大和徒然草子

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「法隆寺の鬼」と呼ばれた男。最後の法隆寺宮大工、西岡常一(5)

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皆さんこんにちは。

 

不世出の宮大工、西岡常一棟梁をご紹介してきた当記事も今回が5回目で、最後となります。

薬師寺では金堂と西塔が再建され、その後も伽藍復興が続くことになります。

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常一は引き続き薬師寺棟梁として、この大事業に携わっていきました。

白鳳伽藍の復興

1979(昭和54)年、西塔の再建が進む中、中門と回廊の再建、そしてかつての伽藍にはなかった玄奘三蔵院の新たな建立が決まり、常一はこれらの設計試案に携わります。

後に昭和、平成と続くことになる薬師寺の復興伽藍構想が具体的に動き出したのはこの頃でした。

1981(昭和56)年4月に西塔が再建されると、次は中門の実施設計にあたり、翌1982(昭和57)年に中門の工事が始まります。

中門は、国宝である法隆寺東大門と同じ、天平の様式である三棟造りで再建されました。

三棟造りとはその名の通り、三つの棟が組み合わさった構造で、門の前後に一つずつ屋根があり、その二つを大屋根が覆う様式になり、くぐるとき天井を見上げると、その特徴がよくわかります。

柱の造形は、東塔を参考に設計されました。

白鳳伽藍唯一の遺構である東塔は、復興伽藍すべての手本となっているため、東塔以外の建物は新築にもかかわらず、全体的な調和が保たれているのでしょう。

1984(昭和59)年10月、中門は完成し落慶法要を迎えます。

 

中門に引き続いて、玄奘三蔵院が起工。1985(昭和60)年12月には薬師寺棟梁として常一は上棟式を取り仕切りました。

三蔵院は、1991(平成3)年、落慶法要を迎えます。

金堂、西塔、中門と再建が進み、あとは東西の回廊と薬師寺最大の建造物であった大講堂が再建されれば、ほぼ白鳳伽藍が復興するところまで来ていました。

 

齢80を過ぎても、常一は妻カズエの作った弁当を手に、自宅のある法隆寺から薬師寺まで毎日奈良交通のバスに揺られて通い、写経道場の裏にあった復興奉行所で大工たちの作業を見守り続けました。

目の衰えから、最晩年は現場の第一線からは退いたものの、文字通り精神的支柱として伽藍復興を支え続けたのです。

 

1995(平成7)年4月、常一は癌のため、惜しまれつつ世を去りました。享年86。

 

常一の亡くなったこの年は、阪神淡路大震災の年でもあります。

この未曾有の大災害のため、建築基準法が大幅に改正されることとなりました。そのため、大講堂再建にあたって、常一の遺した基本設計に基づく日本伝統木造建築物は、建築申請をしても建設省に受領すらしてもらえない危機に立たされてしまいます。

常一の遺した基本設計通りの再建は、不可能な見通しとなってしまったのです。

大幅な施工仕様の修正が図られましたが、それに異を唱えたのは常一の後を継いで棟梁となった上原政徳以下、現場の大工たちでした。

「日本伝統建築物を建てるため、自分たちは西岡棟梁のもとにやってきた。その目的が変わってしまったら、我々は去るしかない」

と、あくまで伝統建築の基本ラインを崩すことなく再建することを求め、容れられなければ現場は解散する覚悟であることを訴えたのです。

設計建築委員会が再び再開し、常一の基本設計を軸にあらゆる分野で耐震補強設計が加えられ、構造の強度実験を繰り返し実施することで再建を目指すことが決められました。

強度実験が繰り返される中、1996(平成8)年、白鳳伽藍の復興を進めた中心人物であった高田好胤管長が病に倒れます。

翌1997(平成9)年、実験の甲斐あってついに法定強度をクリアする構造補強設計が完成し、同年3月、建築基準法に基づく評定書認可が下り、7月から大講堂の施工は開始されました。

ようやく大講堂の施工が始まりましたが、1998(平成10)年、薬師寺の伽藍復興を主導した高田管長が世を去りました。

西岡常一棟梁、高田好胤管長と、伽藍復興を力強く支えた二人の巨人が相次いで世を去ることになりましたが、再建現場も寺も、後進の人々が揺らぐことなく、事業を引き続き推進しました。

このお二人の最大の偉業は、後に続く人を遺したことではないか。着々と続いた伽藍復興や、2020(令和2)年にようやく完了した東塔の解体修理を見るたびに、そう思わずにはいられません。

施工開始後も、建設省の工程検査を年10回以上受けながら、一度の不適合も受けることなく、大講堂は、2003(平成15)年に落慶を迎えました。

震災後の厳しい建築基準を乗り越え、常一の遺志を受け継いだ人々の力が結実した瞬間でした。

  

 

薬師寺の再建には日本全国から、多くの若い大工たちが集まり、その腕を磨いていました。

大工の育成に現場は欠かせません。

白鳳伽藍の復興で、多くの若い大工が伝統建築に触れる機会が生まれ、薬師寺は彼らの修練の場となったのです。

内弟子だった小川三夫は1977(昭和52)年、30歳で独立し、工人集団鵤工舎を設立しています。

小川は法輪寺三重塔を皮切りに、独立直前には薬師寺の金堂、直後に西塔の再建で経験を重ね、その後、親方として多くの弟子を持ち、全国の社寺の建築を請け負うようになっていきました。

晩年、常一は、薬師寺をはじめとした宮大工の現場が増え、若手の大工が育っていることをうれしく思っていました。

戦後まもなく、宮大工として食うや食わずの窮乏生活を強いられた頃の常一には、想像がつかない光景だったことでしょう。

常一没後も、その薫陶を受けた後進の大工たちが、薬師寺の再建に取り組み、伽藍復興が進んでいきました。

大講堂再建の後、東西回廊、食堂の再建が進み、令和の現在、白鳳伽藍の復興はほぼ完成しました。

常一が伝えた宮大工の仕事は、着実に次の世代へと引き継がれていったのです。

 

事に仕えて意気に感ず

さて今回まで、5回にわたって、西岡棟梁の足跡をご紹介してきました。

ここからは、西岡棟梁が残した言葉などから、その人柄やモノの見方に触れていきたいと思います。

 

まずは、西岡棟梁の仕事観。

生前、西岡棟梁は、お子さんに対して、「自分の仕事は労働ではない」と常々言っていたそうです。

「おれは労働者やないんや。仕事というのは事に仕えることや」と。

西岡棟梁にとって「労働」とは、1時間単価なんぼの「労力の切り売り」であって、自分の仕事は金銭で量れない価値のためやっているという誇りがあったと、後に棟梁のお子さんがインタビューに答えています。

戦後まもなく、一般の大工が日当50円だったころ、8円余りの日当で生活に困窮する中、宮大工として法隆寺を支え続けた姿は、まさに千年続く寺院を支える仕事を務めているのだという、並々ならぬ矜持を示すものと言えるでしょう。

また、晩年は法隆寺薬師寺での活躍が一般の人々にも広く知られるようになり、棟梁の仕事以外にも多くの講演を依頼されるようになりました。

しかしその講演謝礼は、全て薬師寺復興のために奉納したといいます。

薬師寺から棟梁として十分な報酬をもらっているのに、その上講演謝礼をもらっては、寺からの賃金と講演謝礼の二重取りになってしまい申し訳ない、というのがその理由でした。

最晩年には、大工、棟梁として、かつてのような仕事ができなくなったことから、薬師寺側に報酬の減額を申し出たと言います。

 

「事に仕えて、意気に感ず」と、西岡棟梁はよくお子さんにおっしゃったそうですが、金銭を超えた価値のために仕事をしている姿勢を、生涯を通じて貫かれたのだと思います。

「やらされ仕事」ではろくな仕事ができない、後に遺る仕事だからこそ誇りを持てる、立派なモノを仕事で遺したい、そういった思いが一層強かったのでしょうが、やはり「いい仕事」をするには、棟梁のような強い当事者意識が必要と痛感させられます。

西岡棟梁にとって宮大工は、「職業」ではなく文字通り「生き方」だったのでしょう。

 

知識人になるな

西岡棟梁は、法隆寺法輪寺三重塔、そして薬師寺再建に至るまで、多くの学者たちと、論争を繰り広げたことで知られます。

特に、同時代の「中国、朝鮮の様式はこうだから」というような机上の様式論で、再建の様式、構造を学者が主張したとき、それが大工として現場で得られた知見に反した場合は、毅然と反論しました。

法輪寺の三重塔再建では鉄材での補強を主張する学者に対して、「今の学問は信用しません」とまで言い切っています。

また、小川三夫さんを内弟子に取った時、「本もテレビも見るな」と指示しました。

一見、西岡棟梁は学問、学識といった知識を軽視しているかのようにも見えますが、実際はどうだったのでしょう。

 

西岡棟梁のご次男が、高校卒業前に進路を相談し、「大工を継ごうと思っている」と伝えたとき、棟梁の回答は意外なものでした。

 

「単なる職人やったらならんといてくれ」「継ぐんやったら、少なくとも国公立の工学部へ行って、こと建築に関しては知らんことはないというぐらいに、木工から土木工学に至るまですべてに精通してこい」

(『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』(日経ビジネス人文庫)より)

さらに、文化財の修理や保存には学者との付き合いが多いため、建築の歴史的な流れはもちろん、仏教伝来から今日までの仏教史も知識として身に付けていなければ、設計委員会などで学者たちと意見が対立したとき論破できないとも言ったそうです。

要するに自分なりの意見を、論理的にプレゼンするための十分な知識は、身に付けている必要があるという訳です。

実際、西岡棟梁自身、大工仕事の傍ら、工業、美術、仏教教学と幅広く知識を求め、若いころは後に論争を繰り広げる学者たちの家にも通い詰めて、建築関係の学術書などを読ませてもらうなど、貪欲ともいえるほど知識を深めていきました。 

これらの知識が、論争する中で、棟梁の意見を支える理論的バックボーンとなっていたことは疑いようがありません。

 

しかし、ただ知識をつけろということではありませんでした。 

「知識は持っとかなあかん。だけど知識人になるな」

「学問ほど人間を毒するものはない。学問に縛られたら、それ以上の人間の成長もない。ただし、無知とバカは一緒。知ったうえで捨てなさい」

(『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』(日経ビジネス人文庫)より)

 知識は大事だが、その知識を絶対視して縛られてはいけない。

 農学校を卒業した年、1年間教科書通りに農業をして、思うように収穫できなかった西岡棟梁は、本や学問の知識を鵜呑みにして、本当に大事なことを見失っていたことを身をもって経験していましたし、空理空論を振りかざし、いくら事実を示してもそれを見ようともしない学者たちを、いやというほど見てきました。

西岡棟梁の考えは、知識を持ったうえで、知識に「振り回されず」に、事実に向き合うことが大事で、決して知識に囚われてしまってはならないというものだったのだと思います。

内弟子になったばかりの小川さんに、建築の本などを読ませなかったのも、大工修業に入ったばかりの小川さんには、本の知識が邪魔になるとの思いがあったのでしょう。

後に小川さん自身、早く技術を身に付けたいと本を読むのは、言葉でなるほどと思ったとしても、その技術は身についたわけではなく、かえって本の知識に囚われてしまって「意識するだけ上達は遅くなる」と述べています。

 

さいごに

 

知識は活かすものであって、囚われてはいけないもの。

実践することは大変難しいことですが、自分自身の目を曇らせないために、心がけていきたいことですね。

 

5回にわたって西岡常一棟梁をご紹介してきましたが、 まだまだ語りつくせません。

西岡棟梁自身が祖父から受け、ご自身は弟子の小川さんに施した徒弟制による教育の在り方は、私は会社の社員、部下の教育というよりは、子育てをするうえで、非常に示唆に富んでいると感じました。

 

木造建築や環境のことにも、西岡棟梁は多くの言葉を遺されています。

近年、木造建築の強みや、鉄材、コンクリートの弱点が科学的にも判明し、お互いの強みを活かし、弱点を補い合うような工法も出てきています。

昔のように、ハナから鉄やコンクリートの方が木よりも強いと決めつけるようなことはなくなってきているでしょう。

伝統工法も見直され、東京スカイツリーの構造が、日本の仏教寺院の塔を参考に設計されたことは有名な話です。

 

かつて西岡棟梁は、学者が、木材の強さを認めず、千年以上大地震が起きても倒壊しなかった伝統工法を認めなかったことに大きな不満を抱いていました。

しかし現在では、コンピュータのシミュレーションで、伝統工法の耐震性の高さを科学的に計測できるようになってきています。

木材も見直され、新国立競技場にもふんだんに使われているほか、今や木を使った建物は非常におしゃれなイメージがありますね。

こんな現代を、もし西岡棟梁が見たらどんなことを言われるだろうと思います。

 

見栄えだけ、うわべだけの利用ではなく、木の良さを最大限に活かすような使い方と、継続的に木材を使っていけるような木の育成、環境づくりがなければ、西岡棟梁のことですから、「あんなん、あきませんわ」と、ばっさり切り捨てられるかも知れませんね。

 

参考文献

西岡棟梁のことをもっと知っていただける書籍をご紹介します。

是非とも棟梁や御弟子さんたちの言葉に、じかに触れていただければと思います。


 

西岡棟梁ご自身が、法隆寺薬師寺の建築や、宮大工の道具、生活、学者との論争について語られた言葉を、聞き書きという形でまとめられた一冊です。

法隆寺解体修理を通して、棟梁自身が目の当たりにした木材、とくにヒノキのすばらしさや、それを活かしきった古代の職人たちの知恵や工夫を、 棟梁独特の語り口で説かれています。

読むと、すぐにでも法隆寺薬師寺に行きたくなる一冊です。

 


 

西岡棟梁ご自身が自らの半生を振り返って書かれた自伝と、棟梁と仕事をされた大工、職人さん、そして薬師寺関係者やご子息方の座談会やインタビューを通して、不世出の宮大工の実像が、いきいきと蘇る一冊です。

 


 

西岡棟梁が木の活かし方、人の育て方を語り、棟梁の唯一の内弟子である小川三夫さんが、師匠のこと、弟子のことを語り、小川さんが設立した鵤工舎の若き工人たちのインタビューが収められています。

徒弟制というと、とかく封建的なイメージがわきがちですが、人の育成、教育というものの本質が見えてくる一冊です。