皆さんこんにちは。
藤堂高虎という戦国武将をご存知でしょうか。
築城の名手として知られ、その特徴は高く石垣を積み上げる高石垣。伊賀上野城が代表格ですが、同じく戦国末期に築城の名手として知られた加藤清正の反りを重視した石垣とはまた違った見どころを持っています。
しかし何といっても高虎といえば、何度も主君、主家を変えた武将として知られています。
そのため、高虎は利に聡く、変節漢というイメージが意外と根強い人物なんじゃないでしょうか。
今回は、そんな高虎のイメージが、事実を反映しているものなのかどうか、彼の飛躍のきっかけとなったある主君のもとでの活躍を中心に、迫っていきたいと思います。
あれ、このブログは奈良県の人物や話題が中心なんじゃないの?と訝られた方。
近江出身で最後は伊賀・伊勢二国の大大名と、一見奈良県とは関係なさそうな高虎ですが、ちゃんと所縁のある人物なので、詳細は後程(笑)。
出生と主家変転の日々
高虎は1556(弘治2)年、近江国犬上郡で土豪の子として生を受けました。
この頃、武家としては藤堂家は没落していたこともあり、最初の仕官先である浅井家には、足軽として仕えます。
初陣は1570(元亀元)年に勃発した姉川の戦いで、15歳で参戦した高虎は、主君長政から感状を与えられるほどの武功を立て、戦国武士として華々しいデビューを飾ります。
しかし、1573(天正元)年に主家浅井家が滅亡すると、1576(天正4)年までのわずか3年間に阿閉貞征、磯野員昌、津田信澄とわずかな期間に次々と主君を変えることになります。
生涯で多くの主君に仕えた高虎ですが、実のところ短期間で主家をいくつも替えたのは、この時期だけ。
当時の高虎は、各家においては新参の軽輩であり、手柄をたてて出世を目指したい立場です。
高虎自身、槍働きに優れており、合戦に参陣する度、多くの武功を立てましたが、それに応じた恩賞なり知行、俸禄の加増が無ければ、出世の見込みがないとして、進んで浪人し、新たな主君を求めたのでしょう。
また、浅井家については主家が滅亡し、磯野員昌については、信長から追放されて領地を失うなど、否応なく主家を離れざるを得ない事情もありました。
累代の家臣という訳でもなく、自らの身の振り方を自分で決めなければいけない立場であったともいえます。
さて、反りが合わず、武功を立てても一向に自分を評価しない津田信澄のもとを去った高虎が、次に主君として仕えたのが、浅井家滅亡後、北近江を支配していた羽柴秀吉の弟、羽柴秀長でした。
この秀長との出会いが、高虎の運命を大きく変えていくこととなるのです。
運命の出会い
さて、津田信澄に仕えていたころは、80石ほどの知行だった高虎でしたが、秀長は300石という破格の待遇で高虎を迎えます。
浅井家時代から知られた高虎の豪勇ぶりを評価したものといえるでしょうが、兄ともども古くからの家臣を持たない秀長が、いかに優れた人材を欲していたかが、与えた石高の高さに伺えます。
ちなみに同時期に秀長が近江時代に召し抱えた武将に、小堀正次がいて、彼はなんと1000石もの大禄をいきなり受けています。
秀吉の領地は北近江三郡で石高は十数万石といったところでしょうか。
そのうちどの程度の領地が秀長の裁量下にあったのかは知らないのですが、秀長はこれと見込んだ人物には、かなりの大禄を与えていたことになります。
さて、21歳で秀長に仕えた高虎ですが、秀長に仕えるまでの高虎の功績といえば、どれも槍働きによるものばかり。
身長が190cm前後あったといいますから、今でも体格的にはかなり大柄な人物です。
秀長のもとでも、まずは槍働きで頭角を現します。
高虎の活躍が目立ち始めるのが、1577(天正5)年に秀吉が中国方面の攻略を命じられてからです。
1578(天正6)年、秀長は丹波攻略を進める明智光秀の援軍に丹波へ出兵しました。
黒井城の赤井氏、八上城の波多野氏の討伐が大きな目的でしたが、八上、黒井両城の中継地点である大山城攻めで、高虎は有力国人の長沢氏を打ち破り、大山城攻略に大きく貢献します。
1580(天正8)年に秀長は、但馬を攻略。有子山城を落城させ、但馬守護であった山名氏を滅ぼしました。
この功により秀長は有子山城主となりますが、ここで秀長は有子山城の改修を高虎に命じます。
それまで武辺一辺倒であった25歳の高虎でしたが、有子山城の主郭部を中心に石垣を施して、秀長の期待に見事に応えました。
現在も出石城に隣接する有子山山上の城跡には、見事な野面積みの石垣が残されています。
後に築城の名手となる高虎の才能の萌芽は、この時といえるでしょう。
1581年に勃発した小代(現兵庫県香美町)の国人一揆では、討伐軍の主力となって軍功を立て、3000石を加増され、鉄砲大将となります。
武功だけでなく、そつなく城の改修も務め上げ、一隊を任せるに足ると秀長も判断したのでしょう。
また同年、一揆討伐で高虎を支えた但馬の国人、栃尾氏の勧めで、一色氏の縁者を正妻(お久・久芳院)に迎えています。
この但馬攻略戦で高虎は、秀長のもとで公私ともに大きく飛躍することになりました。
高級技術官僚への道
秀長の重臣となった高虎は、その能力をいかんなく発揮していきます。
信長横死後、1583(天正11)年、織田家の後継をめぐって争われた賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政を銃撃で敗走させた功により、1300石を加増。軍事面で大きく秀長を支えます。
1585(天正13)年からの紀州攻めでは、秀長の命で雑賀党の鈴木重意を謀殺するなど、戦場以外での活躍も見せ、戦後に紀伊が秀長の領地になると、高虎は紀伊粉河に5000石で封じられ、猿岡山城を修築してこれに入城しました。
そして和歌山城の築城に際して普請奉行を命じられます。これが高虎にとって初めての築城となりました。
同年開始された四国攻めでも総大将となった主君秀長を支え、木津城攻めや一宮城攻めにおいて、開城工作に奔走しました。
四国攻めでの功によって秀吉から5400石が加増され、ついに高虎は禄高1万石を超え、大名となるのです。
大名となってからも、引き続き高虎は秀長に献身的に仕えました。
四国征伐後、秀長が大和、和泉、紀伊の三ヶ国百万石の太守として大和郡山に入城すると、郡山城の大改築が行われますが、高虎もこの改築に携わったと考えられます。
高虎といえば高石垣ですが、郡山城本丸の石垣は高さ10メートルほど。
30メートル近い伊賀上野城に比べるべくもないですが、傾斜がきつく切立った感じに高虎っぽさを感じるのですがどうでしょう。
大名クラスに出世した高虎は、益々多様な仕事が舞い込んで来ることになりますが、これが彼の多彩ぶりを開花させていくことになるのです。
1586(天正14)年、京都で方広寺の建立が始まると、高虎は紀伊で木材の調達を命じられます。
この大規模工事の指揮や用材調達という仕事、豊臣政権では出世に必須の業務なのですが、高虎はこの仕事をそつなくこなします。
秀吉直々の命だったことから、高虎の評価が一段上がったことは間違いないでしょう。
また、同年関白となった秀吉は、京都聚楽第邸内に徳川家康の屋敷を建築するよう、秀長に命じます。
秀長はこの作事奉行に高虎を任命します。
高虎は用意された設計に警備上の難点を見つけると、独断で設計の変更を命じ、追加の費用を自分で持ち出して屋敷を建設しました。
後に家康に当初の設計との違いを尋ねられた際、高虎は、家康にもしものことがあれば、主人秀長の不行き届き、関白殿下の面目に関わるので、独断で変更したと答え、もし御不況があればお手討ちくださいと言ったといいます。
家康は高虎の心遣いに感謝したといわれ、これが家康の知己を得る切っ掛けとなったようです。
高虎は、築城をはじめとした建設、土木の分野で卓越した実績を残しましたが、秀長のもと、大きな仕事を任される機会を多数得られたことが、彼の槍働き以外の才能を、大きく開花させた最大の要因といえるでしょう。
豊臣政権の中枢に近い舞台で、高虎は技術官僚・テクノクラートとして大きく成長することになりました。
そして、その才能は時の天下人に、不可欠なものだったのです。
天下に武名を轟かせる
槍働きの方も健在で、1587(天正15)年の九州征伐で、高虎は再び大きな活躍を見せることになります。
日向方面軍の総大将となった秀長は、戦国最強の呼び声も高い島津義久、義弘兄弟率いる島津氏主力の2万と対峙することになりました。
秀長は日向南部、島津の猛将山田有信が守る高城を攻撃します。
高城は堅固な城塞であったため、秀長は城を包囲して兵糧攻めの姿勢をとり、島津の救援ルートである根白坂に砦を構えて、島津軍の来襲に備えました。
これに対し島津義久、義弘兄弟は高城救援のため、根白坂の砦を守る宮部継潤隊を急襲します。
不意打ちを受けた宮部隊の危機を察知した秀長は、高虎を救援に向かわせました。
高虎は600の兵を率い、自ら槍を振るって敵中に突入。継潤とともに島津の猛攻を押し返して、前線を維持します。
この間に宇喜多秀家、小早川隆景の軍勢が島津軍の背後に回り込んで挟撃する形となり、島津軍は大将格の島津忠隣、猿渡信光らが討ち死するなど壊滅的な敗北を喫しました。
この根白坂の戦いを最後に、島津軍との組織的戦闘はなくなり、島津義久は秀吉に降伏しました。
島津に止めを刺した根白坂の武功もあって、高虎は2万石に加増。武将として益々その名を轟かすことになります。
さて、領地が紀伊粉河にあったこともあり、高虎は秀長の紀伊支配において、多大な貢献を果たします。
紀伊は国人の力が元々強い土地柄で、筒井順慶、定次の時代にほぼ豊臣政権の支配が固まった大和とは異なり、秀長の領地となってからも度々国人一揆が蜂起していました。
温厚な人柄で知られる秀長ですが、紀伊の反抗勢力に対しては、徹底的な弾圧をもって臨みます。
そして、その弾圧の中心となったのが高虎でした。
1586(天正14)年8月に、奥熊野で地侍たちが蜂起し、北山一揆が勃発します。
この一揆に秀長は自ら出兵して、多大な損害を被りながらもなんとか同年中に鎮圧しましたが、大雪の影響もあって制圧は中途半端なものとなっていました。
翌年、九州征伐が終わると秀長は再び紀伊に出兵を命じて、一揆の完全制圧に乗り出します。
1588(天正16)年、秀長の命を受けた高虎は一揆鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市)を築城し、従わない農民を田平子峠でことごとく斬首に処すなど、厳しい弾圧を行いました。
当地で「行たら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ」という歌が残されるほど、高虎の一揆鎮圧は苛烈さを極めたようです。
主命とあれば、粛々と残虐行為を進めるあたりは、高虎の冷酷な戦国武将としての一面をよく表しているエピソードですね。
こういった汚れ仕事もきっちりこなす高虎は、秀長にとっても心強い家臣だったことでしょう。
1591(天正19)年、高虎にとって生涯最大の恩人であり、主君であった秀長が、大和郡山城で病死します。
秀長が興した大和豊臣家は、その死後、甥の秀保が13歳で継ぎます。
高虎は引き続き、この若い主君を支えるべく、桑山重晴と共に後見役を務めました。
翌1592(文禄元)年に始まった文禄の役では、高虎は秀保の名代として出陣し、紀伊水軍を率いて、朝鮮水軍と熾烈な攻防を繰り広げました。
そして翌1593(文禄2)年、高虎は名護屋に在陣していた秀保とともに陣を引き払い帰洛しました。
高虎という男
1595(文禄4)年、秀保は疫病に罹患し、十津川で療養していましたが病死し、子がなかったため大和豊臣家は断絶します。
ここで高虎は後年のイメージでは考えられない行動を取ります。
主家の断絶に、なんと高虎はそれまでの身分を捨て、出家して高野山に上ってしまうのです。
兵を率いても、土木、建築の指揮を任せても超一流の高虎を、秀吉が放っておくはずもなく、すぐさま還俗させられ、伊予国板島(現愛媛県宇和島市)7万石の大名として改めて取り立てられました。
秀吉の死後、高虎は家康に接近して、関ヶ原での東軍勝利に大きく貢献。
大坂の陣でも活躍し、家康に最も信頼された武将の一人として、伊勢・伊賀32万2千石の大大名となったのです。
ここまで、駆け足に高虎の人生を追ってきました。
高虎は人生の中で多くの主君に仕えましたが、敵に寝返ったことは一度もありません。
特に自身を厚く遇してくれた秀長、家康には献身的に奉公しました。
特に、秀長に対する思いは格別だったようです。
この寺は、もともと秀長の菩提を弔うため、大和郡山に建立されたのですが、秀保が病没して大和豊臣家が断絶したあと、秀長への祭祀が途絶えることを憂慮した高虎が、1596(慶長元)年、自費で大徳寺に移設した寺院なのです。
その後、高虎は家康に仕えますが、大光院の書付によれば、大徳寺に移設後も高虎は秀長の菩提を弔うため、2代将軍秀忠の代である1626(寛永3)年まで何度も同寺を訪れています。
また、年忌法要や寺の修築費用を負担し、江戸時代を通じて藤堂家の援助が続き、秀長の菩提は守られ続けたのです。
高虎は領内に東照宮を建てるなど、家康への恩にも報いましたが、徳川の世であったことを考えたとき、秀長の厚恩への感謝の思いが、いかに純粋なものであったかが推し量れるんじゃないでしょうか。
主君を何度も変えたことから、怜悧な忘恩の徒という人物像もしばしば見かけますが、徳川の天下となってからも、大光院で秀長の墓参をその身体が不自由になるまで欠かさなかった姿から、大変義理堅く、人情に篤い高虎の人物像が浮かび上がります。
一説には高虎の変節漢イメージは、鳥羽伏見の戦いにおける津藩の寝返りを、旧幕府軍側が、何度も主君を変えた高虎を皮肉って「さすが藩祖の薫陶著しいことじゃ」と罵ったことに端を発すると見る向きもあります。
しかし、津藩は戊辰戦争で官軍の一員として日光東照宮への攻撃を命じられた時、藩祖高虎への家康の大恩を理由にこれを拒否し、家康への義理も決して忘れることはありませんでした。
秀長、家康への大恩を忘れず、二人の死後も忘れず尽くした高虎は、戦国を代表する忠義の士といえるんじゃないでしょうか。
それにしても、一騎駆けで剛勇を誇るばかりか、実戦指揮官としてもバツグンの統率力で、小規模な部隊から大軍まで、的確に指揮。土木工事はもちろん、領国経営についても他家のコンサルタントめいたことまで行った高虎とは、本当に超一流の仕事人であったといえるでしょう。