大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

山城国一揆の拠点・上狛環濠集落(大里環濠)と茶問屋街(福寿園)・旧山城町中心街区を巡る

皆さんこんにちは。

 

普段奈良県内を中心に町歩きのスポットをご紹介している当ブログですが、今回は京都府木津川市まで足を延ばして、山城町中心市街エリアをご紹介します。

奈良県外の環濠集落にも興味があって、以前から訪れたい場所でもありました。

場所はこちら。

JR奈良線上狛駅の西側に広がるエリアで、山城地域で最大級の環濠集落・上狛環濠集落と、かつて京都のお茶の一大集積地だった上狛茶屋問屋街という二つの歴史的エリアが、集まっている場所なんです。

上狛環濠集落とは

JR上狛駅の西側に広がる上狛環濠集落は「大里」と呼ばれ、東西約330m、南北360m四方を水堀と土塁に囲まれた大規模環濠集落でした。

環濠の成立年代は不明ですが、集落そのものは古代条里制集落を起源とし、中世に当地を拠点とした狛氏が館城を築城すると、応仁の乱前後に畿内の戦乱が激化する中、徐々に環濠が整備されて現在の規模にまで拡張されたとされます。

以下の航空写真を見ても、集落一帯がすっぽりと環濠の中に入っていることが分かりますね。

上狛(大里)環濠集落(国土地理院HPより作成)

町の中心を、京都と奈良を結ぶ中世の大動脈・奈良街道が貫いています。

上狛環濠のある現在の南山城地域、久世郡、綴喜郡相楽郡には、中世に大きな力を持つ国人が現れず、領主たちは京都や奈良で大きな戦乱が起こるたび外部勢力に翻弄され、安全を脅かされ続けていました。

応仁の乱では南山城の国人衆は東軍、西軍に分かれて相争い、乱が収束した後も、河内国を本領として大和国から南山城への影響力が強かった管領家畠山氏の内訌が続く中、南山城の国人たちは南山城守護である畠山政長と、畠山氏家督を争う義就の終わりの見えない争いに巻き込まれて疲弊していきます。

1485(文明17)年12月、政長、義就両軍が木津川沿岸の南山城地域で小競り合いを繰り返す中、ついに久世、綴喜、相楽3郡の国人たちが集会を開いて、両畠山氏の排除を核とした「国中掟法」を決議。

南山城各地に展開していた両畠山氏の軍勢を、12月17日までに完全撤退させ、以後、守護の支配を受けることなく国人36人の合議による統治体制が発足します。

これが、歴史教科書でも紹介される山城国一揆(惣国一揆)で、上狛一帯の領主であった狛氏も、「国中三十六人衆」の一人として名を連ねました。

山城国一揆による南山城の自治は8年続き、一揆解消後も狛氏は上狛の国人領主として存続。

織田信長の上洛時には時の当主狛秀綱は知行300石余りを安堵されています。

しかし信長が本能寺で横死すると、秀綱は上狛に閑居し、豊臣秀吉の時代には居館周辺のわずかな田地を名請するに留まるようになりました。

秀綱の玄孫・忠成は1671(寛文11)年に大和国宇陀松山織田家織田信雄流)に小姓として仕官し、以後、狛氏宗家は宇陀松山の後、主家転封に従って柏原織田家の家臣として上狛の地を離れます。

江戸時代の上狛村は時代により諸藩領、皇室領と頻繁に領主が変わりましたが、幕末は津の藤堂家領として明治を迎えました。

 

環濠南東~北西

それでは、現在の集落の様子をご紹介します。

まず、環濠のうち良好な形で残っている南東から北西にかけての環濠を見ていきましょう。

こちらは集落南西の環濠跡の水路。

かつて三間(約5.4m)あったとされる堀幅は、現在3m前後でしょうか。

多くの環濠集落の水堀が近代以降に姿を消す中、上狛環濠の堀は農業用水路として現在も利用されているため非常に良好な形で残っています。

 

環濠内外の高低差は東側に比べて西側がより大きくなっています。

狛氏の居館周辺から城郭化された環濠の面影は、南西から北西にかけての堀跡に最も強く残っています。

環濠内

奈良街道沿い

集落を南北に貫く奈良街道を進みます。

上狛環濠集落を一本道で貫く通りは奈良街道のみ。

集落内は奈良街道を軸として枝状に狭い路地や行き止まり、T字路やクランクが続く、典型的な環濠集落の町並みになっています。

 

南側の環濠入り口から150mほど北に進むと、奈良街道は大きく屈曲します。

巨大なクランクに西から繋がる路地には、大きな町屋の長屋門が連なっていました。

集落内でも古くからの住宅が、比較的集中して現存しているエリアです。

 

クランクのすぐ北側は、旧上狛町の中心地。

上狛郵便局前に「旧上狛町役場跡」の碑が立っています。

西福寺

郵便局の前から東に延びる狭い路地の奥に浄土宗寺院、仏山西福寺があります。

創建年は不明ですが、1560(永禄3)年に僧・道春により中興されたと伝わる古刹で、戦国時代末期に付近を支配した狛氏当主・狛秀綱ゆかりの寺院でもあります。

狛秀綱は織田信長に仕えて狛氏の勢力拡大を図った人物で、西福寺には秀綱の位牌と肖像画(こちらをクリック)が伝わります。

国人クラスの肖像画が残されることは極めて珍しい例で、秀綱の肖像画当時の国人層の風俗を知るうえで貴重な史料ととなっています。

そういえば、地元奈良でも肖像画が残っている戦国武将って、筒井順昭、順慶くらいで、筒井氏と並ぶ有力国人だった越智氏、十市氏、箸尾氏、古市氏の面々は、肖像画は残されてないですもんね。

 

また、鐘楼のすぐ傍には、上狛惣墓から発見された狛氏一族の墓石が保存され、その中には秀綱の墓石も含まれています。

 

狛どんの井戸(大里環濠大井戸)

上狛小学校の少し南側に西へ伸びる路地があります。

この路地を西に進むと民家の中に見えてくる井戸が、「狛どんの井戸」と呼ばれる郷井戸(共同井戸)です。

「狛どん」とは「狛殿」の意でしょう。

この井戸は狛氏居館である狛城の西北にあったと推測されており、この井戸を含めた一画が城館跡と推測されています。

完全に個人宅の中にあるので、最初に西側から歩いてきたら完全に見落としてしまいました(苦笑)

遠見遮断の町並み

奈良街道から一歩町の中に入ると、クランクやT字路の遠見遮断が施された狭い路地が続きます。

一方で集落の出入り口付近は枡形などが見られず、おそらく木戸門等を設けて防備を固める、中世の伝統的スタイルだったのかと思います。

上狛小学校~JR上狛駅

上狛小学校の付近が環濠集落の北限です。

小学校前の堀跡に掛けられている看板。

環濠集落であった町の歴史を、地元の子どもたちに伝えるものの一つですね。

北側の環濠も上狛小学校周辺は農業用水路として残っています。

環濠の東側は住宅街に入るところで姿を消し、ほぼ側溝の状態。

織物工場と民家の間にある、もともと堀だったと思しき路地を南に進むと、JR上狛駅前の通りに突き当たります。

JR上狛駅前にある1932(昭和7)年創業の小嶋織物株式会社さんの社屋。

昭和レトロなおそらく看板建築かと思いますが、曲面がとてもおしゃれな建築です。

瓦葺で隣接する町屋の建物とも違和感なく馴染んでいます。

 

上狛環濠集落の東隅に隣接するJR上狛駅

上狛環濠集落には無料の駐車場などはないので、来訪の際はJR上狛駅の利用が便利です。

茶問屋街

さて、上狛環濠集落から国道24号線を挟んで南側、奈良街道を南下すると製茶業者が多く集まる地域、茶問屋街があります。

木津川沿岸地域は古くから茶の産地として知られますが、上狛が製茶産業の町となるのは幕末、神戸の開港がきっかけでした。

当時ヨーロッパ、とくにイギリスでは嗜好品だったお茶が、産業革命後に広く庶民にも広まって国際的な需要が急騰します。

元々綿問屋が多かった上狛の商人たちは、この世界的な流れを見逃さず茶業へ転じ、南山城から大和北東部、伊賀の茶葉を、木津川の水運や伊賀街道を通じて上狛に集積させ、木津川の川湊であった上狛浜から木津川、淀川を経て神戸から海外へ輸出するルートを確立しました。

茶の海外輸出で大いに賑わった上狛は「東神戸」と呼ばれるまで発展します。

茶の海外貿易は明治の末には衰えてきますが、明治末から昭和にかけては、大きくなった国内需要のもと引き続き多くの茶問屋が軒を連ねました。

 

現在も変わらず製茶会社が多い地域で、古い商家の町並みも残りますが、幕末の開国によって発展した点では、明治の近代化によって生まれた町と言えるでしょう。

奈良街道沿い

国道24号線から奈良街道沿いに南へ進み、コミュニティバスの「茶問屋街」バス停付近から、ちらほらと古い商家の町並みが見えてきます。

奈良街道沿いに立てられた『山城茶業之碑』。

1884(明治17)年に結成された山城茶業組合により近年建立されました。

茶問屋街でひときわ目立つのが福寿園さんの建物。

こちらは福寿園本店。大きなお屋敷ですね。

1790(寛政2)年創業の老舗茶商で、初代は福井伊右衛門

サントリーのお茶飲料ブランド・『伊右衛門』とコラボしているのが、こちらの福寿園さんになります。

勝手に宇治あたりの会社なのかなと思っていたのですが、山城町の会社だったんですね。

本店の雨どいには初代伊右衛門の名に由来する「イ」の屋号が刻まれていました。

もっくん(本木雅弘さん)の顔と、久石譲作曲のメロディーが頭に浮かんできました。

『山城茶業之碑』から奈良街道沿いに南へ、老舗茶商の町並みがさらに続いています。

福寿園茶問屋ストリート

福寿園本店前の路地を東に入ると、2017(平成29)年に開設された福寿園茶問屋ストリート国道24号線沿いの福寿園本社・山城工場まで続いています。

往時の茶問屋街を再現した通りで、福寿園の資料館があります。

お茶が飲める場所がないかと探しましたが、現在(2023年1月現在)喫茶スペース等計画中とのこと。

本社工場から、お茶を蒸すいい匂いが漂ってきます。資料館は事前予約制とHPには記載がありましたが、後日開館中に訪れると、案内いただくことが出来ました。

■電話:0774-66-6280
■住所:京都府木津川市山城町上狛東作り道16(福寿園本社西)
■開館時間:10時~12時、13時~16時
■休館日:不定
■アクセス:JR奈良線「上狛駅」から徒歩約8分

資料館では美味しい玉露もいただけます。

下記の記事で詳しくご紹介していますので是非ご一読ください。

 

訪問した当日は、通りに漂うお茶の香に我慢できず、「伊右衛門」を自販機で購入していただきました。

お茶やお菓子を美味しくいただける喫茶スペースができるのが待ち遠しいですね。

 

木津川市の旧山城町中心市街地にあたる上狛地区は今回初めて訪れましたが、農業用水路としてかつての環濠が良好に残り、町割りからもかつての中世環濠集落の外観が残されていました。

特に郷井戸が残っているのは貴重かと思います。

環濠内は農村集落として発展して商家はほとんど見当たりませんが、商業地は近世以降、木津川河畔にあった川湊に近い茶問屋街周辺に発展していった様子も、歩いてみるとよくわかりました。

正直なところ上狛が「お茶の町」というのは、不勉強で今まで知りませんでした。

京都でお茶というと、どうしても宇治を思い浮かべますが、上狛の方は幕末以降の後発ということもあってか余りPRされることもなく、他府県の人には「お茶の町」というイメージがありません。

「京都のお茶」といえば、日本ではトップのブランド力を持つお茶です。

京都府南部の相楽郡は日本有数の茶の生産地で、その流通の中心地だった上狛地域は、「お茶の町」としてその歴史も含め、もっと大きく注目されるべきスポットだと思いました。

 

最後に、上狛を初めて散策して色々調べて、改めて筆者の地元奈良と関係の深い地域だなと感じました。

山城国一揆で、畠山氏の手先になって南山城地域に布陣した他国衆の中心は、奈良の国人たちで、筒井氏、越智氏、古市氏といった奈良県戦国史ではお馴染みの面々。

町を走るバスも奈良交通で、南都銀行の支店もあったりと、環濠ともども親近感いっぱいの散策になりました(笑)