大和徒然草子

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奈良は「何もない」と思われている地域の「中世」が面白い!奈良の中世史と町の成り立ち

皆さんこんにちは。

 

飛鳥から奈良時代にかけての、古代史ロマンにあふれるスポットが注目されがちな奈良。

しかし、中世から近世にかけての遺構や人物も、奈良は見所いっぱいの場所であることを紹介したい。そんな思いで書き始めた当ブログも、2022年7月8日で丸3年となりました。

※これまでの3年間の取り組みをまとめた記事も併せてご一読ください。

ここまで書き続けられたのも、読者様のお陰と心から感謝です。

今後ともよろしくお願いします。

 

さて、奈良県内の一般的な観光スポットと言えば、世界遺産となっている3つの地域、東大寺興福寺、そして薬師寺のある奈良市中心部と西ノ京地域、法隆寺を中心とする斑鳩地域、桜が有名な吉野山周辺、そして古代ロマンあふれる飛鳥や、山の辺の道といったところでしょうか。

平城京藤原京、飛鳥など、奈良は「古都」のイメージで語られることが多く、聖徳太子天武天皇持統天皇聖武天皇といった著名人に関わるスポットが、どうしても注目されがちです。

なので、それらの地域に含まれない、とくに奈良盆地の中央地域は、田園が広がるだけで、観光すべき見所が少ない、ともすれば「何もない」地域と認識されているかもしれませんね。

でも、声を大にして言いたいのは、奈良で「何もない」と思われている地域は、「中世」が面白いスポットが山のようにあるということです。

 

都が去って奈良は生まれた

平城京から長岡京、そして平安京へと都が移転した後、かつての平城京の跡は、その大部分が農地化され、急速に寂れていきました。

では、国政の中心地ではなくなった大和国は、そのまま何もない一地方に零落していったのかといえば、どっこいそんなことはありません。

大和国平安時代から中世にかけ、政治的にも、経済的にも、しばしば中央政局に影響を与える、特別な地域であり続けました。

なぜ、都がなくなった後も、そのような地域であり続けたのか。

大きな要因は、古代以来の大寺社が、桓武天皇の施策によって大和国に残されたことにあります。

とくに東大寺興福寺といった大寺院は、皇室、摂関家と太いパイプを持ち、平安時代から中世にかけて、全国に広大な荘園を保有。多くの僧兵を抱えて、巨大な経済力と武力を保有する存在に成長しました。これら大寺院には全国の荘園から大量の物資が、年貢として集まるようになり、奈良にある大寺院の経済力を支えたのです。

そして、奈良の経済力の源泉である大きな物流を支えるうえで、大和国は他の国にはない大きなアドバンテージがありました。

奈良盆地を縦横に走っていた古代の官道です。

これらの街道を通り、とりわけ巨大な勢力となった奈良の興福寺東大寺には、全国の荘園からモノ、カネ、ヒトが集まったわけです。

そして、興福寺の門前として中世大きな発展を遂げるのが、現在の奈良市中心市街であり、散策スポットとしても人気の高い、奈良まちと呼ばれるエリア。

この町は、かつての平城京東端に突き出た外京に位置するため、平城京の外京がそのまま残ったと思われがちですが、実は元々興福寺に隣接していた元興寺の境内でした。

奈良まちは、元興寺の境内跡に興福寺の経済力を恃みとする人々が集住したことで、興福寺門前町として発生、発展した中世都市であり、都が去ったがために、新たな中心地として生まれた町だったわけです。

 

また、中世に入って諸国の物流が活発になると、古代官道に由来する街道沿いや、街道が交差する辻に市が立ち、町場として発展していきます。

古代以来の巨大寺院と官道が、中世大和を形作る基礎となり、都は京都へ去ったものの、大和全体は中世大きく開発が進むことになりました。

 

そして、中世における大和の開発を牽引したのが、奈良各地に広がった興福寺の荘園を現地で管理する荘官たち。中世に武士化した彼らは、そのまま興福寺傘下の衆徒、国民としてその軍事力を担います。

その武力と、寺院の伝統的権威は中央の武家政権にも煙たい存在で、鎌倉幕府によって諸国の武家が統制される中、大和はその支配に属さず、独自の展開を見せることになりました。

奈良と斑鳩に挟まれた大和郡山は中世の空間

奈良時代平城京が置かれた奈良市と、飛鳥時代の建築が立ち並ぶ法隆寺のある斑鳩町の間にある町というと、大和郡山市

矢田寺アジサイが市内では有名な場所ですが、実は県内でも有数の中世史跡が残る町です。

町の中央に古代の官道下ツ道に由来する中街道と、中世発達した下街道という2本の街道が南北に走り、市内南部を横断する現国道25号線は、これまた古代官道、北の横大路

このような地の利もあり、中世、現在の大和郡山一帯から力を持った勢力が、後に戦国大名筒井順慶を生むことになる筒井氏です。

筒井氏が根拠とした筒井の地は、下街道と横大路の辻にあたり、城内には市が立っていました。

街道の要衝を抑えた筒井氏は元々興福寺衆徒でしたが、大和最大の国人として戦国大名化し、織田信長に与したことで、大和一国の支配者へと成長したのです。

現在の筒井の町は、すっかり住宅地化されてしまっていますが、それでも旧下街道沿いの筒井城跡周辺は、路地の各所に往時の痕跡を偲ばせる食い違いの道筋等が残ります。

※筒井周辺の詳細は下記の過去記事もご参照ください。

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また、旧下ツ道の中街道沿いには、全国的にも有名な環濠集落である稗田環濠集落や、中世以来の水堀が美しい番条環濠集落など、多くの環濠集落が今に残ります。

奈良県は全国的に見ても、圧倒的に多くの環濠集落が残っている場所なのですが、多くの環濠集落が中世に形成された理由は、全国に先駆けて吹き荒れた戦乱によるものでした。

全国的に戦国時代の争乱が巻き起こるのは、応仁の乱明応の政変後の15世紀末からとされています。しかし、大和国では南北朝時代の14世紀前半から、継続的に戦乱が続く状態になっていました。

その原因となったのが興福寺別当(長官)を出す二つの門跡寺院大乗院一乗院の抗争です。

大和国の国人たちは興福寺の傘下にあったわけですが、決して一枚岩という訳ではなく、自らの領地を守るため、興福寺の二大派閥である大乗院、一乗院いずれかの衆徒となって睨み合っていました。

鎌倉時代から両派は小競り合いを続けていましたが、南北朝時代になると、それぞれ北朝方、南朝方に分かれ、大規模な戦闘を繰り広げるようになります。

こうして室町時代に、多くの大和国内の集落は環濠を備え、出入口や集落内の路地にクランクや遠見遮断を設け、城塞集落化。外敵からの襲撃に備えるようになりました。

奈良県内に多く残された環濠集落は、中世に巻き起こった激しい戦乱の痕跡なんです。

 

ちなみに、大和郡山にある稗田環濠集落は、農村型の環濠集落。

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一方、稗田環濠集落から中街道沿いにすぐ南にある番条環濠は、中世国人領主の館城がベースになっている環濠集落で、ご近所ですが、双方ルーツの違う集落になっています。

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さて、中世末期、筒井順慶織田信長から大和守護に任じられ、大和一国の拠点としたのが郡山城です。

1585(天正13)年、筒井氏が伊賀へ転封になった後、大和一国が豊臣家の直轄領化されると、秀吉の実弟である豊臣秀長が大和、紀伊、和泉100万石の太守として郡山城に入りました。

秀長は、郡山を豊臣政権の拠点にふさわしい規模に城郭を大改修し、城下町も大和国の経済中心地とすべく整備します。

現在の郡山城の縄張り(城郭の構成)や、城下の町割りは、秀長の時代にほぼ完成しており、城址公園と現在の市内中心部は、安土桃山時代の気風を今に伝える場所となっているんです。

 

城址公園は、かつて本丸への主要なアプローチであった極楽橋が再建されるなど、近年本丸を中心に整備が進み、豊臣家の築城様式を色濃く残す遺構としても貴重で、2022年6月には国指定史跡となることが答申されました。豊臣家の畿内支配における拠点城郭としての歴史的価値が、改めて評価された場所となります。

郡山城極楽橋

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また、城下町である市内中心部は、秀長時代の町割りが残るだけでなく、秀長の郡山入府とともに創業した和菓子店本家菊屋さんが、今も老舗の味を伝えています。

菊屋さんは創業から400年以上。奈良県もっとも歴史ある和菓子の老舗になります。

菊屋さんの看板商品は、「御城之口餅」。

秀長が兄秀吉をもてなすための茶菓子として、菊屋初代が考案したお菓子で、秀吉から「鶯餅」の銘を下賜された銘菓になります。

町の散策がてら立ち寄り、軒先でいただくと味わいもひとしおの一品。

安土桃山時代の味を、創業の場所でそのままに楽しめるって、なかなかできない体験です。

 

ちなみに、地元民の筆者が一番好きなのは「菊之寿」。

お饅頭なんですが、餡がバターの風味が薫る洋菓子のようなテイスト。

子どもの頃からの大好物です。

楽天のランキング1位を5週連続で獲得したこともあり、JALのファーストクラスのお菓子にも選ばれた点でも、そのおいしさに間違いないお菓子なので、ぜひたくさんの方に食べていただきたい一品。

 

他にもおいしいお菓子がいっぱいありますので、ぜひお店のページものぞいていただければと思います。

奈良市斑鳩町に挟まれ、歴史的なスポットとしての知名度は低いですが、環濠集落から近世城下町と、大和郡山奈良県における中世以降の歴史的スポットが、集中している地域といえるでしょう。

 

大和五ヶ所御坊をはじめとした寺内町

さて、奈良の中世を語るうえで、興福寺に代表される旧来の宗教勢力のほか、もう一つ無視できないのが浄土真宗。戦国期、一向宗と呼ばれた勢力の活動です。

1532(天文元)年、一向一揆大和国に乱入。興福寺を含む奈良の町一帯を焼き払った一揆軍は、興福寺や筒井氏、越智氏といった衆徒・国人衆と激しい戦闘を繰り広げ、最終的に大和国から撃退されます。

その結果、興福寺大和国内での一向宗の布教を禁じ、両宗派は激しい対立を見せました。

興福寺VS本願寺の熾烈な戦いは、下記の記事で詳しくご紹介しています!

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天文の一向一揆の後、大和国一向宗門徒は大弾圧を受けましたが、興福寺の影響力が比較的低い中南和以南に、教線を伸ばします。

天文の一揆で敗北した翌年、1533(天文2)年に、早くも一向宗門徒高市郡今井の地に念仏道場を開きました。これが今井御坊・称念寺です。

今井御坊・称念寺

今井の道場は、興福寺一乗院の国民である越智氏による襲撃を何度も受けて、都度破却されましたが、再建を繰り返し、1559(永禄2)年に松永久秀が大和への侵攻を開始すると、興福寺傘下の衆徒・国民たちはその対応に追われ、今井への干渉が弱まります。

この間隙を縫って、今井は周囲を濠で囲み、称念寺を中心とする寺内町今井町として急速な発展を見せることになります。

今井には、本願寺傘下の寺内町が持つ「租税の免除」「徳政(借金棒引き)の禁止」を柱とした「大坂並」と呼ばれる特権を目当てに、多くの商工業者が集住。江戸期には大和最大の商業都市に成長するのです。

今井町の詳細は下記記事でご紹介しています!

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今井町は現在でも500もの伝統建築の町屋が立ち並ぶ、知る人ぞ知る散策スポットとして人気ですね。

 

戦国期に発生した県内の寺内町としては、今井町の他、御所市の東御所もあります。

葛城川東岸の地に、1546(天文15)年に建立された御所御坊圓照寺を中心とする寺内町で、葛城川西岸の下街道沿いの町場であった西御所とともに、現在御所市の中心市街を形成しています。

東西御所からなる御所まちは、中世から近世にかけて形成された町割りが、現在もそのまま残り、古地図を見て散策できる町

今も市内に多くの伝統建築が残されています。

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さて、戦国時代が終わると、大和国に領地を持つ小領主たちの中から、領内の商工業を発展させるため、積極的に本願寺の寺を利用する動きを見せるものが現れます。

 

その嚆矢となったのが、奈良盆地のほぼ中央にある田原本の町です。

賤ケ岳の七本槍の一人平野長泰は、1595(文禄4)年、大和国田原本に5千石の領地を与えられました。

領主になったのだから、当然町づくりも殿様が行うんだろうと思うところですが、この長泰、なんと領内にある陣屋町(城下町)の経営を、浄土真宗寺院である教行寺に完全に委託してしまいます。

町づくりのノウハウを持っていなかったのか、町づくりや経営にノウハウを持つ真宗寺院に任せた方が手っ取り早いと思ったのか、そのあたりは不明です。

他の七本槍のメンバーに比べ、非常に低い石高しか与えられなかったことから、おそらく長泰は槍働きは得意なものの、町づくりなどの内政・経営能力がない人物だったんだろうと推測できます。このあたり秀吉の人物査定はとても厳しいですね。

その後、1647(正保4)年、教行寺が領主である平野家と町の統治を巡って揉めたため、箸尾の地に移転させられると、代わって田原本御坊浄照寺が町の中心となり、田原本は引き続き寺内町として発展しました。

近鉄田原本駅周辺には、現在も環濠に囲まれた寺内町の町割りが残されています。

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また、1600(慶長5)年、現在の大和高田市に創建された高田御坊専立寺田原本と同じく、領主の肝煎りで寺内町を発展させました。

関ヶ原の戦いの後、新庄1万6千石の領主となり、大和高田の地を領有した桑山一晴は、専立寺門前に商工業者を集め、寺内町を発展させることで領内の産業振興を図ります。

この寺内町から高田川を挟んで東側には、伊勢街道と下街道の交差点に本郷と呼ばれる集落がありましたが、後に高田村として一体化。寺内町を中心に綿織物を主とする繊維商の町として繁栄し、現在の大和高田市中心市街を形成するのです。

大和高田には、現在も専立寺近辺や、伊勢街道沿いに古くからの町屋が残り、往時の姿をとどめる光景が広がります。

過去記事で詳しく紹介しておりますので、そちらも読んでいただければと思います。

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また、現在橿原神宮の東に隣接して建つ、畝傍御坊信光寺も1612(慶長17)年に現在の奈良県橿原市西池尻あたりに6千石の領地を有していた豊臣家臣(後に江戸幕府旗本)神保相茂によって建立された御堂をルーツとします。

1940(昭和15)年の橿原神宮拡張と大軌畝傍線(現近鉄橿原線)の付け替えにより、かつての寺域が破壊されるまで、寺内町を形成していました。

 

今井、御所、田原本、高田、畝傍の浄土真宗本願寺派の5つの御坊は、大和五ヶ所御坊と呼ばれて布教拠点となっただけでなく、その寺内町橿原市大和高田市、御所市、田原本町という、奈良盆地中南部にある主要都市のルーツとなりました。

山城も熱い奈良

駆け足で奈良の中世についてご紹介しましたが、最後に奈良は山城も熱い場所です。

まずは、県南部の高取城

中世、筒井氏と大和の覇を競った越智氏が築いた中世山城で、豊臣秀長が大和に入った後、その家臣の本多氏によって、総石垣の近世城郭に大改修されました。

郡山城和歌山城とならび、秀長が豊臣家の畿内支配の重要な拠点城郭として築かせた城であり、標高500mを超える高地に、総石垣の曲輪群や多くの枡形を備えたその姿は、圧巻の一言です。

深い森の中に忽然と現れる壮麗な石垣の姿は、パレンケのマヤ遺跡のような異界感あふれるもので、お城ファンはもちろん、そうでない方も、ぜひ一度その光景を見ていただきたい場所です。

登城のご参考に、ぜひ下記の過去記事をご一読ください。

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また、奈良の山城といえば、忘れてはならないのが信貴山

大阪府との府県境、信貴山の雄嶽山上から北山麓に広がる、全国的に見ても巨大な中世山城です。

16世紀前半に、河内国を抑えた木沢長政が、大和侵攻の拠点とすべく本格的な城郭として築城。政治と軍事両面の中心拠点となる城で、大和では初めての戦国期拠点城郭との評価がある城です。

長政が三好長慶との抗争に敗れて滅亡すると、1560(永禄3)年に大和侵攻を開始した松永久秀が、長政に続いて拠点城郭とし、現在の形に改修しました。

写真は、朝護孫子寺から見た雄嶽山頂。

信貴山城本丸があり、かつて日本で2番目に建造されたとされる4層の天守がそびえていました。

近年、城跡の散策コースも整備され、山腹に横たわる巨大な曲輪群に絶壁の切岸が見所の山城です。

信貴山朝護孫子寺から、気軽に訪れることもできる城跡ですので、ぜひ下記過去記事を参考に登城いただきたいです。

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さて、奈良県の中世史の概観を紹介しながら、町の成り立ちや見所スポットをご紹介しました。

奈良県の主要な町は、中世以来の旧街道沿いに発達した町が多く、その街道周辺には驚くほどたくさんの、往時をしのばせる痕跡や町並みが残されています。

博物館や民俗公園ではなく、今まさに生きている町の中に、そういった歴史の痕跡が残されていることは貴重な宝物といえるでしょう。

奈良の「何もない」と思われている町は、そういった「宝探し」が、大変面白い場所なのです。

 

長文にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。