大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

天下人を支えたナンバー2。大和大納言、豊臣秀長

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皆さんこんにちは。

 

成功する組織には優れたリーダーはもちろんですが、優秀な補佐役となるナンバー2がいるものです。

織田信長の覇業を継承して、天下人となった豊臣秀吉

下層階級の出身から武士となったと考えられる秀吉が、第一の家臣として、終生最も信頼したのが、実弟である豊臣秀長でした。

 

しかし、劇的な数多くのエピソードで彩られた秀吉に比べると、秀長は存在感があまりありません。

秀吉の生涯を描いた小説、ドラマ等は数多くありますが、秀長が存在感を持って描かれたのは、堺屋太一の小説「豊臣秀長」を原作の一つとした1996年の大河ドラマ「秀吉」と、古田織部を主人公とした漫画「へうげもの」くらいしか、私の頭には浮かんできません。※秀長を主人公とした小説などは除きます。

 

兄と同じく無位無官の下層庶民から武士となり、最後は権大納言、100万石の太守にまで出世したのは、秀長を除いては兄の秀吉以外になく、兄同様、破格の立身出世で、その生涯そのものが劇的といえるのですが、多くの秀吉の業績を裏から支えることがほとんどだったためか、まさに秀吉の「影」のような存在として、その活躍が秀吉の偉業に埋没してしまった人物といえるでしょう。

 

出生から本能寺の変まで

秀長は、1540(天文9)年、尾張中村に生まれました。

母は、兄秀吉と同じなか(のちの大政所)、父は竹阿弥と伝わりますが、生年から秀吉と同じ弥右衛門という説もあって判然としません。

幼名は、竹阿弥の子ということから小竹と通説ではなっていますが、これも文献資料では確認されておらず、秀吉から誘われ、その初めての家臣となるまで、秀長がどのように呼ばれていたのかは、史料上は全くの不明です。

 

通説では、秀吉が組頭となり、おねを妻に迎えた1561(永禄4)年頃に、兄である秀吉に誘われて、その配下となったといわれます。

兄弟だから、自然と家臣になったと思われがちですが、状況的に秀吉と秀長の関係が、最初からそれほど親密だったとも実は思えません。

というのも秀長が10歳前後のころ兄、秀吉は生家を出ており、2~3歳年下の秀長は、兄が不在の実家で唯一の男手として、母と姉、妹を支えていました。

秀吉が家を出てからずっと実家に顔を出していなかったとすると、10年ほど家を出た切り音信不通で、いきなり自分を家臣に迎えに来た秀吉は、さしずめ、家出したきり18年ぶりに実家のとら屋に帰ってきた「男はつらいよ」の寅さんのような感じだったことでしょう。

ともあれ、秀長はそんな兄の家臣となることを決断して、武士となります。

兄と同じく上昇志向が強かったのか、はたまた秀吉の人たらしの術にはまったか、理由や事情はわかりません。

 

秀吉に仕えるにあたって、木下小一郎と名乗り、後に長秀の諱を用いました(1582(天正12)年まで。当ブログでは便宜上秀長と呼びます)。

 

秀長の名が史料上に出始めるのが、秀吉が長浜の城主となったころで、1574(天正2)年、越前一向一揆に対峙して動けなかった秀吉の代理として、長嶋一向一揆との戦いに参陣しています。

また、秀吉が北近江を本拠とした頃、藤堂高虎小堀正次といった浅井家旧臣を、秀長は大禄で配下として召し抱えています。後に、秀吉の天下統一事業で、秀吉直属の石田三成増田長盛同様、軍事だけでなく築城をはじめとした土木工事や検地などを着実にこなす技術官僚として秀長を支えたのが、彼ら近江出身者でした。

 

軍事面で秀長が歴史の表舞台に本格的に姿を現すのが、秀吉が中国攻めの総指揮官となった1577(天正5)年頃からです。

この頃、秀吉が自身の参謀となったばかりの黒田官兵衛宛に「お前を小一郎(秀長)と同じよう思っている」と書いた書状が残されており、秀長が武将として秀吉から無二の信頼を得ていたことを示すものといえるでしょう。

 

秀吉による播磨平定後、秀長は3000の兵を率いて但馬攻略に向かい、現在天空の城としてすっかり但馬地方を代表する観光地となった、竹田城を攻撃。これを攻略して秀長は城代として竹田城に入り、但馬、山陰方面の攻略を担うことになります。

その後、明智光秀の援軍として丹波の攻略に出陣しますが、1578(天正6)年に播磨の別所長治、摂津の荒木村重が相次いで信長に反旗を翻すなど、毛利の攻勢が続いていったん但馬攻略は停滞したものの、1580(天正8)年に但馬攻略を本格的に再開。

秀長は山名氏の拠点であった有子山城、出石城を相次いで落城させ、山陰の名門、山名氏勢力を駆逐して但馬を平定しました。

その勢いのまま、秀吉の与力であった宮部継潤とともに因幡に侵攻した秀長は、鳥取城を包囲。城主山名豊国は降伏を申し出たものの、翌年、毛利寄りの城兵たちは、毛利家から吉川経家を新たな城主に迎え入れ、徹底抗戦します。

この攻囲戦には秀吉も加わり、半年にわたる壮絶な兵糧攻めによって鳥取城はついに落城しました。

翌1582(天正10)年、秀長は兄秀吉とともに備中高松城の攻囲戦に参加。

水攻めによって水没した備中高松城を包囲している最中、兄とともに本能寺の変の凶報を受け取ることになります。

 

兄の天下統一事業を支える

信長死すの報に、毛利との和睦を素早く取りまとめた秀吉は、猛スピードで畿内へ転進。

いわゆる中国大返しに秀長も加わります。

続く山崎の戦いで、秀長は黒田官兵衛らとともに天王山山麓に陣取り、明智軍先鋒隊と激戦を繰り広げました。

翌1583(天正11)年に秀吉が柴田勝家と信長の後継を巡って争った賤ヶ岳の戦いでは、秀吉が勝家だけでなく、岐阜の織田信孝、伊勢の滝川一益と三正面作戦を強いられる中、美濃大垣に進出した秀吉に代わり、秀長は近江木ノ本で3万の勝家軍を迎撃することになります。

当初、攻勢に出た勝家でしたが、黒田官兵衛とともに秀長は兄秀吉の命に忠実に従い、防戦に徹して前線をよく持ちこたえました。

その間、兄秀吉が大垣から52キロの道のりを、わずか5時間で踏破して来援(美濃大返し)し、勝家に与していた前田利家の戦場離脱もあって、戦いは秀吉の勝利に終わりました。

秀長は、この賤ヶ岳での軍功により美濃守に任官して、播磨・但馬の2か国が与えられます。ここに秀長は2か国を領する大大名となり、播磨は姫路城、但馬は有子山城をその支配の拠点としました。

翌1584(天正12)年に織田信雄徳川家康の連合軍と秀吉が戦端を開きます。

秀吉が家康と対峙して濃尾平野で激しい攻防を続けていた時、秀長は、織田信雄を相手に伊勢を攻略。

どうしても小牧・長久手の戦いを中心とする秀吉、家康の激突に注目が集まりがちな戦いですが、秀長は伊勢の峯城松ヶ島城戸木城といった信雄の拠点を次々と落城させて信雄を追い詰め、最後は自ら和睦交渉をまとめて信雄を戦線から脱落させます。

この秀長の働きによって、濃尾平野で秀吉と互角以上に渡り合っていた家康も戦いの大義を失って撤兵せざるを得なくなり、最終的に秀吉に服属することとなるのです。

秀長らしく、地味ながら、非常に大きな活躍といえるでしょう。

また、小牧・長久手の戦いで、榊原康政らの奇襲で壊滅的な敗北を喫し、秀吉から激しく叱責された甥の秀次をかばい、1585(天正13)年の紀州征伐や四国攻めでは、副将に秀次を据えて戦功を立てさせ、兄秀吉の信頼を回復させるよう尽力します。

主君信長の死以降は、苛烈な専制君主となった秀吉は、能力のないものに対しては身内と言えども容赦がありませんでしたが、秀次はもう一人の優しい叔父である秀長のフォローで、後に関白にまで上り詰めるのです。

 

紀伊を制圧した後、秀長は新たに和泉、紀伊も所領として与えられ、紀伊支配の拠点として、藤堂高虎和歌山城を築城させます。

この時点で60万石を超える大身となっており、秀吉子飼いの将としては抜きんでた領土を与えられており、信頼の高さを示すとともに、秀長も兄の期待に応えて、優れた配下を従えて、領国運営を堅調に進めます。

 

四国攻めでは、病を発した秀吉に代わって、秀長はついに総大将を務めることになります。

伊予には毛利輝元が、讃岐には宇喜多秀家黒田官兵衛らが侵攻し、秀長率いる大和、和泉、紀伊衆からなる3万の軍勢は淡路経由で阿波へ侵攻しました。

阿波の諸城を次々と陥落させて、四国の覇者、長宗我部元親に圧迫をかけ、当初頑強に抵抗の意思を示していた元親も、家臣の説得もあって降伏を決意。

土佐一国安堵と阿波、伊予、讃岐の割譲という条件を元親が呑み、秀長は四国平定を成し遂げます。

四国平定の功により、秀長は播磨姫路から大和郡山へ国替えとなり、大和、和泉、紀伊三か国、100万石の太守となりました。

 

大和大納言

四国を平定した秀吉は、畿内の直轄地化を進めます。

その中核を担ったのが秀長であり、特に在地勢力が強く、外部勢力には治めにくい大和、紀伊を任されました。

大和に入った秀長は、戦国末期に大きく揺らいだ寺社勢力の世俗的な支配にとどめを刺す政策を次々と打ち出していきます。

 

まず取り組んだのは検地です。

大和入国早々に、秀長は寺社に対して指出(自己申告)による検地をおこない、寺社の土地所有の把握と、土地を通じた国人達との関係遮断を進めます。

興福寺に対しては、信長時代の申告内容と違うことを問題視するなど、かつての大和の支配者にも容赦のない姿勢で臨みました。

 

また、興福寺最大の衆徒であった筒井氏が伊賀に国替えとなり、大和に残った国人達が秀長の傘下に組み入れられたことで、寺社の暴力装置であった国人たちが完全に寺社から切り離されます。

さらに秀長が新たな本拠である郡山の城下町の振興策として、奈良での商売を禁じたことによって、興福寺門前として栄えた奈良の町は衰退。

これも大和国内における興福寺のプレゼンスを大幅に下落させる効果があったことでしょう。

 

また、秀長が大和に移ってすぐに、興福寺と並ぶ強勢を誇った多武峰妙楽寺(現談山神社)は、刀狩りの先駆けとして衆徒たちの武装解除と下山を余儀なくされたばかりか、なんと郡山への移転を命じられます。

1588(天正16)年には郡山城内へ本尊である大職冠像の遷座が実行され、多武峰の堂宇は破却されました。

戦国時代に松永久秀を撃退するなど、要害の地であった多武峰から妙楽寺を引き離し、徹底的に無力化しようという意図が感じられますね。

 

寺社を屈服させた秀長は、郡山城の拡張と城下町の整備を進めます。

兄秀吉の本拠である大坂城を守る西の抑えにふさわしい城郭として、秀長は郡山城の大規模拡張を進めました。

本丸をはじめとした主要な曲輪を築造し、現在残る郡山城内郭は秀長時代のものになります。

城下郡山の町には商工業者を集め、税金免除や営業の独占権を認めるなどの保護政策をとり、後に箱本十三町と呼ばれる郡山の町の原型を作りました。

先述の通り、秀長が奈良での商売を禁じたことで、郡山は大和における中心都市として成長することになります。

 

秀長が大和に入った翌年1586(天正14)年、奥熊野地侍による大規模な反乱(北山一揆)が発生し、秀長自ら兵を率いて鎮圧に向かいます。

いったん一揆は収まったものの火種はくすぶり続け、1589(天正17)年に藤堂高虎を差し向けて住民を虐殺。徹底した弾圧で一揆を鎮めました。

温和なイメージの強い秀長が見せた、最も苛烈な処置だったのではないでしょうか。

 

1587(天正15)年、前年から豊後の大友宗麟の要請により始まっていた九州攻めに出陣し、日向方面総大将を務めます。

相対したのは戦国最強の呼び声も高い島津軍。その中でも最強中の最強というべき、島津義弘、家久兄弟でした。

前年勃発した戸次川の戦いでは、長宗我部元親信親父子、仙石秀久十河存保らの率いる2万の豊臣軍を相手に、渡河作戦を強行した秀久を釣り野伏で包囲殲滅し、元親、秀久は敗走して信親、存保らを敗死させるなど、その強さを豊臣方に見せつけた兄弟です。

秀長が小倉に到着したころ、義弘は豊後府内(現大分市)に進駐していましたが、最大15万といわれる秀長率いる日向方面軍を目前に、島津家当主の島津義久は戦線の縮小を決意。義弘に豊後の放棄を命じて、撤兵させます。

撤退する島津軍を秀長は追撃。日向の諸城を陥落させ、南部の要衝高城を包囲しました。

島津軍は日向に主力を置いていたため、手薄の九州西部を秀吉の本隊に次々と攻略されていく中、義久は高城を囲む秀長に決戦を仕掛けて、局面の打開を図ろうとします。

高城の南側にある根白坂は、高城への救援ルートであり、この地に秀長は砦を構えて島津軍の来援に備えていましたが、島津軍が急襲をかけ激戦となります。

砦を守る宮部継潤を島津軍は抜くことができず、秀長から遣わされた藤堂高虎らの活躍もあり、島津軍は大敗を喫しました。

秀長に主力を叩かれた義久は戦意を喪失し、降伏を決意。秀長に和睦を申し入れ、島津軍の組織的な戦闘は終結することになります。

 

戦後、九州攻めの功績によって従二位権大納言に叙任されたことから、大和大納言と呼ばれるようになります。

 

秀吉を支え続けた生涯

1586(天正14)年頃から体調を崩すことが多くなった秀長は、九州攻め以降、戦場に立つことはなくなりましたが、豊臣家中をよくまとめ、荒ぶる専制君主となった兄秀吉に直言できる、唯一の人物として、豊臣政権に重きをなしました。

1588(天正16)年、長男を早くに失って男子のいなかった秀長は、甥で10歳の秀保(関白秀次の弟)を養子に迎えます。

また、この年の9月、前年一緒に従二位権大納言に叙任された徳川家康郡山城に招き、自ら案内役となって奈良見物を行って歓待しました。

当時家康は駿河大納言と呼ばれ、大和大納言秀長と対となる存在であったことが伺えますね。

また、家康に続いて毛利輝元小早川隆景吉川広家郡山城を訪れており、豊臣政権内の外様大名たちから一目置かれる存在であったことが伺えます。

 

1589(天正17)年、秀長は家老の本多俊政に命じて、かつての越智氏の居城で大和南部の中心城郭あった高取城を大規模改修し、大和支配のさらなる強化を進め、奥熊野の北山一揆も鎮圧するなど、自領の支配強化に勤めました。

しかし、数年来病がちとなっていた秀長は、翌1590(天正18)年1月に病を悪化させ、郡山城で臥せることになります。

この年は小田原征伐、奥州仕置と秀吉の天下統一事業の総仕上げの年でしたが、秀長は病のため、この戦いに参陣はかないませんでした。

秀吉は、奥州仕置を終えて9月に帰還すると、10月郡山城を訪れ、秀長を見舞います。

秀吉は最も頼りにしていた身内である秀長の平癒を願い、興福寺の寺領を加増したり、12月には郡山城内に移転させた大職冠像を再び多武峰遷座させるなどしています。

なりふり構わず、大事な弟の命を救いたいという秀吉の姿が浮かんできますね。

 

翌、1591(天正19)年1月。いよいよ秀長の病が重くなる中、秀長の次女おみやと養子の秀保が祝言を上げます。

跡継ぎ秀保とおみやの結婚を見届けた1月22日、秀長は郡山城内で波乱に満ちた生涯を閉じました。享年52。

秀長の死後、郡山城内には多くの金銀が蓄えられていたといいます。

実際蓄財には熱心だったようで、九州征伐では出陣した他の大名に割高な兵糧を売りつけようとして秀吉からたしなめられたり、領地である紀伊の材木売買で、巨万の富を蓄えました。

秀長が、死後、部屋に積みあがるほどの財を残したその様を、多聞院英俊は、多聞院日記で「せっかく貯めた財宝も死んでしまっては用を足さない。さぞ命が惜しかったことだろう。あさましい、あさましい」と侮蔑をこめて書き残しています。

英俊は秀長に領地も権威も貶められた興福寺の人物なので、恨みの深さがにじみ出ていますが、かの司馬遼太郎は「あさましいのはむしろ、彼の在世中、理由をかまえてはかれから金穀をむしりつづけたかれらのほうであったであろう」(『豊臣家の人々』第五話・大和大納言)とその著書で、英俊ら、奈良の寺社勢力を皮肉をこめて論評しています。

 

司馬遼太郎も指摘していますが、秀長は蓄えた金を自分のために使うことはほとんどなく、領地の経営や政権の維持のため、積極的に散在していたものと考えられます。

様々な訴訟や調停のとき、あるときは相応の金子を渡して相手をなだめたり、家康や毛利を歓待したように、有力な外様大名を政権内に取り込んでおくための交際費は惜しみなく使いました。

 

現在郡山城内にある永慶寺の山門は秀長時代の郡山城城門とされていますが、大変質素な作りで、うなるほどの財を蓄えながら秀長が自分のために贅沢な金を使わなかった一つの傍証といえるでしょう。

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天下人となった秀吉は、信長以上の非情な独裁者となりましたが、秀長存命中は、身内の失態や敗者への対応も、秀長のとりなしによって穏便なものが多く、それが政権の潤滑油となって家中も収まっていました。

ところが秀長死後、秀吉は猜疑心を抑えられなくなって、秀頼のライバルとなることを恐れて秀次とその係累ばかりか、その重臣たちや取り巻きの大名までも粛清したり、追放した昔の家臣を執念深く追いかけて処刑するなど、次第に人心を失っていきます。

 

絶対にトップを脅すことはなく、トップに寄り添いながらも直言ははばからなかった秀長は、日本史上、最高のナンバー2の一人であったといえるでしょう。

秀長が、秀吉、家康よりその地位を保ったまま長命であったとしたら、その後の歴史は少なからず変わっていたかもしれませんね。

 

また、秀長の配下には、武闘派は藤堂高虎を除くと少ないながら、優秀な技術系官僚的な人材が集まっていたことも見逃せません。

槍働きだけでなく築城術に優れた藤堂高虎

検地に辣腕を振るった小堀正次

正次の子で、作庭、建築に大きな才能を発揮させた小堀遠州

後に徳川家康の大工棟梁として、天下普請の多くの建築で活躍する中井正清

どの人材も、戦乱が収まった後、円滑な統治や文化政策に必要な才を持つ者たちばかりで、秀長にその才を見出された彼らは、秀長死後も、秀吉、家康と歴代の天下人のもとでその才能を発揮し続けることになるのです。

 

秀長ゆかりの場所

さいごに大和郡山に残る秀長ゆかりのスポットをご紹介します。

郡山城

秀長が大和郡山に残した最大の遺産は郡山城と郡山の街そのものといえるでしょう。

場所は近鉄郡山の北側。電車が便利ですが、追手門のそばに無料駐車場もあります。

 無料駐車場の場所はこちらです。

 ※それほど台数は止められませんので、満車の場合は郡山城ホールや近鉄駅前の三の丸駐車場への駐車がおすすめです。郡山城ホールの駐車場は2時間無料なので、お勧めです。

 

郡山城については当ブログの記念すべき記事第1号、2号でご紹介していますので是非ご覧ください。

www.yamatotsurezure.com

 

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・本家菊屋

創業は秀長が郡山城に入った1585(天正13)年。

秀長とともに郡山に入った菊屋治兵衛が創業した奈良県下でも屈指の老舗和菓子店です。

場所はこちら。

大和郡山市役所の南側、かつての郡山城の城門のすぐ前にあります。

名物は、茶会で秀吉をもてなすため、秀長に命じられて作られた「御城之口餅」です。

 

本店はとても風情のある店構えで、お店でお茶と一緒にお菓子をいただくこともできますので、お城巡りや街歩きの休憩にお勧めです。

 

・大納言塚 

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 秀長が死後葬られた墓所になります。

場所はこちらで、近鉄郡山駅からは少し距離があります。

駐車場がありませんので、お越しの際は近所の有料駐車場(田北病院の駐車場などおすすめ)をご利用ください。 

かつては、大光院という秀長の菩提寺が、現在の大納言塚の付近に建立されていましたが、秀長の養子、秀保が夭逝して大和豊臣家が絶えた後、藤堂高虎が大恩ある旧主の菩提を引き続き弔うため、大光院を京都大徳寺に移転させ、位牌は大和郡山市内の春岳院に移しました。

その後、一時墓所は荒廃しましたが、江戸時代中頃、春岳院と郡山の町衆により塀や五輪塔が建立されるなど整備され、現在に至ります。

 

大納言塚の入り口には「お願いの砂箱」と呼ばれる砂の入った石箱があります。

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小さな箱から大きな箱に、穴から砂を落とせるようになっていて、名前と願い事を3回唱えながらお願いすると、願い事がかなうといいます。

パワースポットに興味のある方は、ぜひ一度お越しください。

 

・矢田寺北僧坊

アジサイのお寺として有名な矢田寺。 

www.yamatotsurezure.com

矢田寺を構成する寺院の一つ北僧坊には、秀長が別宅として郡山城内から移築した茶室と書院を含む御殿が残されています。

下記のサイトで紹介されていますので是非一度ご覧ください。

yatadera.com

法隆寺の大修理や薬師寺の復興伽藍で有名な西岡常一棟梁によって昭和58年に修復されました。

アジサイの季節には北僧坊でお食事もできるようなので、アジサイとともにこちらの建物もぜひ押さえておきたいですね。

 

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