大和徒然草子

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異端の天才、世阿弥はなぜ忘れられたのか(1)

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皆さんこんにちは。

 

日本を代表する芸能にがあります。

同じ能楽でも、世俗の人々の日常をユーモアを交えて演じる狂言に比べると、幽霊や神といった超自然的な存在を題材として、舞踊が中心となることの多いは、いささかとっつきにくいという人も多いかもしれませんね。

能といえば、所作や台詞、物語の構成など、全体的に幽玄美を漂わせつつ、内容も非常に抒情的ないわゆる夢幻能が、今日一般的な能のイメージとして定着しているといえるでしょう。

この夢幻能を大成させたのが、世界初の演劇論「風姿花伝」を著した世阿弥です。

能楽に詳しくない人でも、歴史の教科書でもおなじみの世阿弥の名は、聞き知っている方も多いと思います。

現在、能を大成させた人物として高く評価されている世阿弥ですが、広く世にその名が知れ渡るようなったのは、1908(明治41)年に、「風姿花伝」をはじめとした数々の遺著が発見されて以降のことで、実はここ百年あまりのことと知ったら、意外に思う人は多いんじゃないでしょうか。

能の芸術性を高め、日本を代表するハイカルチャーとなる礎を築いた世阿弥は、間違いなく不世出の天才でした。

しかし、その死後460年あまりの間、彼は全く日本社会から忘れ去られてしまうのです。

どうして天才、世阿弥は忘れられたのか。

彼の生涯を紐解きながら、ご紹介していきたいと思います。

観阿弥の登場

さて、世界を見渡すと、舞台芸能としての演劇は非常に古い歴史を持ちます。

ヨーロッパでは紀元前の古代ギリシア、ローマの時代から演劇はメインカルチャーとして出現します。

一方日本はというと、舞踊や物まね芸といった芸能は、古代からあったと考えられますが、本格的な演劇は長らく生まれませんでした。

日本で長らく演劇が発達しなかった要因としては、演劇を楽しむ観客が存在しなかったからと考えられています。

古代ギリシア、ローマの演劇は、それを支えた多数の「市民」、一般大衆がいましたが、日本ではこういった層がなかなか生まれてこなかったのです。

しかし、平安時代の後期になると、人々の滑稽な様子を物まねして演じる、物まね芸や奇術、軽業を主体とする猿楽が生まれ、それを専業とする人々と集団が生まれてきます。

この頃、ようやくエンターテインメントを楽しむ、一般大衆が日本にも出てくるわけですが、この段階では、劇芸能として大きな発展はありませんでした。

しかし、平安末期から鎌倉時代にかけて、徐々に演劇要素をもつ物まね芸が増え始めます。

今でいうならショートコントのような演芸が生まれてきたわけですが、しかしここでも喜劇的な要素が強く、シリアスなもの、悲劇的なものは生まれてきませんでした。

 

猿楽が隆盛を迎える中、1333(元弘3)年、鎌倉幕府が滅亡したこの年に、日本の演劇界最初の巨星が生を受けます。

世阿弥の父、観阿弥清次です。

観阿弥の父は伊賀国、服部氏の出身と伝わり、大和国の猿楽一座であった山田座の大夫に養子として入った人物でした。

観阿弥は三男で、長兄は大和の宝生座、次兄は父の跡を継いで山田座を継ぐなど、兄弟全員が役者の道に進みます。

大和国内で座が乱立することを嫌ったのか、末子観阿弥は父の故地伊賀へ向かい、現在の三重県名張市上小波田を本拠として一座を構えて独立しました。

伊賀を拠点にしばらく活動していましたが、猿楽をはじめとした芸能を保護する大寺社が多数ある故郷大和はやはり魅力的な地だったのか、座の拠点を大和結崎(現奈良県川西町)に移し、結崎座を立ち上げます。 

この結崎座が、後の観世座、現在の観世流となるのですが、奈良県川西町結崎にはこれを記念して、観世能楽発祥の地として面塚が建立され、現在は公園として整備されています。

観阿弥はこの結崎座で大きく頭角を現し、結崎座を大和の代表的な猿楽座の一つに押し上げました。

当時の大和は結崎座以外にも、外山(宝生)、坂戸(金剛)、円満井(金春)といった、後に大和四座と並び称される猿楽一座が互いに芸を競っており、観阿弥の芸もその中で研ぎ澄まされていきます。

大和猿楽が得意としたのは主に「物まね」芸、役に扮する演劇的な要素にありましたが、観阿弥は当時猿楽とともに人気を博した田楽の舞を取り入れ、感情の高ぶりなどを舞で表現する手法を編み出します。

また、音曲も従来の猿楽で主流であった小歌節から、当時人気を博した曲舞(くせまい)の音曲を導入することで、一層躍動感のあるものとします。

こうした従来の物まね芸を主体とする劇中に、舞と歌を劇中劇のように組み込む演出の斬新さが、大いに当時の観客に受け、観阿弥の人気は不動のものとなっていきました。

現在の能楽伝統芸能として、確固たる型がほぼ完成していますが、当時は新興の芸能として、様々な趣向を凝らした新作を観阿弥は生み出し、「何でもあり」のポップカルチャーとして広く大衆に受け入れられたのです。

もっとも観阿弥が編み出した当時の新作能のうち、「自然居士」や「卒塔婆小町」といった名作は、能楽の定番演目として現在に伝わっています。

 

結崎座の京都進出

市中での観阿弥の評判が高くなると、活躍の場は大和国以外の地域にも広がります。

特に政治経済の中心地である京都への進出は、観阿弥としても一つの目標だったでしょう。

観阿弥がいつ頃京都に進出したのか正確な年代は不明ですが、1371、2(応安4、5)年頃、醍醐寺で一週間にわたって公演を行い、これをきっかけとして京都での名声を高めました。

やがて京都市中で高まった観阿弥の名は、若き将軍、足利義満の耳にも届きます。

10歳の時、父義詮と死別して将軍となった義満は、管領細川頼之をはじめとした重臣たちに支えられて政務を執り行い、着々と朝廷から京都の支配権を奪い、幕政の強化を進めていました。

時に1374(応安7)年。市中で評判となっていた観阿弥の舞台を、17歳の義満は熊野神社まで出向いて初めて観劇します。

これが「乞食(こつじき)の所行」と蔑まれた猿楽能が、ついに貴顕の賞玩に供される切っ掛けとなりました。

時に観阿弥42歳。

観阿弥はこの新熊野の公演で、冒頭を飾る「翁」を自ら舞いました。

元来「翁」は観阿弥のような座のエースともいえる「太夫」が舞うものではなく、座の長老が舞うものでした。

これは老=神という宗教的な考えに基づくものでしたが、今回は将軍への上覧という、観阿弥にとっては一世一代の大舞台であったことから、「最初に出てくる役者が重要」という考えで、観阿弥自らが舞ったのです。

観阿弥は従来の信仰上のしきたりを捨て、純粋に芸能として観客、ことに将軍義満の心をいちはやく「つかむ」ことを目論んだのでしょう。

これ以後、舞台冒頭の「翁」は太夫が務めることになり、猿楽史上の画期となりました。

 

こういった観阿弥の画期的な仕掛けや、円熟の絶頂にあった芸に、義満はすっかり魅了されます。

養育係の細川頼之の指導の下、和歌、蹴鞠、管弦など徹底的に貴族的な教養を身に着けさせられた義満には、大衆的な物まね芸に幽玄味を加味した観阿弥の猿楽能は、自身の好みに大きく合致したのでしょう。

以後、義満は終生、観阿弥とその子世阿弥を庇護し、観阿弥は猿楽能の第一人者として広く認められるようになりました。

 

世阿弥の誕生

観阿弥が義満に見出された新熊野での公演のとき、世阿弥は12歳の少年でした。

世阿弥の本名は観世三郎元清といい、1363(貞治2)年の生まれとされます。

ちょうど観阿弥が、活動拠点を伊賀から大和へ移した時期で、生まれた場所は伊賀とも大和とも考えられますが、同時代の史料にはその出生地を明示するものはありません。

江戸時代に作られた「伊賀観世の系図」には伊賀国長岡の上嶋館で生まれたとされますが、作られた時代があまりにも新しいので、どこまで事実を反映しているかは不明です。

観阿弥世阿弥の出生地については、大和説と伊賀説で自治体も巻き込んだよくある綱引きもあるみたいですが、現在のところ本当のことは不明と言わざるを得ないでしょう。

間違いないのは、世阿弥はその幼年期を、父観阿弥が勇躍する大和結崎座で過ごし、歳若くして舞台でも活躍していたということです。

少年のころの世阿弥の活躍が記録に残されている最初の例は、観阿弥が初めて京都に進出した醍醐寺での公演です。

この醍醐寺で催された1週間の興行で、観阿弥京都市中での人気を一気に高めますが、当時10歳前後であった世阿弥も舞台に立って「至芸」を披露したと醍醐寺の史料「隆源僧正日記」に記録されています。

当時の名は鬼夜叉といい、大変な美少年でもあったことから、大きく注目を浴びたのでしょう。

 

父親譲りの天才的な役者であり、絶世の美貌を持つ少年は、時の有力者をも強くひきつけます。

まだ義満に見出される前、結崎座が醍醐寺で初めて興行したころ、少年世阿弥に高名な猿楽師や笛の名手の名やその妙技を、こんこんと説いて聞かせたのが、バサラ大名として有名な佐々木道誉でした。

 近江の大大名である道誉が、一介の猿楽師の子どもに直接話を聞かせるとはよほどのことです。

幕府の要人でありながら、当代随一の文化人でもあり、華道、連歌に通じ、猿楽能にも高い批評眼を持っていた道誉の慧眼は、世阿弥の天才を見逃すことができなかったのでしょう。

すでに晩年で死期の近かった道誉は、この才気あふれる少年に、己の知りうる当時最高峰の芸とはこういうものであると伝えずにはおられず、少年世阿弥がその後芸を磨くうえで、大きなきっかけとなりました。

この道誉との一件を世阿弥が叙述するのは50年以上も後のことで、強烈な記憶として世阿弥の心に残ることになります。

 

醍醐寺での公演の成功と新熊野社で将軍義満に見出されて以降、少年世阿弥は猿楽能以外にも、連歌や蹴鞠といった京の洗練された貴族的素養を、それもかなり高いレベルで身に着けていきます。

世阿弥が猿楽以外に、このような貴族的素養を身に着けていったのは、父観阿弥が、座の後継者である世阿弥の芸をさらに洗練させようとしたのか、はたまた、寺社に替わる新たな庇護者と期待する京都の支配層へ、近付きやすくするための深謀遠慮があったのか判然としません。

しかし、幼いころから京都で上流階級がたしなむ教養を身に着けたことが、後の世阿弥の夢幻能に決定的な影響を与えていくことになるのです。

13歳のときには、前関白で当時最高の文化人の一人であった二条良基に面会する機会を得ます。

良基は足利尊氏、義満といった武家の権力者に接近して、数回にわたって摂政関白を歴任した政治的野心に満ちた公卿だったばかりでなく、文化面では連歌を大成した人物で、日本の文化史上でも重要な人物として知られます。

この対面で、良基は世阿弥の美貌と芸事はもちろん、蹴鞠、連歌の素養の高さにすっかり心を奪われ、世阿弥藤若という名を与えて、自ら連歌の手ほどきを行うなど、少年期の世阿弥の保護者となるのです。

 

しかし、何といっても若き日の世阿弥を最も寵愛し、最大の庇護者となったのは、当時最高の権力者であった、将軍義満でした。

当時、身分としては最下層、賤民の中でも最下層に置かれていた猿楽師の子が、位人臣を極めたる摂関家、将軍家のトップから親しく交際を結ぶなど、到底考えられないことです。

この奇跡的な環境が、後の天才、世阿弥を作り出していくことになるのです。

 

<参考文献>


 

 次回はこちらです。

 

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