皆さんこんにちは。
色々ありまして、ちょっと気を病んでしまい、会社をしばらくお休みすることになりました。
病気は残念なんですが、図らずも時間は沢山出来たので、前からやりたいと思っていたことを、この機会に無理のない範囲でやれないかなと思ってます。
そこで、今回、常々チャレンジしたいと考えていた、地元大和郡山の郡山城外堀巡りを、実行することにしました。
郡山城の詳細については、過去記事をご覧いただければ幸いです。
※当ブログの最初の記事は、実は郡山城の記事でした。
郡山城は、1580(天正8)年に筒井順慶が本拠として以降、大和国の中心城郭となり、1585(天正13)年、豊臣秀長が大和、和泉、紀伊3か国100万石の太守として入府して以降、本格的な近世城郭として整備、拡張されました。
秀長と、その養嗣子の秀保が相次いで没し、大和豊臣家が断絶すると、五奉行の一人、増田長盛が入城。長盛の時代に全長約5.5Kmの外堀が完成し、惣構えの大規模城郭となります。
外堀を備えた城郭は、日本各地に築かれましたが、明治以降、移動の妨げになる等の理由で、その多くが姿を消す中、郡山城の外堀は西側、南側を除いて、比較的良好な形でその痕跡をとどめている、意外と貴重な存在なのです。
これは是非とも多くの人に知っていただきたい!ご紹介したい!ということで、大和郡山市の外堀案内看板のルートに沿って、郡山城外堀の現在の姿をご紹介していきたいと思います。
↓は、郡山北小学校の東側、外堀跡である広島下池前の案内看板です。
こちらの散策ルートは大和郡山市の下記ホームページで掲載されています。
案内看板修正2.cdr (yamatokoriyama.lg.jp)
https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/material/files/group/19/footpath3.pdf
今回ご紹介するのは、外堀の北部分。
広島下池から尼ケ池までをご紹介します。
広島下池~広島浅池
いよいよ外堀散策開始です。
スタート地点は、広島下池の石碑前から。
大和郡山市は郡山城外堀跡の要所に石碑を立ててくれていますので、この石碑を目標に進めば、くるりと外堀をめぐることができます。
場所はこちら。郡山城跡とイオンモールをつなぐ幹線道路沿いにあります。
広島下池を東に臨みます。水害対策で護岸が整備されていますが、幅広で見事な水堀です。
こちらは広島上池。こちらも幅が広いです。
ちなみに「広島」という地名は改易になった広島城主、福島正則の元家臣たちを、当時の郡山城主だった松平忠明が召し抱え、このあたりを屋敷地としたことに由来するとのこと。
広島上池の西岸の一角に公園があり、一本の松が植えられています。
堀の内側は土塁(土居)が築かれ、松が植えられていましたが、この公園の場所に、ひときわ大きな松が植えられ、「おどえの松」と呼ばれていたとのこと。
今、城跡といえば桜のイメージが強いかと思います。
郡山城もそうですし、江戸城千鳥ヶ淵や弘前城など、桜の名所となっている城跡が今は多いですよね。
しかし本来、城によく植えられたのは松でした。
松はいざとなれば、樹皮や葉が食用にすることが可能で、松脂など燃料になるので、非常に実用的だったわけです。
桜が城に植えられるようになったのは明治以後なんですよね。
広島上池の北側に、広島浅池があります。
広島浅池の東隣には、水害対策の調整池が広がります。
外堀北側の痕跡が比較的残っているのは、どうやら水害対策の調整池として活用されていることも大きな要因みたいです。
小川町裏池~正願寺上池
手前が広島浅池、奥が小川町裏池になります。
住宅地の合間の運河のようですね。
こちらは、秋篠川の旧流路。広島浅池の北側にひっそりと残っています。
現在の秋篠川の流路は、郡山の入口であった奈良口町手前で大きく東に折れ、佐保川に合流しますが、実は郡山城外堀築造にあたって付け替えられたものです。
元々の秋篠川の流路は、郡山の町の東側をそのまま南下して、佐保川へと合流しており、郡山城外堀の東側は秋篠川の流路を利用して作られました。
森精機の工場の合間を通り抜けます。これって工場の敷地ではなく路地なんですね。
小川町裏池は、宅地と工場に囲まれてあまり見えません。。。
ちなみに、小川町の由来は、秀長家臣の小川下野守に由来します。
大和国内に3万5千石を領したといいますが、それ以外の記録が一切ない謎の武将です。
森精機の工場を抜けると正願時下池。こちらは水害対策の調整池となって活用されています。
正願寺上池を北に臨みます。こちらも調整池になっていますね。
堀の西岸。一見竹やぶですが、高い土塁が非常にきれいに残っています。
近鉄橿原線の線路わきに見える正願時上池の土塁です。なかなかの高さです。
近鉄で郡山から西大寺方面に向かうと、一瞬小さな竹やぶの脇を通過しますが、これって土塁だったってことを、40年近く大和郡山で過ごしてきて、今回の散策で初めて知りました。。。やはり歩かないとわからないことって多いですね。
代官池~鴫ヶ池
真新しい石碑がお出迎えです。
代官池も洪水対策の調整池として活用、整備されています。
本多政勝が城主時代、この付近に武家屋敷を増設して代官を居住させたのが町名由来となっています。
場所はこちらです。
ちなみにこちらは保水池整備事業の案内看板の一部で、外堀遺構の活用であることが説明されています。
こちらは鴫ヶ池(しぎがいけ)。地元ではシンガ池と呼ばれているようです。
農業用のため池ですね。
このあたりから外堀西側にかけては、西ノ京丘陵となり、高台となるので、元々あったため池を活用して外堀を構築していったと考えられます。
番鐘池~尼ケ池
郡山城最大の外堀となる、番鐘池です。奥(南側)に天理教の郡山大教会が見えます。
鴫ヶ池と尼ケ池を結ぶ長大な堀で、幅は最大で42mという、郡山城最大の外堀です。
この規模の外堀は、全国でも屈指のものと言えるんじゃないでしょうか。
西ノ京丘陵の南端に築かれた郡山城にとって、尾根筋の北側は防御上の弱点となることから、ここまで広く、深い堀を築いたんでしょうね。
ちなみに、現在は一面金魚池。さすが大和郡山という風景です。
そして、金魚池に交じって太陽光パネルも目立ちます。
時流を感じますね。。
番鐘池を東に臨みます。
とてつもなく幅広で深い堀であることを実感できます。
堀の南側(城内側)は絶壁といってよく、とても登れそうにありません。
この堀が郡山城を西ノ京丘陵から分断し、北側の防備を強固にしていたと言えます。
ちなみに手前の駐車場は、奈良県屈指のフレンチの名店「LeBENKEI」の駐車場。
ここって、外堀の中だったのね。。。
「LeBENKEI」は結婚記念日などで利用させてもらってます。一度はディナーで利用してみたい!
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2日前の山焼きの跡がくっきり見えてますね。例年以上によく燃えた印象です(笑)
今回ゴールの尼ケ池です。奥(西側)に見えるのは郡山中学校です。
尼ケ池は秀長が妙楽寺(現在の談山神社)の大職冠像を郡山に遷座させた際、社の造営に当たって土を採った跡と伝わります。
こちらも真新しい石碑ですね。
尼ケ池は現在ため池として活用されています。農閑期のためか、この日、水はほとんど入っていませんでした。
スタートの広島下池から尼ケ池まで、ゆっくり40分ほどで歩きました。
想像以上に遺構が残っていることは驚きでしたが、水害対策の調整池や、農業用ため池として現在も活用されていることが、この地域の外堀の痕跡が消滅しなかったポイントかなと思いました。
次回は、外堀西側の様子をご紹介していきます。