皆さんこんにちは。
今回は、近鉄箸尾駅の南側に広がる箸尾の町をご紹介したいと思います。
場所はこちら。馬見丘陵公園の東側になります。
一般的な観光地ではない地区なのですが、北和と南和をつなぐ下街道が町内を南北に貫き、中世、筒井氏、越智氏、十市氏と並んで大和の有力国人であった箸尾氏の拠点として始まった、たいへん歴史のある町です。
箸尾氏が没落して、箸尾城が廃城となった後は、教行寺の寺内町として栄えました。
現在も古くからの街並みが残る箸尾地区を散策していきたいと思います。
下街道沿いの街並み
奈良県広陵町内で唯一の鉄道駅で、1918(大正7)年に大和鉄道の新王寺~田原本間が開通時に設置され、開業から100年以上の歴史を持つ駅です。
時節柄マスク装着です。
箸尾駅前から南へ伸びる道は、奈良と五條を結んだ下街道です。
下街道は奈良県内を同じく縦断する上ツ道、下ツ道といった古代官道を由来とする街道ではなく、中世以降に成立した街道です。
郡山の柳町大門を起点として、筒井、唐院、箸尾、高田などを経て五條に至り、中世以降勃興した都市、集落を結びます。
近世においては、北和と南和を結ぶメインルートとして人の往来もたいへん盛んな街道でした。
そんな往時の賑わいを物語るように、風情ある古民家が数多く旧街道沿いに並びます。
こちらの呉服店では記念タオルの受注販売をされているようで、奈良県下の高校野球関連の記念タオルがサンプルとして展示されていました。
街道沿いの格子戸にかわいいイルミネーション飾り。夜見てみたいですね。
街道筋にはおなじみの「大神宮」の常夜灯です。
こちらも街道沿いの大きなお屋敷。「塩」と看板がかかっていましたのでかつて商家だったのでしょう。
箸尾城と環濠
続いて箸尾城です。大和の有力国人箸尾氏が代々居城とし、1580(天正8)年に織田信長が筒井順慶に郡山城以外の城郭を全て破却するよう命じた際に廃城となったと考えられます。
現在かつての城跡は完全に宅地化されていますが、城跡南端の堀跡に城址の石碑が建っています。
石碑脇の案内板です。
ここで、少しこの城を拠点とした箸尾氏についてご説明しましょう。
箸尾城のあった広瀬郡は、大和川に合流する高田川、葛城川、曽我川流域にあたり、古代から開発が進んだ地域で、箸尾氏は摂関家領長川荘の荘官をルーツとして、勢力を拡大しました。
南北朝期になると大和武士は党を組むようになり、箸尾氏は長川党の盟主として、筒井、越智、十市らと並ぶ有力国人として台頭します。
中世大和の武家勢力を二分したのは筒井氏と越智氏ですが、箸尾氏は南北朝の争乱と、大和永享の乱では、越智方に付き、幕府を後ろ盾とする筒井氏と激しく抗争しました。
しかし、大和永享の乱で越智方が幕府の介入もあって敗退すると、箸尾氏内でも越智方に付くか、筒井方に付くかで対立が内在していたようで内紛となって、結局筒井派が主導権を握り、応仁の乱では筒井氏と行動を共にしました。
戦国期には筒井氏とはつかず離れずで、松永久秀が侵攻してきた際は筒井順慶を裏切り松永方に付きましたが、久秀が大和国内で劣勢に立つと再び順慶に付き、最終的には順慶の与力大名として戦国を生き残りました。
筒井氏が伊賀転封となると、豊臣氏直臣となり大和に残りましたが関ヶ原の戦いで西軍に付いたことで領地を失ってしまいます。
大坂の陣では最後の当主箸尾高春(為綱)が大坂城に入って本領回復を図りましたが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡に伴い、戦死したとも大和へ逐電したとも伝えられます。
現在、城の遺構は残っていませんが、堀跡を転用した水路がかつての城域を囲むように流れています。
こちらは石碑のすぐそばにある、南側の堀跡。
環濠西側になります。
こちらは環濠北側。
ちなみに写真右の道路は県道14号線の旧道で、田原本から桜井に通じ、その先は伊賀、伊勢へと続きます。
幕末嘉永年間の絵地図には既に記載されている古い街道で、箸尾で下街道から東に分岐していました。
箸尾氏がこの地を拠点としたのも、二つの街道が交差する交通の要衝であったからでしょう。
環濠東側。おおよそ200メートル四方の領域を水路が囲んでいるのですが、実際に歩くと結構広いです。
規模的には筒井城の内郭や十市城とほぼ同程度ですので、大和武士の館城としては最大級のお城だったと思います。
こちらは箸尾城内の大福寺です。
箸尾氏の帰依を受け、中世には隆盛を誇ったとのこと。
こちらのお寺ですが四国八十八か所の霊石巡りができます。
88の石碑を辿って、最後の八十八番大窪寺の碑は大師堂の前にあります。
こちらは箸尾の集落の中です。
細い路地が縦横に走りますが、古い環濠集落や城下町にはよく見られるクランクが随所に見られます。
教行寺(箸尾御坊)
さて、箸尾地区は中世の有力国人箸尾氏の城下がルーツの町ですが、近世は浄土真宗寺院である教行寺の寺内町として栄えました。
教行寺は、1476(文明8)年、摂津国富田に浄土真宗本願寺8台法主蓮如が開いた念仏道場をルーツとする寺院で、真宗の根本聖典である「教行信証」を蓮如が書き写したことから後に教行寺と称するようになりました。
4代住職の證誓のとき織田信長と大坂石山本願寺の10年にわたる石山合戦が終結した1580(天正8)年、大和国佐味田へ移転した後、田原本に領地を持っていた平野長泰に招かれ田原本に移って寺内町を形成。この寺内町が現在の田原本中心街区の原型となります。
※寺内町田原本について興味のある方は下記の過去記事もご参照ください。
しかし、平野家次代の長勝の時、田原本寺内町の支配をめぐって対立したため、1647(正保4)年に田原本を追われ、1653(承応2)年に現在の地に移転。箸尾御坊として寺内町を形成しました。
山門の前に「箸尾御坊」の立派な石碑があります。奈良県内で有名な寺内町の中心御坊は今井(称念寺)や高田(専立寺)など本願寺派(西本願寺)の寺院が多いのですが、こちらは大谷派(東本願寺)の寺院です。
こちらは山門の前に立っている案内板です。
山門から本堂を臨みます。幕末に建てられた巨大なお堂で、「御坊」の名にふさわしい威容を誇ります。
境内はそれほど大きくないのですが、本堂はかなり離れた場所からでも見えるほどの大型建築で、圧倒されます。
近付くとさらにその大きさがわかります。こちらのお堂は一見の価値ありです。
現在国の重要文化財である東本願寺の阿弥陀堂が1895(明治28)年に再建された際、こちらのお堂が参考にされたという記事を見かけましたが、入母屋造りで形は確かによく似ています。
鐘楼と築地塀を背に設置された巨大な鬼瓦。
形状が現在の瓦と同じ形をしていますので、瓦の葺き替えで取り替えられたものなのかな…案内がないので詳細は不明ですが、こちらの大きさからも、本堂の巨大さをわかりやすく物語る展示です。
境内には遊具があって開放されています。この日もご近所の子どもたちが遊びに来ていました。
地元の子たちは大きなお堂を心象風景に、すくすく育っていくんでしょう。
はしお元気村
箸尾御坊の南、県道14号線沿いで寺戸大橋の東詰に「はしお元気村」があります。
大きなかぐや姫が目印です。
場所はこちら。
広陵町の施設で、会議室や多目的ホールの他、地元の野菜やパン、焼き菓子等々品揃えも豊富なマルシェがあります。
カフェコーナーも併設されていて、散策後の休憩にはお勧めです。
また、自動車でお越しの場合は、こちらの駐車場は無料ですので、観光の拠点としても便利かと思います。
私も自動車で訪れましたが、帰りにおいしい焼き菓子を購入し、コーヒーを一杯いただいて帰りました。