皆さんこんにちは。
大和郡山城の外堀巡りの第2回です。
前回は、外堀の北側をご紹介しました。
今回はお城の西側エリア、蛇ヶ池から大納言塚までをご紹介したいと思います。
↓の地図の赤線で囲んだエリアになります。
こちらのエリア、実は堀の遺構はほとんど残っていません。
現在はほとんどが住宅地や道路と化しており、地形に残る痕跡をめぐることになります。
蛇ヶ池(大職冠池)近辺
尼ケ池から、郡山中学校の南側に回り込むと、蛇ヶ池尻の石碑に行き当たります。
目の前に広がるのは一面の雑木林と、竹やぶです。
僅かに残る窪地が、かつてそこに外堀があったことを物語ります。
蛇ヶ池尻は尼ケ池と蛇ヶ池を結ぶ堀で、堀の内側は高くなっています。
ちょうど台地のヘリに沿うように堀が築かれているみたいですね。
堀の内側の高まりは急峻で、堀を越えても容易に突破は難しい場所になっています。
かつての蛇ヶ池を目指して進むと、石碑を発見。
大職冠池とも呼ばれた蛇ヶ池は、昭和36~40年にかけて埋め立てられ、住宅地となっています。
土手の下に、宅地が広がります。
かつての池の外周沿いを進みます。実際歩くと結構大きな池だったことがわかります。
大職冠は近辺に比べて標高がかなり高いので、こんな場所にどうやって堀を造ったのか想像できなかったんですが、高地には堤防を築いて池を造り、これを繋いで巨大な外堀を構成していたんですね。
大クスノキ~大職冠裏池
蛇ヶ池の外周を通り抜けると、県道9号線に突き当たります。
道路を南下すると、大職冠のクスノキが見えてきました。
樹齢500年、高さ25mという大和郡山最大の巨木で、市民には馴染みの光景になります。
クスノキの手前で西に曲がると、急な下り坂。
実はこちらの道路は、かつて蛇ヶ池と大職冠裏池をつなぐ堀でした。
すっかり埋め立てられていて見る影もないですが。。
堀底から東を臨みます。結構下がってますね。
堀を西に向かいます。
掲示板の町名が、かつてこの地が堀であったことを示していますね。町名表示や電柱などにはよく町の記憶が残っています。
道なりに進み、南へ折れると大職冠裏池の跡地です。
すっかり堀は埋まって消えていますが、この辺りは大きな空き地になっているので、堀の内側(写真左側)が大変高くなっていることが、よくわかる場所です。
ちょうど西ノ京丘陵のヘリにあたる場所で、丘陵の外縁に堀が築かれていたことがわかります。
地図だけ見ていると、城の西側は特に防備がないようにも思えますが、現地に来てこの高い崖に堀まであると、ここから城に攻め込むのは、実際困難だったと想像できます。
おそらく切岸(人工の崖)で、堀を築いたとき急角度の崖にしたのでしょう。
しばらく進むと大職冠裏池の南端に、石碑がありました。
西矢田辻番所~箕山裏池跡
再び県道9号線方面へ、東に向かいます。
県道9号線と矢田筋の交差点から少し南側に、西矢田辻番所の跡があります。
西矢田辻番所跡を示す石碑。
郡山の町境には10か所の辻番所がおかれて、人の出入りの監視と警戒を行っていました。
ちなみに西矢田辻番所の通りを、町内方向である東側へ、県道9号線を渡って向かうと、鍵屋の辻の決闘で有名な、柳生宗矩門下の新陰流の剣豪荒木又右衛門の屋敷跡と伝わる場所があります。
又右衛門は、妻でみのの弟、渡辺数馬に仇討の助太刀を頼まれたとき、大和郡山城主松平忠明に剣術指南として仕え、この地に屋敷を構えていました。
住宅地の一角に石碑が立っています。
県道9号線から西へ少し入ったところに石碑があります。
正面の住宅や駐車場からずいぶん下がっていることが、かつてこの場所が堀であったことを示しています。
箕山裏池跡を、県道9号線越しに東に臨みます。
箕山裏池は非常に長い堀で、近鉄郡山駅のあたりまで続いています。
完全に宅地化されていて、なかなか痕跡を見つけるのは難しい場所ですね。。
大納言塚
さて、箕山裏池沿いに、大和大納言豊臣秀長の墓所である大納言塚があります。
場所は、県道9号線から田北病院方向に入ってすぐです。こちらの道ですが、意外と交通量が多いので歩かれるときはご注意を。
本来の参道は南側で、こちらは北側の入口です。
秀長は、豊臣秀吉の実弟で、豊臣政権のナンバー2として兄を支えました。
秀長については、下記の記事もご覧いただけると幸いです。
秀長没後、江戸時代に入るといったん墓所は荒廃しましたが、秀長の菩提寺春岳院や郡山町民の尽力により1777(安永6)年、五輪塔や土塀が整備・復興されました。
最初に郡山を本拠とした大名は筒井順慶ですが、現在の中心市街の原型を作ったのは秀長です。
五輪塔の前に、「お願いの砂」が置かれてます。
「お願いの砂」のお作法です。
外堀巡りもようやく半分ほど踏破したでしょうか。
尼ケ池から大納言塚まで、ここまでゆっくり歩いて30分あまりかかりました。
外堀西側は、堀の遺構はほとんど残されていませんが、西ノ京丘陵の高低差を巧みに利用した様子が、地形から非常にわかりやすく読み取れる場所が多いエリアでした。
また、大小のため池を活用し、これをつなぎ合わせることで巨大な防御線を構築していた様子が、北側とならんでよくわかるエリアになっていていましたね。
次回は外堀の南側をご紹介したいと思います。
南側は、外堀の中でも中心市街地に近く、非常に見所となる旧跡も多いエリアになります。
こちらも引き続き、ご一読いただければ幸いです。