皆さんこんにちは。
真珠湾攻撃の現場総指揮官、淵田美津雄をご紹介して今回4回目です。
徹底した隠密行動で真珠湾奇襲を成功させた、日本海軍の第一航空艦隊は、アメリカ太平洋艦隊の主力戦艦の多くを撃沈、大破させ、所期の作戦目的を達成しました。
ハワイ沖から日本に帰国した淵田達を待っていたのは、思いがけない歓迎でした。
拝謁と偽りの大本営発表
1941(昭和16)年12月23日、真珠湾攻撃を成功させた南雲忠一中将率いる機動艦隊は、無事内地に帰還を果たしました。
艦隊が豊後水道に差し掛かったところで、各空母の航空隊は出撃前に訓練していた各航空基地へ陸揚げされることになり、淵田率いる赤城の航空隊は鹿児島基地に向かいます。
鹿児島に到着すると、基地周辺にある中学や商業学校、女学校の生徒が淵田らを出迎え、淵田らを驚かせました。
自分たちが真珠湾攻撃隊であることは極秘だったため、「誰が教えやがったのか」と思ったからです。
その晩、攻撃隊の士官以上は鹿児島県知事から、下士官兵は鹿児島市長からの歓迎会に招待されました。
歓迎会は夜を徹して行われましたが、その最中、淵田に連絡が入ります。
翌日、山本五十六連合艦隊司令長官と長野修身軍令部長らが赤城に来艦するから戻って来いというものでした。
翌朝、二日酔いのまま淵田は、同じく二日酔いの村田重治少佐操縦の航空機で鹿児島から岩国に飛び、赤城には11時過ぎに到着しました。
赤城の士官室で海軍上層部の面々との祝勝会に参加した淵田は、その場で長野軍令部長から、昭和天皇へ真珠湾攻撃の詳細を報告する軍状奏上を行うよう命じられます。
佐官級の軍状奏上は前代未聞のことでした。
前日の12月25日、呉から横須賀基地へ飛んだ淵田を、横須賀航空隊指令の上野敬三大佐が迎えましたが、上野からは「航空母艦を生かして来たのでは駄目じゃないか」と、後にも先も唯一、真珠湾空襲の戦果にケチをつけられたといいます。
淵田自身、アメリカの空母を討ち漏らしたことは、心残りだったのでしょう。
「さすがは航空屋」と、淵田は上野に全く同意でした。
翌26日、淵田は第2攻撃隊長の嶋崎重和少佐とともに昭和天皇への軍状奏上に臨み、艦船攻撃について纏めて奏上しました。
淵田は昭和天皇の正面に向き合って、戦況を逐一奏上し、昭和天皇も説明用の航空写真を興味深げに眺め、当初30分の予定が1時間30分、説明は続きました。
淵田に続いて嶋崎少佐の奏上が終了すると、昭和天皇は同席していた長野軍令部長に、「これらの写真は、持って帰るのか」
と下問しました。
長野は、後で表装して御座右に備えると答えると、昭和天皇は「皇后にお見せしたいから」と、昭和天皇自身が10数枚写真を持って退席されたそうです。
皇后との仲の良さや気遣いが伺える、昭和天皇の等身大の姿がうかがえるお話ですね。
昭和天皇へ軍状奏上した同日、淵田は大本営の潜水艦主務参謀であた有泉龍之介中佐の訪問を受け、「淵田中佐、アリゾナの轟沈を特別攻撃隊の戦果に呉れないか」と、持ち掛けられました。
特別攻撃隊とは、航空攻撃とともに企図された5隻の特殊潜航艇からなる攻撃部隊で、当初から生還の望みが薄いとされたため、事実上太平洋戦争における最初の特攻でした。
真珠湾攻撃では戦艦ウェストバージニアとオクラホマへの雷撃を行い、後にアメリカ側でオクラホマの転覆は特殊潜航艇の攻撃によるものと評価されました。
4隻が撃沈、1隻が自沈して搭乗員10名が未帰還となりましたが、太平洋戦争最初の捕虜となった酒巻和男少尉を除く9名が、「九軍神」として顕彰されました。
そして、当時第三国から送られる真珠湾攻撃のニュース写真には、轟沈したアリゾナの惨憺たる姿がよく紹介されていたこともあって、翌1942(昭和17)年3月、大本営はアリゾナの爆沈を特殊潜航艇の戦果として大々的に喧伝し、全国民が沸き立つ中、盛大な国葬を執り行ったのです。
後に虚偽発表を積み重ねることになる大本営発表は、日米開戦の最初の戦いから、軍上層部の都合や思惑を反映した、虚偽を含むものだったことになります。
淵田は、有泉に「特殊潜航艇は特攻だから、その功績を大々的に吹聴してあげたいのはやまやまだけどね、アリゾナは無理だよ」と答え、フォード島東岸に駐留していたアリゾナの外側には工作艦が横付けしてあって、魚雷攻撃は不可能だったことを告げ、「特殊潜航艇の魚雷による轟沈などと発表したのでは、のちのち世界の物笑いになる」と言い放ちました。
アリゾナ轟沈が特殊潜航艇の戦果とする大本営発表に、心中穏やかでなかったのは当時南方作戦に従事していた空中攻撃隊の搭乗員たちです。
彼らは水平爆撃隊の徹甲爆弾によってアリゾナが爆沈したことを目の当たりにしていたからです、
そのうえ、真珠湾攻撃の空中攻撃隊では55名の未帰還戦死者が出ていましたが、彼らの二階級進級の音沙汰が、この時点でもなかったことに不満を漏らす者も多かったといいます。
淵田自身も不満を抱きつつも、部下たちには「彼らは生還を期さない特攻をやったのだから」と、なだめるしかありませんでした。
しかし、そんな淵田が大きな不満を覚えたのは、1942年4月にようやく山本連合艦隊司令長官から、ハワイ攻撃隊に対して出された感状でした。
特殊潜航艇への感状に「武勲抜群」とあったのに対し、空中攻撃隊への評価は「武勲顕著」とあったのです。
アメリカ太平洋艦隊を葬ったのは空中攻撃隊ではないか。
ならばその評価は最上位の「武勲抜群」でなくてはならないはずだと、大いに不服に思ったのです。
後に、淵田は開戦時の功績主務であった三輪義勇大佐にこの時の評価の経緯を聞く機会があり、三輪大佐は、自身は「武勲抜群」で起案したが、山本長官が積極的に連続攻撃をかけず、1回で引き上げたから、1段下げて「武勲顕著」とせよと指示されたと聞かされました。
この時、淵田は「やはり南雲長官は、山本長官の意図に沿っていなかったのだ」と了解したといいますが、山本五十六は、事前に指揮官である南雲に、積極攻勢に出ることを指示しておらず、また期待もしていなかったと伝えられます。
で、あれば、真珠湾奇襲や対米戦回避を最後まで願っていたことから、とかく評価の高い山本ですが、作戦意図を現場指揮官に徹底できていなかった点については、山本のリーダーとしての弱さを見ることもできるかと思います。
真珠湾攻撃を巡って、海軍内部での功名争いや、軍上層部の思惑による発表情報の改ざん、作戦意図の不徹底など、開戦の初っ端から、太平洋戦争を通じて破局的敗戦へ通じていく綻びの一端が、早くも見えていました。
南方作戦
真珠湾攻撃と、その後12月10日に行われたマレー沖海戦で、イギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスが航空攻撃によって撃沈され、航空機が艦隊決戦の主力たりうることが証明されました。
アメリカが真珠湾やマレー沖海戦の戦訓から、大規模な航空機動艦隊の創建に舵を切ったのに対して、日本海軍は、アメリカ海軍の主力戦艦を真珠湾で壊滅させたことで、早晩アメリカ海軍による大規模侵攻はないと判断し、第一航空艦隊を一部解体します。
すなわち、搭乗員の2割を航空教官として引き抜いて、航空隊員の早期養成に当たらせ、瑞鶴、翔鶴の2隻を艦隊から分離させて、東正面に残してアメリカへの備えとしました。
そして、赤城ら4隻となった第一航空艦隊は、南方作戦への支援を命じられたのです。
この措置に淵田は大きな不満と、海軍上層部への失望を禁じえませんでした。
当時世界最強の機動艦隊であった第一航空艦隊を、分裂解体させるとは何事か。
第一航空艦隊が世界最強なのは空母6隻を集中運用し、さらに飛行隊の練度の高さにこそあるのに、空母を分散させ、搭乗員を引き抜いていくなど、アメリカに対するせっかくのアドバンテージを自ら手放すものだと淵田は考えたのです。
「結局真珠湾の戦果を拡張したものはアメリカ海軍であって、日本海軍ではなかった」と、後に淵田は述懐しています。
しかし、日本は継戦のために、どうしても南方の資源を確保する必要に迫られていました。
序盤でのアメリカの攻勢を防ぐための作戦が真珠湾攻撃であり、その戦果を最大限に活かして、迅速に南太平洋を抑えにかかるのが、日本の作戦計画の第一段だったのです。
第一航空艦隊はこうして南方作戦に従事することになりました。
まず淵田が指揮したのは、赤城、加賀航空隊によるラバウル空襲でした。
敵航空兵力の撃滅を図る作戦でしたが、攻撃をかけた飛行場には、ほとんど敵の航空戦力は存在せず、搭載した爆弾を落とす目標すら見つけるのが困難といった有様でした。
「鶏を割くに牛刀を用いる」かのような作戦に、ありあまる戦力を持つわけでもないのに、こんなことしてて大丈夫かと淵田は不安になったといいます。
その後、インド洋に展開し、セイロン島東岸のイギリス海軍の拠点であるツリンコマリ港を空襲するなど、南方作戦に忙殺されます。
開戦から4か月、南方作戦は完了しましたが、1941年12月16日に就航した巨大戦艦大和を中核とする連合艦隊第一戦隊は、この第一段階においては、ついに広島湾の柱島錨地から動くことがなく、淵田はこれに大きな不満を抱くとともに、山本五十六長官の指揮能力に大きな不審を抱くことになります。
淵田ら空母の航空隊員らは、柱島錨地から動かない第一戦隊を「柱島艦隊」と呼んで馬鹿にしていました。
毎日広島湾で射撃訓練にいそしんでいると聞くたびに、既に真珠湾で相手となるべき戦艦は撃沈、大破してるというのに、誰に向かって撃つ気でいるのか。相手が起き上がってくるのを待ってやっているのかと、間の抜けた有様だと嘲笑の的としたのです。
真珠湾に沈んだアメリカ太平洋艦隊の戦艦群も、広島湾柱島錨地から動かない連合艦隊も、作戦に寄与しない点では全く同じと、淵田には思えました。
真珠湾奇襲という奇想天外な作戦を構想、実現させた山本長官なら、戦艦群を護衛として、空母を主力とする機動部隊を組織して、ハワイや、さらにその先のアメリカ西海岸を荒らしまわるような作戦を建てられないものかと、淵田は山本の作戦立案能力に大いに不審を抱くとともに、失望を感じ始めていました。
もっともこの当時の日本海軍に、真珠湾から立て続けに賭博的な攻勢をかけられる状況にはなく、戦争継続のために日本は陸海軍をあげて南方作戦に専念せざるを得ない状況にありました。
この間、アメリカは日本をはるかに凌駕する工業力をフル稼働させ、驚くべきスピードで艦隊を再建して反攻の機会をうかがっていました
ドーリットル空襲
さて、開戦から一方のアメリカは連日の敗報に、国民の戦意を維持することに苦心していました。
特に、日本海軍の潜水艦9隻が、カナダ・アメリカ・メキシコの西海岸に展開して通商破壊戦を実施し、一般市民の目の前でアメリカのタンカーや貨物船が襲撃、撃沈される事態が頻発したうえ、1942年2月にはカリフォルニア州の製油所が、日本の潜水艦から砲撃されるに及んで、歴史上本土への攻撃をほとんど経験しなかったアメリカ国民は大きく動揺しました。
そんなアメリカ国民の戦意高揚のために立案されたのが、日本の首都東京への空襲です。
連戦連敗の中、敵の首都への爆撃を成功させれば、国民の士気を高めることは間違いない。というわけですが、事は簡単ではありません。
東京に空襲をかけようとすれば、空母で接近して爆撃機を飛ばす必要がありましたが、当時のアメリカ海軍の爆撃機の航続距離では、空母が日本の迎撃を受ける恐れのある距離まで近づかねばならず、当時太平洋上でアメリカが運用していた空母は、エンタープライズ、ホーネット、ヨークタウンの3隻しかなく、貴重な空母を危険にさらすことはできないと、海軍は難色を示しました。
そこで、発案された作戦は、奇想天外なものでした。
なんと、本来艦載など想定していない航続距離の長い、陸軍の中型爆撃機B25を空母に搭載して空襲を行い、空襲後はそのまま日本列島、日本海を超えて、中国軍の飛行場に着陸し、ユーラシア大陸を横断、大西洋を越え、世界一周して帰還するという壮大な作戦でした。
作戦は極秘裏に進められ、1942(昭和17)年4月1日、16機のB25を搭載した空母ホーネットと、護衛任務の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻がサンフランシスコを出撃、4月13日には艦隊指揮を執るウィリアム・F・ハルゼー中将直率の空母エンタープライズ以下6隻の艦隊と合流して日本へ向かいます。
ブル(猛牛)の異名を持つハルゼーは、アメリカ機動艦隊の司令官として、以後、太平洋上で日本海軍と死闘を繰り広げることになる人物です。
攻撃目標が日本本土であることは、艦隊上層部と、航空隊を指揮するジミー・ドーリットル中佐などごく一部の者しか知らされておらず、艦隊の乗組員の多くは、真珠湾やソ連にB25を輸送するなどと噂していましたが、洋上で攻撃目標が東京であることを知らされ、全部隊が湧きかえったといいます。
攻撃予定日直前の4月18日、ハルゼー率いる機動艦隊は、日本の東海上700浬で日本の漁船群と遭遇します。
これは日本の漁船哨戒隊で、直ちにハルゼー機動艦隊の攻撃を受けたものの、敵空母発見の警報を発信しました。
この警報を受けた日本の東正面の基地航空隊は、アメリカ機動艦隊の来襲に備えたものの、艦載機の航続距離を勘案して本土から300浬まで接近してくると考えていました。
一方、ハルゼーは日本側に発見されたことから、当初日本本土から500浬地点から攻撃を開始し、夜間空襲をかける予定を変更し、10時間発進を前倒し、日本本土東方650浬地点から16機のB25を発艦させます。
予想よりはるかに早い来襲に、日本側は満足に迎撃できず、東京、横浜、横須賀、名古屋、神戸が爆撃を受け、この攻撃で日本側は民間人を含め87名の死者を出しました。
日本を空襲したB25は、日本の迎撃を潜り抜け、全機が日本海、東シナ海を渡って大陸へ到達したものの、航続距離が予定外の発進でぎりぎりとなったことや、大陸への到着が夜間になってしまったことから全機が不時着となり、搭乗員のうち8名が、中国大陸で日本軍に拘束されました。
航空隊指揮官の名からドーリットル空襲と呼ばれたこの空襲について、淵田はインド洋作戦の帰途、フィリピン沖で知りましたが、最初、この爆撃機がどこから飛来したものか全く見当がつきませんでした。
数日後、捕虜の尋問から日本の近海まで接近した、空母ホーネットから発艦したものと知り、陸上機を空母から発艦させるという奇想に驚嘆して、敵ながらアメリカもあっぱれと感心させられたようです。
このドーリットル空襲は、純軍事的な意味では大きな戦果をアメリカにもたらすものではありませんでしたが、戦略的効果は絶大であり、その後の戦況に大きな影響を与えるターニングポイントとなるものでした。
ドーリットル空襲では明らかに民間人とわかって攻撃を加えた例もあったことから、日本は戦時国際法違反であるとアメリカを強く非難して8月、捕虜とした8名を上海の軍事法廷で「人道に反する行為を犯した罪」で死刑判決を下します。
判決に先立つ5月、ドーリットル空襲に参加した米兵が捕虜となったことを知った昭和天皇が、侍従武官長に対し捕虜の取り扱いについて、国際関係に悪影響を及ぼさず、今後日本人が米軍捕虜となったときに報復を招くような措置は取らないようにと、意向を伝えており、時の首相東條英機はこの判決に介入して、最終的に操縦士2名と銃手1名の死刑が執行され、残り5名は無期禁固としました。
この処置にアメリカは「野蛮人の蛮行」と日本を激しく非難し、アメリカ国民の日本人に対する敵愾心はますます大きくなりました。
これが後の焼夷弾による民間家屋を狙った無差別都市空襲や、沖縄戦での苛烈な攻撃、そして原爆投下といった日本人への容赦ない攻撃へと繋がっていきます。
相手を自分と同じ人間だと思わなくなったとき、ここまで人は残酷になれる実例といえるでしょう。もちろんこれは日本側にも同様であることを忘れてはいけませんね。
一方日本では、帝都東京が空襲にさらされたことは、軍上層部に大きな衝撃を与えました。
空母による空襲を受けるかもしれないという危機感は、以前からあったものの、現実のものとなったからには早急な対処が必要とされ、以前から計画されていたミッドウェー島攻略とアメリカ機動艦隊の撃滅作戦の優先度が上がり、山本長官の強い意向で実施の方向へ突き進むことになります。
さて、このドーリットル空襲で日本の捕虜となり、生き残った中にジェイコブ・ディシェイザーという人物がいました。
戦後、淵田が信仰の道に入るきかっけとなる人物であり、淵田が洋上の赤城艦内で聞いただけのドーリットル空襲は、淵田にとってもその人生を変える事件だったのです。
参考文献
淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。 |
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