大和徒然草子

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三英傑(信長・秀吉・家康)は理想の上司、経営者か!?

皆さんこんにちは。

 

いつもは奈良を中心とした人物や歴史、史跡と、少々ニッチな話題を書いてる当ブログですが、「たまにはメジャーどころの話題も書いてみたいな」ということで、今回は戦国の三英傑、織田信長豊臣秀吉徳川家康を取り上げてみたいと思います。

 

三英傑といえば、歴史上の人物の中でも、幾度となく小説、ドラマ、映画の主人公として描かれ、ほぼそのイメージも定着していると思います。

共通するのは、多士多才な人材を活用し、天下に覇を唱えたことから、理想の上司、経営者としても人気のある人物たちですね。

実際のところ、彼らの人材の登用や活用がどのようなものだったか、実際に家臣にどのように相対したかを見ていきたいと思います。

地縁重視の信長f:id:yamatkohriyaman:20200607010932j:plain

織田信長といえば、戦国屈指の人気武将で、「上司にしたい戦国武将」でも、常に上位に名の上がる人物ですね。

人気の理由は、「革新性が高い」「カリスマ性がある」「実力主義で人材を登用する」などよく目にします。

怠け者の私としては、付いていくのが大変そうで、ちっとも魅力的に映らないんですが、皆さんどうでしょう。

信長の人材登用というと、秀吉や滝川一益といった、身分の低い者や、出自がよくわからない者でも、能力があれば取り立てて重用したというイメージが強いですね。

では、実際のところはどうか。

結論から言いますと、尾張統一頃までは、能力主義で人材を登用する場合があったものの、おおよそ1558(永禄元)年ごろまでで家臣団が固まった後は、新参で配下となったもので、大名クラスまで取り立てられたものは、ほとんどいない、というのが実情です。

 

尾張統一前の信長は、家督相続にあたって、兵士の動員力が高い、有力な国人を家老に付けてもらうことができませんでした。

そのため、土豪の次男、三男で目をかけたものを側近として取り立て、自らの旗本(親衛隊)とします。

この中から、前田利家佐々成政らが頭角を現してくるわけですが、基本的には尾張出身者で占められていました。

また、他国出身者は、主に美濃出身者がほとんどで、斎藤道三死後、その子義龍との関係が悪化する中、美濃の事情に明るいものを召し抱えて、美濃へ備えるという意味合いも強かったのでしょう。

主な美濃の出身者としては、森可成金森長近蜂谷頼隆などが知られます。

津島、熱田などの商業都市をおさえていた信長は、経済的に豊かであったため、金の力で新規召し抱えの者たちを養いました。

彼らは、信長への忠誠心は高く、実力本位で召し抱えられているため能力も高かったのですが、禄は少なく、基本的に小身でした。

一方、父信秀の代からの宿老である、佐久間信盛柴田勝家林秀貞などは、元々有力国人であり、織田家に対しては横並び意識が強く、一言でいえば、信長にとっては扱いづらい家臣であったといえます。

実際に、弟信勝が謀反を起こした際には、自身の家老である林秀貞にまで背かれ、その兵の動員力の高さに、信長は大いにてこずりました。

宿老たちは、信長にとっては心底信頼のおける存在ではなく、願わくば旗本たちを取り立て、自らに従順な家臣たちで周りを固めたいと願ったことでしょう。

有力国人であった宿老層と信長には、一定の緊張関係があり、信長が実力本位で子飼いの旗本衆を集めたのは、多分に必要に迫られての行動だったんじゃないでしょうか。

 

1558(永禄元)年頃までに、元々有力国人であった層と信長が実力本位で集めた旗本たちから成る、織田家臣団の中核、いわば創業家臣団というべき層が形成されます。

それ以後、信長の勢力伸長に伴って大名クラスに取り立てられるものは、ほぼ、彼らの中からに限定され、国人層の宿老たちを引き続き重用しつつも、丹羽長秀や秀吉ら、子飼いの旗本たちにチャンスを与え、徐々にその地位を引き上げていくのです。

尾張統一後の新参の者たちは、主に中核家臣の与力とされたたため、新参の者から大名に取り立てられるものは、ほぼ皆無となります。

 

もちろん、勢力拡大の中で、信長に帰参して大名となった者たちはいます。

しかしそのほとんどが、もともとそれなりに大身の者たちで、帰参によって本領を安堵された者たちといった方がよいかもしれません。

稲葉一鉄ら美濃三人衆や松永久秀細川藤孝荒木村重筒井順慶などはその代表格といえるでしょう。

尾張統一後の新規に召し抱え組で、信長によって軽輩の身から大名クラスにまで取り立てられ、重要な役割を与えられた人物は一人しかいません。

2020年大河ドラマの主人公、明智光秀ただ一人です。

やはり光秀は、織田家中の中でも異例中の異例でした。

 

さて、信長が実際に、どのように家臣団を統率していったかといえば、家臣たちの上昇志向を煽り、徹底的に家臣同士を競争させることで、組織としての求心力や実力を高めていったといえます。

特に直臣ともいえる軽輩の旗本たちには、それこそ矢面に立っての命がけの武者働きを求めました。

前田利家佐々成政森可成などは、まずは一騎駆けの猛将として、その名を知られましたし、槍働きのイメージに乏しい秀吉も、信長から武将として一目置かれるようになったのは、壮絶な撤退戦となった金ヶ崎の退き口で全滅覚悟の殿を命がけで務めた後です。

こうした命がけの働きで、成果を上げ、生き残った者たちは大いに取り立てられ、宿老たちと肩を並べるようになります。

そしてついには、佐久間、林などは、働きが悪いと難詰された上に、尾張時代の叛乱を蒸し返されて、最終的に織田家を追われることになるのです。

恐ろしい実力主義ですが、それでもやはり、尾張出身者を中心とする、1558年頃までの創業家臣達の中での争いがメインであり、外様の者がそれに加わることは、ほとんどありませんでした。

 

1577(天正5)年ごろから、松永久秀荒木村重など、有力な外様大名が相次いで信長に謀反を起こし、1582(天正10)年には最大の外様大名ともいえる明智光秀の謀反により、信長は命を落とすことになります。

信長配下の有力大名で謀反を起こしたのは、どれも外様ばかりということを見ると、尾張統一後の織田家は、新参で上昇志向の高い人物にとっては、意外に魅力がない家中だったのかもしれませんね。

 

実力主義の秀吉

 

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続いて、豊臣秀吉です。

秀吉といえば、「人たらし」で、陽気な性格から誰からも愛され、大阪の人々からは今も「太閤さん」の愛称で親しまれており、信長、家康に比べると、はるかに庶民的で、取っ付きやすそうな印象を持つ方も多いんじゃないでしょうか。

 

でも、そういった印象は、信長の家臣時代までの秀吉のキャラに負うところが大きく、天下人となってからの秀吉は、信長も真っ青の超実力主義のシビアなリーダーでした。

とくに、家臣の能力査定は厳しく、能力がないと見たものには、決して大禄を預けません。

 

まず、家督継承に伴う遺領の相続について。

江戸時代も最初のころは、大名の急死などで遺領を相続した子が、幼年であることを理由に、減封されるような例はありましたが、秀吉は、とくに大禄の家であった場合、かなり極端に行っています。

一番ひどいのは、蒲生秀行という大名の例です。

彼は名将蒲生氏郷の嫡男で、氏郷が1595(文禄4)年に急死したとき13歳で会津若松92万石を相続することになりました。

しかし、秀吉は秀行が若年で、器量も低いという理由で、会津の領地を没収、近江に2万石で移封しようとします。

一気に90万石減です。

さすがに、これはあんまりだと秀吉の周囲からも声が上がり、いったんは相続が認められたものの、結局1598(慶長3)年には家中の紛争を理由に、宇都宮への国替えを命じられ、18万石に大幅減封されてしまうのです。

秀行はこのことを恨んだのか、関ヶ原では東軍について、戦後、旧領の大部分を取り戻しました。

秀吉は、自身が実力だけでのし上がっただけに、親の功績や家柄などの高低に、全く配慮しなかったようです。

また、どんなに槍働きや、軍事指揮に長じていたとしても、秀吉はそれだけでは大禄を与えませんでした。

秀吉の配下に、脇坂安治という武将がいます。

安治は、賤ヶ岳の七本槍の一人として頭角を現した猛将で、非常に戦がうまく、九州征伐小田原征伐で大きな軍功を上げ、朝鮮出兵では水軍を率いて李舜臣率いる朝鮮水軍と激戦を繰り広げ、韓国では李舜臣の好敵手として、最も有名な日本の戦国武将の一人となっています。

そんな安治でしたが、秀吉存命中に得た知行は3万3千石。

同じ七本槍福島正則加藤清正、加藤喜明らが10~20万石という大禄を得る中、どこでこんなに差がついてしまったのか、といえば、どうも秀吉は安治の大名としての経営能力を低く見ていた可能性があるのです。

2016年に発見された、1585(天正13)年当時、秀吉と安治との間で交わされた書状に、その一端が見え隠れします。

この書状は、御所の造営のため、伊賀から木材の調達を行うよう、秀吉が安治に命じたときのもので、安治と秀吉のやり取りが生々しく書かれています。

安治は、戦働きは得意なのですが、材木調達のような仕事は非常に苦手だったようで、秀吉に対して、こういう仕事は苦手だから、戦場に行かせてほしいと何度も訴えています。

これに対して秀吉は「言語道断」と厳しく叱責し、急いで木材を調達するよう、繰り返し安治に督促しました。

この時、材木調達を通して、領地から税や物資を調達して、運び出す、安治の代官としての能力を、秀吉は量ったのだと思います。

土地からのアガリをきちんと秀吉のもとに持ってこれるか、秀吉のために活用できる能力があるかが、大きな領地を与えるかどうかの最大の判断材料だったのでしょう。

秀吉は、自分自身がそうだったように、家臣にも軍事、内政両面でマルチな働きができなければ、決して大きな領地を与えようとしませんでした。

 

秀吉はこのような超実力主義でしたから、豊臣政権下では、たとえ親が大禄を得ようとも、そのまま子に相続できるかは、きわめて不透明です。

武士の本分は一所懸命ですから、大名たちは、自分の子孫に領地を相続できるか戦々恐々で、秀吉は安心してついていけるリーダーではなかったでしょう。

秀吉の死後、急速に豊臣政権の求心力が低下していったのも、こういうところが大きかったんじゃないかと思います。

 

外様大名に大きく気を遣った家康

 

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戦国を終わらせ、江戸の太平を開いた徳川家康

政治家は結果がすべてともいわれますが、三英傑の中にあっては派手さは欠けるものの、最終的に天下を取って、長期政権の礎を築いた家康は、理想の上司、経営者として高い人気を誇ります。

 

家康の家臣たち、特に三河以来の譜代たちに対する遇し方というと、特定の寵臣や大功を立てた者だからといって、特に大きな領地を与えることはしませんでした。

徳川四天王と呼ばれた、酒井忠次本多忠勝榊原康政井伊直政のうち、古くからの家臣であった酒井、本多、榊原らは譜代家臣の中ではもっとも多くの領地を得たものの、10万石前後。

四天王で最大の領地を得たのは、佐和山18万石の井伊直政でした。

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで勝利し、事実上の天下人となった家康ですが、譜代家臣への加増は殆ど行っていません。

一般的には、家康がケチだったから、という見方もあるようですが、最大の理由は、関ヶ原本戦の勝利に徳川家の軍隊が、ほとんど貢献できなかったからじゃないでしょうか。

 

西軍との決戦に向けて、家康率いる東軍が西に進んだ際、中山道東海道の二手に別れて進みましたが、徳川家の本隊は、秀忠が率いる中山道方面軍の約40000で、東海道を進む家康と行動をともにしたのは、旗本30000と4男松平忠吉井伊直政の率いる7000あまりでした。

当初、西軍は、かつて秀吉と家康が戦った、小牧長久手の戦いの時のように、主に濃尾平野で対峙する想定で事を進めようとしたようですが、東軍の先陣を切る清須城主の福島正則が突出して、瞬く間に岐阜城が陥落、前線をどんどんと押し上げていきました。

家康としては、徳川の本隊である秀忠との合流を待ちたいというのが本音だったでしょうが、幸先良く勝利を重ねている友軍の勢いを殺ぎたくなかったのでしょう。

ついに秀忠を待たずに、関ヶ原の本戦に臨み、勝利をえたのです。

しかし、この合戦で大きな働きをしたのは、福島正則黒田長政細川忠興といった、元々豊臣家臣の大名たちばかりで、徳川家臣で目立った活躍をしたものは、井伊直政しかいませんでした。

こうなってしまうと、戦後の論功行賞では、福島、黒田、細川、そして関ヶ原の戦局を決定づけた小早川秀秋らを厚く遇せざるを得ず、わずかに活躍を見せた井伊直政を、佐和山18万石に据えるのが、やっとだったのでしょう。

 

秀吉が小飼の有能な家臣に大禄を与え、要地に配置していったことに比べ、関ヶ原直後、まだまだ家康の支配力は弱かったことを示していると思います。

結局、家康死後もこの図式は変わらず、譜代は井伊家が30万石以上の大禄を得たのが、異例なものの、他の譜代たちは、多くが数万石規模の小藩で、大藩といっても10万石前後に抑えられました。

 

徳川幕藩体制では、親藩、外様は大禄が多いものの幕政中枢から遠ざけられ、譜代は小禄ながら、老中として幕政の中核を占めたことで知られます。

元々、徳川家の古くからの譜代は、三河の国人達で、横並び意識も強かったことから、能力主義で特定の家に突出した領地を与えるのは、無用な摩擦を生むと、家康も配慮したのかもしれません。

井伊直政の場合は、新参だっただけに、かえって実力主義で重用しやすかったのでしょう。

井伊家は、他の譜代衆にも巧く気配りできたためか、幕末まで大藩として生き残れましたが、同じく新参で家康に重用された大久保長安は、その死後不正蓄財を疑われ、家はとり潰されて、子どもの多くが切腹させられるなど没落しました。

その後も、幕府内では、老中同士の熾烈な権力闘争が繰り広げられたことを見ると、横並び意識が強く、足の引っ張り合いを繰り返す、譜代たち相互の関係性が見えてきます。

しかし、家康自身、徳川家以下の家臣たちのそういった横並び意識の強さを利用することで、その上に立つ徳川家の安泰を図ったとも言えるでしょう。

結局のところ、家康は強力なナンバー2を置くことをせず、家臣同士を相互に牽制させることで、非常にしたたかに自己の求心力を高めていったのではないでしょうか。

 

上司、経営者として下につくならおすすめの戦国武将は

さて、信長、秀吉、家康と、三者三様の家臣登用のあり様をご紹介してきました。

信長は、意外に新規で仕えると、そもそもチャンスがなさそうですね。

グループ子会社の社員にはなれても、本体の幹部になるには、そもそも創業時の社員と縁がなければチャンスがないって感じです。

 

秀吉は、外資系企業も真っ青のバリバリの超実力主義

実力次第でドラスティックに抜擢してもらえるとは思いますが、逆に働きが悪くなれば、あっという間にヒラに降格なんてことも当たり前で、正直腰を据えて仕事をするなんて雰囲気ではないですね。

また、オールラウンダーであることを求められるので、一芸で勝負したい人物は、とても出世が望めそうにありません。

 

家康は信長、秀吉に比べれば、ドラスティックな引き上げもない代わりに、いきなり左遷、降格ということは少なそうです。

でも、同僚同士の足の引っ張り合いがすさまじく、組織的にはいろいろとめんどくさそうです。

 

私個人としては信長、秀吉、家康は、どの人物も上司には持ちたくないというのが本音です。

三人とも家臣の操縦術の実態を見てると、極端な話、会社の経営者というより、暴力団の組長というほうがしっくりくる感じがしてまして、とてもついていく気が起こりません(苦笑)。

武士団も暴力団も、その力の源泉はむき出し暴力なので、そもそも戦国武将で理想の上司というのが、現代の一般人的感覚からして、当てはまる人物が少なくなっていく気がします。

 

そんな中、個人的には、現代人的感覚でもっとも仕え甲斐のある戦国武将は、武田信玄だと思います。

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武田信玄が治めた甲斐は、武田家の一族を中心とした在地領主たちの力が強く、彼らをまとめるために、信玄は非常にきめ細やかに家臣を気遣うことで、一つにまとめていました。

そもそも、信玄自身が、独裁を強める父信虎を嫌った甲斐の有力者たちに担がれる形で、父を追放して家督を継いだわけなので、家臣たちの意見を尊重しないわけにはいきませんでした。

その一方で、内藤正豊高坂正信といった、もともと身分の低かった者も能力本位で登用し、彼らが働きやすいよう、甲斐の名族の名跡を継がせて職場環境も整え、能力を存分に活かせるようにフォローしています。

真田昌幸なども本来真田家の三男として、陽の目を見ることがない立場でしたが、能力を認めて、名族の家督をつがせて重用するなど、伝統的な守護大名でありながら、能力があれば、新参でも出世の道が開けていた人物だったと思います。

さらに、臆病で戦場では役立たない家臣は、目付として家臣たちの監視役として使うなど、個々の能力に応じた適材適所の人材活用を行ったことも、働きやすい環境を整えてくれる上司、経営者として、とても魅力的だと思うのですがどうでしょう。

 

家臣に対してこれでもかというくらいに気配りを欠かさなかった信玄。

それは、信長、秀吉のような独裁的権力を、信玄が握っていなかったことを示す証左ともいえます。

信玄とその家臣との関係性を示すものに、武田二十四将という、信玄とその家臣を描いた有名な浮世絵の題材があります。

この絵には信玄と彼の配下23名が描かれており、つまり信玄は武田家の武将の筆頭格という訳です。

 

ボトムアップで部下の意見をよく傾聴し、能力次第でエリートでなくても抜擢し、個々の能力に適した仕事を与えてくれる。そのうえ、実務に明るく、決定は的確なものが多いなんて、まさに現代的な理想のリーダーではないでしょうか。

もっとも、信長、秀吉型の組織のように急速に成長するような爆発力はなく、信玄が亡くなると、武田家は途端にバラバラになって瓦解してしまったわけですが、信玄一代に限れば非常に働きやすい組織であったといえますし、現代社会においてはブラックになりにくいリーダーだったんじゃないかなと思っています。

 

皆さんなら、どんな武将の下で働いてみたいですか。