政局に深く関与し、応仁の乱を原因となった人物と批判的に評しました。
応仁の乱が大規模化したことで、乱における光宣と筒井氏の軍事的プレゼンスは応仁2年以降低下していたものの、大和における光宣の政治力は健在であったことから、その死は弟・筒井順永の政治力を大きく低下させることになります。
光宣の死と前後して、大和南部では越智家栄の策謀で後南朝勢力が蠢動を始めます。
11月、南朝・後亀山天皇の子孫、小倉宮の皇子とみられる兄弟が吉野と熊野で挙兵したのです。
南北朝合一から既に半世紀以上が経過していましたが、観応の擾乱以来、再び幕府が割れたことによって、南朝こと大覚寺統の皇統が再び脚光を浴びることになります。
西軍は義視を迎えたとはいえ、後花園法皇の治罰綸旨で「朝敵」とされていました。
しかし、南朝の天皇を推戴することで「朝敵」の汚名を打ち消し、大義名分の点でも東軍に対抗できると家栄は考えたのでしょう。
翌1470(文明2)年7月、大内政弘が摂津から南山城に転じて兵を進めると、綴喜郡、相楽郡の東軍方国人たちは悉く降伏。東軍に付いた狛氏なども逃亡して行方知れずとなります。
東軍主力である大内軍が奈良の間近まで接近したことは、南都を震撼させました。
興福寺は京都の惨状の二の舞は避けたいと思ったのでしょう。
大内軍の南都侵攻を阻止するため、興福寺は東軍方の軍勢の退去を命じ、替わって古市氏ら西軍方の国人たちに奈良の警護を委ねましたが、筒井順永はこれを無視して、筒井軍だけは奈良になおも居座りました。
一方、8月になると東軍・畠山政長方の若江城(現大阪府東大阪市)、誉田城(現大阪府羽曳野市)へ西軍諸将が攻撃を仕掛け、この中に越智家栄の姿もありました。
大乱勃発後、家栄自身が出陣したのはこれが初めてで、大乱の発生から3年に入り大和の国人たちは本格的に戦乱の渦に飲み込まれていきます。
西軍が優位に戦いを進める中、東軍も反撃を開始。
9月に南山城の大内氏に対抗するため、伊賀守護の仁木氏を相楽郡に入れ、木津で西軍方大和国人・狭川氏(現奈良市西狭川町付近の国人)と合戦に及びました。
同年12月、熊野で挙兵した南朝後裔の日尊は畠山義就の後援で紀伊国藤白(現和歌山県海草郡)に進出していましたが、東軍に討ち取られ畠山政長がその首級を京都に送っています。
翌1471(文明3)年になると、十市遠清(現奈良県橿原市十市町の国人)が東軍について参戦
ここに至って大和の五大国人である筒井、箸尾、十市、越智、古市が全て応仁の乱に参戦し、大和国内でも下図のように東西両軍に分かれ、熾烈な戦いを繰り広げます。
国人勢力の分布は、基本的に大和永享の乱における筒井方、越智方の構図とほぼ変わりません。
大きな違いは箸尾氏と宇陀の澤氏、秋山氏が幕府(東軍)方に付いた点くらいでしょうか。ちなみに澤氏、秋山氏は臣従する伊勢の北畠氏が東軍に付いたため、これに従いました。
南北朝の争乱と同様、応仁の乱でも各国人は私領の拡大を目論んで活発に動きます。
特に十市遠清は参戦した1471(文明3)年8月には楊本(やなぎもと)氏を攻め滅ぼし、その領地(現在の天理市南部一帯)を奪って勢力を拡大。
十市氏は応仁の乱の混乱の中、後に十市郷と称される広大な領土の礎を築いたのです。
同月、吉野で挙兵していた南朝後胤の小倉宮御息とされる18歳の青年が、壷阪寺から古市を経てついに京都に入ります。
西軍諸将はこれを「主上」として迎え、ゆくゆくは内裏に入れる手はずを整えていましたが、当初小倉宮御息の擁立に前向きだった足利義視が突如反対に回ったのです。
理由は、小倉宮御息が西軍の主上に担がれたことから、自身の存在価値が低下することを恐れたとも、同年5月に西軍主力の一角を担っていた越前守護代の朝倉孝景が東軍に寝返り、西軍優勢に陰りが見えたことから和睦の道を模索し始めた義視が、南朝後胤の擁立が悪影響を及ぼすと考えたからともいわれます。
南朝・西幕府と北朝・東幕府の対立という図式は、南北朝争乱の再現であり、室町幕府の秩序を根幹から揺るがすものでした。
摂関家出身の大乗院尋尊も「公家滅亡の基」と批判したように、この期に及んでの南朝擁立は当時の貴族社会にも受け入れられず、広く支持を集めることはできなかったのです。
結局、西軍による南朝後胤の擁立は翌1472(文明4)年正月の記事を最後にその姿が見えなくなり、歴史の闇に消えていきました。
大乱終盤~大和での激戦
1472(文明4)年正月、一向に決着がつかない焦燥と、前年大流行した疫病で東西両軍の士気は大いに下がり、細川勝元と山名宗全の間で和睦の交渉が始まります。
当時の情勢は前年に朝倉孝景が東軍に寝返ったことで、東軍は大義名分だけでなく、軍事上も西軍に対して優位に立っていました。
勝利の見通しが立たない宗全の戦意は喪失していたようで、西軍の降伏で話は進んでいたようです。
しかし、ここで戦いが終わっては自身の利益を確保できない西軍の畠山義就と大内政弘、東軍の赤松政則は同意せず、和睦交渉は進みません。
同年5月、ついに勝元は猶子であった勝之とともに髻を落として隠居の姿勢を見せ、実子の聡明丸(後の細川政元)に家督を継がせる意向を表しました。
聡明丸の母は山名氏一族で、宗全の養女として勝元へ輿入れしており、山名の血を継ぐ聡明丸の家督継承は、宗全への大きな和睦のメッセージであったと考えられます。
一方の宗全も同年中に隠居して家督を政豊に譲り、大乱勃発の責任を負う形で東西の首魁はともに首座から降りました。
ここに細川氏と山名氏のわだかまりは体面上は無くなり、両者の和睦への道は急速に開かれたと言えるでしょう。
翌1473(文明5)年3月には山名宗全が世を去り、5月には細川勝元も相次いで世を去ります。
同年12月には足利義政が将軍職を9歳の実子・義尚に譲って、大乱勃発時のキープレーヤーたちが表舞台から悉く去りました。
翌1474(文明6)年正月、再び細川氏と山名氏の間で和睦交渉が始まりましたが、やはり西軍の畠山義就と大内政弘、東軍の赤松政則は同意しません。
そしてとうとう、同年4月、細川氏と山名氏のみが単独で講和を締結。
西軍の旗手であった山名氏は、ついに幕府へ帰参しました。
しかし、なおも西軍の畠山義就と大内政弘は陣を解かず、東軍の畠山政長、赤松政則も戦いをやめようとしなかったことで、戦乱がおさまりません。
足利義政の退陣を目指した山名宗全の目論見は失敗に終わったものの、畠山政長打倒を目指す畠山義就と、日明貿易の権益を巡って細川氏の覇権を崩したい大内政弘の利害は一致しており、西軍の性格は反細川氏の色がより濃くなっていきました。
全国的には東軍優勢で、幕府の終戦工作に西軍諸将が続々と幕府へ帰参していく中、応仁の乱の根本原因・畠山氏内訌の主戦場となっていた大和国内の争乱は翌1475(文明7)年から、ピークを迎えていくことになります。
国人たちが大和全域で大乱にかこつけて私戦をはたらく様を、大乗院尋尊は『大乗院雑事記』文明六年一一月二二日条で、大和の衆徒・国民たちが全く興福寺のいうことを聞かないと悲嘆しました。
大和における興福寺支配の崩壊を、如実に物語る状況と言えるでしょう。
1475(文明7)年5月、葛上郡(現奈良県御所市)で東軍の楢原氏と西軍の吐田氏が合戦となり、吐田氏には越智、古市が援軍して倶志羅之城(櫛羅城)に籠り、楢原氏には畠山政長方の河内、紀伊の援軍が駆け付け、城に攻め寄せました。
また、時を同じくするように大内政弘が奈良へ向かって南山城まで進出すると、これに呼応して古市胤栄、越智家栄も奈良へ向かって進撃します。
この動きに奈良を守る東軍は、筒井順永嫡男の順尊が木津へ進出して大内政弘への迎撃態勢を取り、奈良には順尊の兄弟で光宣の跡を継いで成身院門主となった順宣を配置して、箸尾為国、十市遠清とともに迎撃態勢を取りました。
そして5月14日早朝、奈良で戦端が開かれます。
早朝、新薬師寺に陣を構えた古市胤栄、越智家栄ら西軍と、春日大社、興福寺境内に陣を置く成身院順宣、箸尾為国、十市遠清ら東軍は、春日社大鳥居前で激突。
しかし越智勢がなぜか合戦に加わらなかったことから、古市勢は一族5名家臣13名が討ち死にする大損害を被り、胤栄と弟・澄胤も生きているのが不思議と『大乗院寺社雑事記』に記されるほどの大敗を喫します。
なお、この戦いの5日後、胤栄は隠居し、7月には弟の澄胤が兄から家督を引き継ぎました。
次いで、山城の下狛(現京都府精華町)、天神河原(現京都府木津川市)で西軍の大内政弘と東軍の筒井順尊と佐川衆が合戦。
大内方は「侍分」65名、雑兵百人余りを失って大敗し、西軍主力の大内政弘を撃破した順尊の武名は大いに高まりました。
5月末には、再び南和での楢原、吐田両軍の戦いが再燃し、東軍・布施氏が西軍・万歳氏の集落に焼き討ちをかけるなど、東軍の攻勢が強まります。
南山城、奈良での勝利に沸く大和の東軍は、一気呵成に南和も席巻する勢いを見せ、筒井順尊、箸尾為国は布施氏とともに万歳城に攻め寄せました。
これに対して大和における西軍主力の越智家栄は万歳氏の救援に向かい、6月8日に万歳城で決戦となります。
万歳氏は城を打って出て応戦し、越智家栄と連携(おそらく挟撃に成功したと考えられます)して寄せ手の東軍を撃破しました。
筒井、箸尾、布施は壊滅的打撃を受けて大敗し、順尊は這う這うの体で、畠山政長を頼って河内に敗走する有様でした。
楢原と吐田の戦いも吐田氏の勝利に終わり、大和の東軍は6月の南和での敗戦で、一転して窮地に陥ることになります。
そんな中、翌1476(文明8)年4月に大和東軍の中心人物だった筒井順永が世を去りました。
享年58。筒井家家督は嫡男・順尊が継ぐこととなります。
大乱の終結と筒井氏の没落
大和で激しい戦闘が繰り広げられている間、京都では大御所・義政と細川氏による終戦工作が実を結びつつありました。
1475(文明7)年3月に越前で朝倉孝景と争っていた甲斐敏光は、遠江守護代の地位を得ることを条件に東軍へ降伏。
甲斐の主君で前管領の斯波義廉も11月には尾張へ去り、いよいよ東軍の優勢は揺るがなくなりました。
翌1476(文明8)年9月には大御所・義政から大内政弘へ終戦への協力を求める御内書が送られると、政弘もこれに同意します。
12月には義視が義政へ「西軍への参加は伊勢貞親の讒言で命の危険を感じての自衛行動で、謀叛の意図はない」と釈明。
義政はこれを受け入れ、自身も貞親の讒言を信じたことを詫びたことから、京都では急速に和睦の方向に動き出します。
ここに至って戦闘の継続を望むものは畠山義就一人となり、大内政弘が戦いから離脱した場合、義就は京都で孤立する危険が生じました。
翌1477(文明9)年9月21日、ついに畠山義就は京都から退去することを決意し、自邸を焼き払って一路河内を目指します。
この時、京都を去る義就を追撃する東軍諸将はなく、事実上、京都での戦闘は終息しました。
京都を去った義就が河内に到着すると、西軍の越智家栄、古市澄胤、東軍の筒井順尊ら大和の国人たちも続々と河内に集結してきました。
義就は河内の政長方拠点である若江城(現東大阪市)を攻撃すると見せかけ、9月27日に天王寺城(現大阪市)を急襲。政長方はなんとかこれを撃退したものの、今度は客坊城(現東大阪市)を襲ってこれを奪取します。
義就の勢いに焦った政長は大御所・義政に泣きつき、義政は慌てて朝廷に義就治罰の綸旨を求めましたが、義就の電撃戦を止めることはできませんでした。
10月3日に義就は八尾城(現大阪府八尾市)を陥落させて若江城と誉田城(現大阪府羽曳野市)の連絡を遮断すると、10月7日には誉田城も陥落させます。
同日、古市澄胤が守る教興寺城(現大阪府八尾市)に筒井順尊が攻撃を仕掛けますが、古市勢は順尊を撃退しました。
誉田城を落とした義就は、10月8日には若江城も攻め落とし、わずか20日足らずで河内一国を切り取ってしまったのです。
河内を平定した義就の次なる標的は大和でした。
義就の大和侵攻を側面支援すべく、10月13日にいまだ在京していた大内政弘が般若寺まで軍勢を進めると、大和国内の東軍勢力はたちまち逃散します。
筒井順尊は一族の福住氏を頼って東山中に逃れ、成身院順宣、箸尾為国ら主だった者たちが逃亡して行方をくらまし、東軍で本拠に残っていたものは十市遠清くらいという有様となりました。
こうして京都を去った畠山義就は河内、大和を支配下に収めて自立します。
中央の権力に寄らず地方に割拠した義就は、まさに戦国大名の嚆矢というべき存在と評してよいでしょう。
義就が河内・大和を切り取った翌月の11月3日、ついに大内政弘は周防、長門、豊前、筑前の守護就任と石見、安芸の所領安堵、従四位下左京大夫任官という破額の条件と引き換えに幕府へ「降参」しました。
11月11日には大内政弘、土岐成頼(美濃守護)、畠山義統(能登守護)ら西軍諸将は陣を引き払って分国へ帰国します。
この時、大御所・義政から正式に赦免されなかった足利義視も土岐成頼に同行して美濃へ去り、ここに東西幕府の分裂状態は解消されました。
こうして11年に及んだ応仁の乱は、東軍勝利で一応の収束を見ます。
しかし、大和では東軍方は畠山義就により駆逐され、本来大乱の勝利者である東軍を開戦当初から支えた筒井氏が、自領を失い没落してしまったのは、なんとも皮肉な結果と言うほかないでしょう。
応仁の乱が終わっても、1454(享徳3)年以来続く畠山義就と畠山政長の争いは収まることを知りませんでした。
本拠を追われた筒井氏一党は反撃の機会を狙い続け、畠山氏の内訌とともに引き続き大和の戦乱は終わらなかったのです。
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