皆さんこんにちは。
僧兵と聞いて、どんなイメージを持たれるでしょう。
記事先頭の絵巻に描かれたように、五条袈裟を頭に巻いた、裏頭(かとう)と呼ばれる装束で、薙刀や槍で武装した僧侶の姿を思い浮かべる方が多いんじゃないでしょうか。
源義経に仕えたと伝承される武蔵坊弁慶など、まさにこのイメージですね。
平安時代末期には南都北嶺と呼ばれた奈良の興福寺と比叡山延暦寺の僧兵は、時に朝廷をも屈服させる武威を振るい、中世までは諸国の大寺院は必ずと言ってよいほど僧兵を抱えて、武士とともに主要な武装勢力といえました。
寺の意に沿わないことがあれば、武装して押しかけるというイメージが強いかと思いますが、どうして彼らが強力な武力を身に着けていったのかは意外と知られていないんじゃないでしょうか。
僧兵の誕生
そもそも、本来殺生を戒める仏教寺院が武装しているということに、現代を生きる我々は、まず違和感を覚えるかと思います。
寺院が武装なんてとんでもないという考え自体は、古代からもあり、大宝律令にも僧尼が、兵書を読んだり、殺人、略奪することを禁じ、斎会において寺院へ奴婢(=兵士)や軍馬、武器を布施することを禁じた条項がありました。
公然と寺院が武装することは禁じられており、こうした条文が作られていた背景には、寺院が武装することは、予め想定されていたともいえます。
中国の寺院は、早くも5世紀の北魏の時代に武装化している記述が史料に見え、大宝律令も中国の律令をベースに作られていますから、寺院の武装対策の条文も、そのまま取り入れられたのだと思います。
さて、日本の寺院が武装し始めたのはいつ頃かというと、奈良時代には武装していたと見られます。
特に聖武天皇以降、鎮護国家思想のもと大寺院が多くの寺領を持ち、自治を行うようになると、盗賊対策を中心に治安維持の必要に迫られました。
寺領の労働力とされた奴婢を非常時に武装させたのが僧兵のルーツと見られます。
もっとも奈良時代は僧兵とは呼ばれておらず、「兵」とか「兵中」「健児」などと呼ばれており、そもそも僧ではなかったのでしょう。
本格的な僧兵が史料上現れるのは、平安時代のことになります。
桓武天皇が軍団制を解体し、地方の治安維持を国家が放棄したことで、全国の荘園が自衛を迫られる中、武士の出現とともに僧兵もその姿を現し始めるのです。
さて、「南都北嶺」という語は、聞かれたことがある方も多いんじゃないでしょうか。
中世、強大な力を持った寺社勢力を指す言葉ですが、南都は、京都から見て南にある古都奈良の寺社勢力を指し、北嶺は都の北西に位置した比叡山延暦寺や園城寺を指します。
南都北嶺の各寺院は、広大な荘園を支配し、大規模な僧兵集団を組織した武装勢力でした。
また、朝廷と密接な関係を持つ寺院であり、中央の政争・争乱に常に関与していたことから、僧兵勢力として最もメジャーな存在といえるでしょう。
特に院政期から中世にかけ、全盛期を迎える南都北嶺の僧兵ですが、どのように勃興したのでしょう。
東大寺、興福寺の抗争
まずは、南都の方から見ていきましょう。
南都で僧兵といえば、東大寺と興福寺が最も活発な活動を行ったことで知られます。
興福寺については、当ブログでも過去何度か取り上げていますので、ご興味のある方はこちらもご一読いただけたら幸いです。
南都の僧兵の活動記録として、早くも平安前期の850年頃、元興寺の明詮という高僧が、朝廷から僧綱に任じられた際、これに反発した東大寺、興福寺、大安寺の雑務担当者である「雑職人」たちに襲撃された記録が残されています。(日本高僧伝要文抄)
下位にあった元興寺の明詮に対する抜擢人事に、不満を持った東大寺が、興福寺、大安寺を誘って、元興寺の安房院に僧兵を差し向けたうえに、罵詈雑言を浴びせかけ、「喧嘩」を吹っ掛けたという事件です。
早くも9世紀中頃には、意に沿わぬことは実力で解決しようとする動きが、寺院においても出てきているというのは、驚きですね。
この事件以後も、平安時代はちらほらと、寺院の人事や、寺領、寺田をめぐる争いで、奈良の寺院が姿を現します。
特に東大寺と興福寺の争いは激しく、968(安和元)年にはわずか1反余り(300坪、31.5m四方)の小さな寺領をめぐって合戦に及び、興福寺側に死者が出たと「日本紀略」にあります。
こんなわずかな土地をめぐる争いで死者を出すほどヒートアップするあたり、両寺の遺恨の根深さがうかがえますね。
両寺の抗争は、年を経るにつれますます過激化しました。
右大臣藤原野宗忠の日記、「中右記」には1102(康和4)年、東大寺の鎮守の祭りで、興福寺の下僧が田楽を舞っていたところ、通りかかった東大寺の禅師に随従していた衆徒が、その舞に難癖をつけたことから喧嘩になり、夜になると合戦となって、興福寺の堂塔が焼討されたといいます。
理由から経過まで、ほとんど「やくざ」の抗争にしか見えないですね。
同じ「中右記」には1111(天永2)年にも東大寺境内で行われていた御霊会で、興福寺の僧が乱闘に及んだ記録があり、これと前後して東大寺で火災が発生したり、東大寺の僧兵が興福寺に乱入したりと、両寺が継続的な抗争を続けていたことがわかります。
理由はいずれも些細なことですが、ちょっとしたことでも死者を出すほどの抗争に発展するほど、人事や寺領をめぐる緊張関係が継続的に高い状態にあったのでしょう。
両寺の争いは、朝廷に仲裁を依頼することも多かったのですが、朝廷に解決能力はなく、争うたびに両寺の僧兵は強化されていくことになりました。
山門と寺門の争い
院政の絶頂期、白河院から鴨川の水と並んで意のままにならないものの代表とされたのが、山法師こと比叡山の僧兵たちでした。
比叡山の僧兵はどのように勃興してきたのでしょうか。
比叡山は桓武天皇の勅願により、南都の大寺院に替わる新たな仏教、天台宗の総本山として平安初期に伝教大師最澄により開かれました。
最澄の開いた天台教団はその死後、最澄の弟子であった三代天台座主の円仁と五代天台座主円珍という二人の偉大な後継者と、その門流たちによる、天台座主の座をめぐる熾烈な党争によって2派に分裂しました。
円珍の死後、100年ほどたった993(正暦4)年、円珍派が円仁派の堂舎を襲撃、これを打ち壊す事件が発生し、報復に円仁派も円珍派の寺院を襲撃するに至って、両派の対立はいよいよ抜き差しならないものになります。
「内ゲバ」の様相を呈した比叡山内の両派の争いは、円珍派僧侶千人が比叡山から追放される事態を引き起こし、追放された円珍派は、別院の園城寺(三井寺)に移りました。
ここに天台宗は完全に分裂。以後、延暦寺は山門、園城寺は寺門と呼ばれて激しい抗争を繰り広げます。
分裂後、天台宗トップである天台座主をめぐる対立から祭礼での喧嘩などの些細なことでも、両寺院は武力衝突を繰り返しました。
とくに園城寺は延暦寺の僧兵によって何度も焼討に遭い、中世末期まで全焼7回、小さなものまで含めると50回も寺を焼かれています。
このような状態ですから、両寺院とも抗争のたびに武装を強化し、強力な僧兵集団を組織していきました。
南都の東大寺、興福寺と同様に、北嶺も延暦寺と園城寺という二大寺院の対立抗争が、僧兵の増大、強化に繋がっていったのです。
南都北嶺の抗争
平安時代の末期になると、僧兵の抗争はついに南都北嶺の間でも勃発することになります。
現在の談山神社は江戸時代まで妙楽寺という、藤原氏の祖、藤原鎌足を祀る寺院でした。
妙楽寺に関しては、下記の記事でも取り上げていますので、興味のある方は是非ご覧ください。
多武峰はその成り立ちから、本来であれば興福寺の影響下に置かれてもおかしくない寺院でしたが、藤原道長の時代に延暦寺の尊叡が多武峰で修業したことを契機に、延暦寺の末寺となりました。
これに不服の興福寺は朝廷に異議を唱えますが、道長は多武峰が興福寺の末寺となることを許しませんでした。
理由は不明ですが、道長が朝廷の実権を維持していくうえで、延暦寺の支持を得たいと考えたのかもしれません。
これを遺恨として、興福寺と多武峰、延暦寺の対立、抗争が巻き起こるのです。
まず最初の大きな激突は円融天皇の1081(永保元)年に起こりました。
原因は興福寺の堂衆と多武峰の下役の僧が些細なことで喧嘩を起こしたことでした。
興福寺は僧兵を多武峰に送り、麓の民家を焼き払ったうえで、多武峰の本堂、聖霊院に迫ったので、多武峰は本尊の大職冠像を避難させる事態に陥りました。
1108(天仁元)年にも多武峰は興福寺の襲撃を受け、この時は全山焼討に遭い、すべての堂塔が焼亡したといいます。
また、後白河院政期の1172(承安2)年、多武峰が比叡山の日吉権現を勧請して祭礼を行ったのですが、多武峰は祭礼に興福寺を招待しませんでした。
これに怒った興福寺側は、祭礼の出仕者の住宅を焼き討ちにします。
よくも毎度つまらない言いがかりで、そこまでやるかという暴挙ですが、多武峰はすぐに本山である延暦寺に訴えたことで、ついに延暦寺と興福寺の抗争に発展しました。
翌1173(承安3)年、延暦寺の大衆が北陸にあった興福寺の荘園を差し押さえると、興福寺は報復として、多武峰を焼き討ちにして再び全山焼亡させます。
この事件を重く見た朝廷は、別当の尋範以下、主だった興福寺の首脳たちを流罪、解官に処し、延暦寺へも後白河法皇庁より報復しないよう命令を出しました。
興福寺はこの処分を不服とし、延暦寺に横領された寺領の返還も求めて、ついに神木を奉じて挙兵。京都を目指して強訴に及びました。
強訴については、下記の記事に詳しいので、興味のある方は是非ご一読ください。
朝廷は懸命に興福寺と延暦寺の合戦を止めようと図りましたが、すんなりと両寺院がその命に服することはありませんでした。
時は前後しますが、南都北嶺の争いは、京都でも勃発します。
清水寺は興福寺の末寺で、祇園社はもともと興福寺の傘下にありましたが、院政期には延暦寺傘下の日吉神社の末社となり、両寺社は地理的にも近いことから、ことあるごとに小競り合いを起こします。
1113(天永4)年、清水寺の別当に延暦寺で出家した円勢が任ぜられることが決まると、興福寺の末寺である清水寺別当は興福寺で出家した僧が任ぜられるべきと、興福寺が訴え、ついには強訴に及びました。
興福寺の強訴に朝廷が折れて人事を白紙に戻すと、今度は延暦寺が怒り、僧兵を清水寺に送って、堂塔をことごとく破壊したうえ、興福寺別当の処罰を求めて、白河法皇のもとに強訴に及んだのです。
これに朝廷が応じてしまったので、興福寺は再び天台座主らの処罰や祇園社を興福寺に返すことを求めて挙兵します。
興福寺は延暦寺を攻撃するため奈良を進発し、延暦寺側も迎撃のため僧兵たちを上洛させます。
朝廷は奈良の諸大寺に興福寺を支援しないよう命令するとともに、興福寺の説得を図りますが、調停に失敗。
ついに検非違使の平正盛、忠盛父子に命じて宇治で興福寺の僧兵を迎撃させました。
栗前山で合戦となり、興福寺側は30人ほどの僧徒を殺害され、入京適わず奈良へ撤退し、延暦寺の僧兵たちもこれを見て引き上げ、南都北嶺の全面戦争は回避されました。
このように院政期、寺院同士の抗争を繰り返すうちに、南都北嶺の僧兵たちはその最盛期を迎えました。
朝廷はその猛威を鎮めるため、積極的に武士を活用し、これが後々武士のプレゼンスの高まりに繋がることになります。
僧兵たちの黄昏
院政期から鎌倉時代にかけ、全盛を誇った南都北嶺の僧兵たちですが、南北朝時代以降、古代以来の荘園制の解体が始まると、寺社は経済力を失い、僧兵もその力を弱めていきます。
すでに僧だけではその武力を維持できず、北嶺の山門、寺門の争いは室町幕府の介入なしでは、解決できない状況に陥り、南都興福寺も武士出身の筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏といった有力国人が、興福寺の俗権、検断権(警察・司法権)を握って、徐々に興福寺の意向を外れ、独自の軍事活動を行うようになっていきます。
室町幕府3代将軍足利義満は、それまで猛威を振るった南都北嶺の強訴をことごとく退け、その権威を大きく傷付け、義満の子で6代将軍の足利義教は強訴に及んだ延暦寺を焼き討ちにして、叡山の指導層を殺害、自害に追い込みました。
延暦寺の焼き討ちといえば、真っ先に織田信長を思い起こす方が多いと思いますが、信長に先立った、義教による叡山の焼き討ちが、その権威を大きく失墜させ、信長による焼き討ちの心理的ハードルを一気に押し下げていたとみることもできるでしょう。
また、大和においても1492(永享元)年に筒井氏と越智氏の抗争、大和永享の乱が勃発すると、義教は赤松氏を派兵して介入。興福寺はすでに国人同士の争いを自力で解決することができない状況にありました。なお、この時の争乱は幕府の介入後もくすぶり続け、そのまま応仁の乱に突入して、筒井氏と越智氏を中心とした国人同士の抗争が続くことになります。
平安時代中期から院政期にかけて、ともに勃興した僧兵と武士でしたが、室町時代に入って、その勢威の差は決定的となりました。
そして戦国末期、比叡山は信長の焼き討ちにより壊滅し、南都は豊臣氏による大和直轄化によって官符衆徒であった筒井氏が伊賀へ転封、国人達が豊臣の直臣になるにあたり、完全に武装解除され、ここに南都北嶺の僧兵は消滅するのです。
南都北嶺以外の日本各地の僧兵勢力も、豊臣政権による天下統一と前後してその姿を消し、武士による武力の独占が完成しました。
さて、駆け足で僧兵の歴史をご紹介しましたが、僧兵は寺院間の激しい闘争の結果強大化したというのは、意外に知られていないのではないでしょうか。
南都では興福寺と東大寺、北嶺は延暦寺と園城寺がしのぎを削りあい、やがては南都と北嶺がその系列寺院を巻き込んで、直接または間接的に激しい抗争を繰り返した結果、互いに堂塔を全焼するほどの被害を被りながらも、抗争前より大きくなるという奇妙な現象を起こしました。
中世大きな力を誇った寺社の、力の源泉が「暴力」とは、なんとも皮肉なことですね。
<参考文献>