大和徒然草子

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仏法の種をまいた名僧、高田好胤(5)

皆さんこんにちは。

 

百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を興した、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。

前回はいよいよ薬師寺管長となった好胤が、その晋山式で多くの聴衆を前にして金堂の復興を誓い、写経勧進によって浄財を募ることを決意したことをご紹介しました。

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目標金額10億円。

必要な写経は百万巻。

それは、いつ到達できるかもわからない、途方もない数字が並ぶ道程でした。

 

また、金堂復興は、ただお金が集まればできるというものではありません。

 

どのような設計とするのか。

どのように施工するのか。

誰が大工の指揮を執るのか。

巨大な堂宇を再建するための材料をどこから調達するのか。

 

クリアすべき課題が山積みの中、好胤をはじめとした薬師寺の僧、職員の奮闘の日々が始まったのです。

奔走する好胤

好胤は副住職時代から、様々な団体に招かれて講演活動を行っていましたが、金堂復興にむけた写経勧進が開始されると、講演の最後に集まった聴衆に向けて、写経の協力をお願いするようにしました。

 

薬師寺の写経方法は、毛筆の手本の上に和紙の用紙を重ねてトレースするというもので、このスタイルは現在も変わっていません。手本をなぞるだけなので、老若男女を問わず簡単で、ミスもほとんど起こさず写経ができる、よく考えられたやり方です。

写経が終われば、名前と、願い事を書き、筒に入れて薬師寺に納めれば、復興される金堂に納められ、永代にわたって保管されます。

 

好胤は講演のたびに、用紙を掲げて聴衆に見せながら、写経を通じて清浄な心を培うことを人々に勧めました。

勧進とは、本来寺社の経費を賄うための募金ではなく、仏道を勧めることであるという、基本精神を好胤は常に実践したのです。

写経は金堂復興に向けた手段ではなく、たくさんの人に写経をしてもらい、多くの人に仏心を広めること自体が、好胤にとっては大きな目的だったのでしょう。

 

ある公立中学のPTAに招かれた公演では、いつも通り写経の説明をしようとしたとき、学校関係者から「公立の学校だから宗教活動はしないでほしい」と、激しい言葉をかけられたこともありました。好胤は穏やかな口調で、宗教活動ではあるが、伽藍復興という目的を持った文化活動であることを丁寧に説明して、理解を求めたといいます。

 

地道な好胤の講演活動に、写経に協力をする人は増え、好胤も手ごたえを感じたのか、東奔西走して、1日に多い日では4回の講演をこなし、病気で倒れても講演と写経勧進だけは休もうとしませんでした。

医者の目を盗み、病院を抜け出して講演に出かけたこともあったほどです。

 

薬師寺では写経に来る人のための大広間を作り、好胤は薬師縁日の毎月8日と第3日曜日には、必ず薬師寺法話を行い、人々ともに写経を行いました。

好胤の法話、講演は評判を呼び、テレビでの活動もあって好胤への講演依頼は劇的に増え、全国を行脚する日々を好胤は送ることになります。

 

この好胤の人気にマスコミも目を付け、出版社からは本の出版も持ち掛けられましたが、好胤は申し出を断り続けました。

講演の話のタネがたくさんあるわけではなく、本で書いてしまったら、「ああ、あの話か」と講演を聞いてくれる人がいなくなるのではないかと、好胤が恐れたためでした。

ある日、好胤の講演を手伝いながら、密着取材していた徳間書店の編集者から、講演の内容をまとめたらきっと良い本になると、出版を持ち掛けられます。

「とんでもない。そんなことしたら、タネ本を公開するようなもんや。あかんあかん」

いつものように断る好胤に、その編集者は「それは違う」と切り返し、こう口説きました。

「写経勧進をしてまわっておられますが、それには限度があります。本になりますと、お話を聞きに来られなかった人、また、ご縁のなかった人にも、勧進の願いが届きます

この編集者は、好胤の写経勧進に密着していたからこそ、好胤の勧進の趣旨を理解したのでしょう。

本を書くことも金堂復興の趣旨にかなうことであると理解した好胤は、勧めに従って1969(昭和44)年に『心』を徳間書店から出版。ベストセラーとなり、その後もいくつかの著作を執筆しました。

これらの印税は金堂復興の基金とされ、その旨、各著作の巻末に書き添えられました。

 

地道な活動は着実に実を結び、開始から半年で1万巻に達しなかった写経勧進のペースは、徐々に上がっていったのです。

 

法隆寺の鬼

写経勧進が進む一方、1970(昭和45)年に薬師寺金堂設計委員会が組織され、金堂再建工事が具体的に進むことになります。

委員長は東京大学教授の太田博太郎(建築史)、委員には日本大学教授の大岡実建築学)、大阪工業大学教授の浅野清建築学)といった碩学たちが集まりました。

メンバーの多くが1934(昭和9)年から始まった、法隆寺の大修理に携わり、古代建築について多くの知見を得ていることも、薬師寺にとっては大きな幸運といえたでしょう。

 

さて、金堂再建にあたって、好胤が強く望んだ条件がありました。

一、金堂は木造とすること

一、用材は日本の木を使うこと

一、火事があっても本尊の薬師三尊に大事がないようにすること

 

天武・持統朝の建築を復活させるのであるから、何としても日本の木材で復興させたい。

また、度重なる火災に見舞われた歴史から、火災から本尊を守ることを、最も重要視したのです。

 

最初の課題が木造による再建でした。

まず、難航したのが建設業者の選定です。

当時、木造による大規模な寺院建築はほとんど前例がなかったこともあり、請け負う業者がなかなか見つかりませんでした。

大手ゼネコンにはすべて断られてしまい、最終的に、伏見桃山キャッスルランドで模擬天守の建設実績がある池田建設に決まったものの、当時大規模な木造建築の実績がなかったこともあって、木造はやはり困難ではという声が、委員会内でも沸き上がります。

金堂再建ともなれば、高度な伝統建築の技術が必要となりますが、薬師寺では代々その技を受け継いできた番匠(宮大工)が絶えて久しく、棟梁となるべき人物がいなかったのです。

 

この時、委員長の太田の脳裏に、一人の男が浮かびます。

西岡常一

代々法隆寺に仕えてきた番匠の棟梁で、法隆寺昭和の大修理で腕を振るい、その知見は時に錚々たる建築学の大家たちを唸らせたことで知られる人物です。

理に合わないことは、たとえ相手がどのような権威ある学者であっても、歯に衣着せぬ物言いで反論したことから、「法隆寺の鬼」と呼ばれ、象牙の塔の人々からは大変恐れられた存在でした。

西岡常一棟梁については、下記の記事に詳しいので、興味のある方はこちらもご参照いただければと思います。

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「西岡棟梁に任せれば大丈夫だ」

法隆寺の大修理でその実力を知る太田は、西岡を金堂再建の棟梁に強く推薦します。

 

当時、法輪寺三重塔再建の棟梁を務めていました西岡を、1970年5月、金堂再建のため招請すべく、薬師寺に招きました。

薬師寺の客殿に迎えられた西岡の説得にあたったのは、前管長橋本凝胤です。

凝胤はもともと法隆寺の出身であり、西岡とは旧知の間柄でした。

薬師寺金堂再建の棟梁にという凝胤の申し出を、西岡は「大工として身に余る光栄」と謝意を表しました。しかし、法輪寺三重塔の仕事がまだ仕掛りであることを理由に、自分以外の人に棟梁は任せてほしいと断ったのです。

実のところ、西岡が薬師寺から声をかけられたとき、法輪寺の三重塔再建は資金難で工事がストップしていた時期ではあったのですが、西岡としては筋目を通したいという思いがあったのでしょう。

また、このときの西岡は、何かとマスコミへの露出も多かった薬師寺管長の好胤を快く思っていなかった、というより、「タレント坊主」と毛嫌いしていたといいますから、薬師寺の仕事そのものに乗り気ではなかったとも考えられます。

 

しかし、薬師寺としては、西岡は余人をもって替えがたい棟梁でした。

凝胤にとっても金堂復興は長年の宿願です。

「西岡はん、あんた以外にはいない。みんなそう言うておる。まげて手を貸してくれんかな」

目に涙をためて懇願する凝胤。

その姿に西岡も心を打たれたのか、礼儀正しく手をつき、ついに棟梁を引き受けました。

その日のうちに薬師寺から法輪寺法隆寺に使者が送られ、西岡を薬師寺金堂の棟梁に迎える許可を両寺からもらい、正式に西岡は薬師寺の棟梁となることが決まったのです。

こうして、薬師寺金堂再建に向け、設計、施工の役者がついに揃いました。

幻の金堂

さて、金堂を再建するにあたって大きな課題となった一つに、どのように設計するかという問題がありました。

今回再建を目指したのは、戦国時代の兵火で失われた白鳳期の「竜宮造り」。

誰もその姿を見たことがない金堂を、どのような形で再建するかが大きな課題だったのです。

慶長期に再建された仮金堂は粗末な造りで、全く参考にすることはできず、残された断片的な史料から、その姿を再現していく手法がとられました。

薬師寺には1015(長和4)年に書かれた「薬師寺縁起」という文書が伝えられており、そこには金堂の規模は二重二閣、五間四面、長さ八丈七尺五寸、広さ四丈、柱の高さ一丈九尺五寸とありました。

ここからおおよその規模を割り出したほか、金堂周囲の発掘調査も行い、創建当初の基壇の構造から礎石、雨落ち溝の位置が特定されました。

礎石の位置からは、柱の建っていた位置を、雨落ち溝は雨樋がなかった時代、軒下にあった排水設備のため、この溝の位置からは、正確な軒の長さを特定することができるのです。

こうした史料分析と考古学的な知見から、金堂の大枠は固まっていきました。

次に問題なのは細かな意匠です。

屋根の形、勾配、棟の高さ、連子窓の位置等等、決めなければならないことが次々と出てきます。

これについては、創建当時から残存している東塔を徹底的に調査して、その意匠を参考としました。

西岡は連日薬師寺を訪れては東塔を観察し、またある日は弟子の小川三夫を伴って塔に上り、細部に至るまでその構造や意匠を調査し、金堂の設計へと反映させたのです。

 

こうして幻であった金堂は、徐々にその具体的な姿を現してきました。

しかし、設計上最後の課題がありました。

木造でありながら、防火対策を徹底するという難題です。

好胤の意向は、完全木造による再建でしたが、この難題に金堂設計委員会が出した結論は、金堂内陣のみ防火シャッター付きの鉄筋コンクリートとし、それを木造の堂で覆うというものでした。

この決定に棟梁の西岡は、耐用年数が100年と短い鉄筋コンクリートの導入は耐久性に問題があり、総ヒノキ造りとすべきと考えていましたが、委員会の出席メンバーではなかった西岡の主張は、委員会や好胤、凝胤の元へ残念ながら届きませんでした。

後に当時執事長(後に管主)だった安田瑛胤は、元々好胤自身は完全木造を望んでいたこともあり、もし、西岡の声が早めに委員や好胤らの耳に届いていれば、完全木造による復興ももう少し検討されたのでは、と後に述懐していますが、薬師寺側としては薬師三尊の防火対策を最優先する決断を下します。

この決定に、棟梁の西岡は大いに不満でしたが、大工としては施主の決定に逆らうわけにはいきません。

「木に竹を接ぐ」ならぬ「木にコンクリートを接ぐ」仕事を、後に西岡は見事にやり遂げることになるのです。

 

<参考文献>

薬師寺復興をはじめた高田好胤さんの、ちょっとほっこりする話がいっぱい詰まった伝記です。

不世出の宮大工、西岡常一棟梁の自伝と、棟梁ゆかりの人々のインタビューが収められた一冊です。

 

次回はこちらです。

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