皆さん、こんにちは。
奈良にまつわる話題や人物について、ご紹介してきた当ブログですが、今回ご紹介するのは村田珠光という人物です。
村田珠光のこと、ご存じでしょうか。
室町中期に奈良に生まれた人物で、現在我々がイメージする茶道、茶の湯の様式を創始したといわれる人物です。
茶の湯というと、日本を代表する文化の一つですね。
とくに武野紹鴎、千利休らが大成させた、わび茶は「侘び」という、日本独特の美意識を生み出しました。
この「侘び」という美意識を発見し、わび茶を創始したのが、珠光なのです。
村田珠光とは
1423(応永30)年、奈良に生まれた珠光は、11歳で奈良の浄土宗寺院、称名寺に入って僧となり、このとき珠光の名を名乗ります。
しかし、20歳前後で称名寺を追われるように出ると、京に上って茶の湯や連歌に親しむようになったといわれますが、信憑性の高い史料がほとんどないため、正確なことはほとんど判明していない人物です。
伝承では30歳ごろ禅僧となり、大徳寺で一休宗純に師事したとされます。
そして、茶の湯に禅の要素を融合させる「茶禅一味」を体得し、室町将軍家の同朋衆で、書画骨董の目利き、管理を行っていた能阿弥の推薦で、将軍足利義政の茶の指南役を務めたとされました。
近年の研究で、一休に師事していたことや義政の茶の指南役であったということは、信憑性が低いとされていますが、一休が開基した真珠庵の過去帳に珠光の名が見え、一休の13回忌にも一貫文を出すなどしており、大徳寺と深い関係があったのは事実のようです。
後に独蘆(どくろ)軒と、人を食ったような号を名乗ったことからも、一休同様、一癖も二癖もある人物だったことは間違いないでしょう。
1476(応仁元)年に始まった応仁の乱の頃には、奈良に戻り、東大寺近くの北川端町に庵を営んだといわれます。
還俗してかなりの財を成したともいわれますが、生涯僧だったともいわれ、実子がなく、興福寺尊教院の寺男で弟子の宗珠を養子に迎えています。
最晩年は再び京都に戻り、1502(文亀2)年、80歳で世を去りました。
和漢この境を紛らわす
さて、日本でお茶が中国から伝わったのは平安時代初期、遣唐使によって製法や飲み方が伝わりましたが、あまり広まることはありませんでした。
本格的に広まるのは、鎌倉時代、栄西が禅宗とともに茶を日本に持ち帰ると、幕府の庇護を受けたことから、武士の間で茶が広まることになりました。
鎌倉時代末期になると、飲んだ茶の産地を言い当てる闘茶が生まれます。
闘茶は双六同様、金品を賭けて行うゲーム、要するに賭博で、鎌倉末期から室町にかけて広く流行しました。
また、室町時代の初期から応仁の乱が始まるまで、大名の間では盛んに茶会が開かれます。
この頃の大名の茶会で用いられた茶道具といえば、「唐物」と呼ばれる中国からの輸入品でした。
今でも日本人は海外ブランド好きですが、この頃はそれが最も顕著な時代だったかもしれません。
遣唐使廃止以降、中国製の茶道具は民間貿易によって日本に持ち込まれましたが、大変高価で、とても庶民の手に渡るようなモノではありませんでした。
足利将軍家を筆頭に、大名たちが競って高価で珍しい茶器を購入しては、豪華な御殿の茶会で披露し合う、当時の茶の湯は、そんなちょっと浮ついた上流階級のきらびやかな遊びだったのです。
そんな茶の湯に、一石を投じたのが珠光でした。
当時、茶道具といえば「唐物」で国産陶磁器など見向きもされなかった時代に、珠光は信楽焼や備前焼といった国産の焼き物の素朴さや武骨さを再評価したのです。
そして、唐物と和物を調和させ「和漢この境を紛らわす」ことが肝要であると説きました。
国産品は、日常使いの品でしたが、珠光は経年劣化で朽ちていく様や、汚れなどに美を見出だす「侘び」の精神を、新たに発見したのです。
また、唐物についても粗製の安価な陶磁器を好んで使いました。
「珠光青磁」と呼ばれるくすんだ色の中国青磁が有名ですが、こういった安価な唐物と国産陶磁器を組み合わせて用いたのです。
そして、闘茶にみられる、賭博的な要素を全く排除し、四畳半の小さな茶室で、亭主と客の精神的な交流を重視しました。
珠光の国産品再評価や狭い茶室などの趣向は、庶民にも、茶の湯が拡がりつつあった時代背景があったと考えられます。
庶民には広い御殿を持つことも、茶道具を全て高価な唐物で揃えるような真似は、出来ないからです。
その点、珠光が見出だした「侘び」た茶道具、「侘び」た小さな部屋は、庶民でも用意することが出来ました。
珠光が始めたとされる「わび茶」は、それまで限られた特権階級の遊びであった茶の湯を、広く大衆文化となっていく切っ掛けを作った点で、特筆すべき事績であると言えるでしょう。
その後のわび茶
珠光の生み出した茶の湯の趣向は、やはり一般庶民、特に商人に好まれ、武野紹鴎や今井宗久といった、堺の豪商たちにより一層深められます。
お茶というと京都のイメージが強いですが、茶道の草創期に活躍した茶人には、大和出身者も多いですね。
そして最終的に、千利休がわび茶を完成させ、現在では日本のメインカルチャーを代表するものの一つとなっているわけです。
わび茶の隆盛とともに、珠光の評価も高まり、彼が愛用した、元々廉価であった茶道具が、珠光名物として、とてつもない高値で取引されるようになりました。
もともと高価な唐物名物を用いた茶の湯に対して、粗製の安価な道具を用いるのがわび茶の特徴でしたが、江戸時代以降、いわゆる家元の権威が大きくなると、箱書きや伝来などで、もともと安価だったものも「名物」化してしまったり、近代に入って広間で多くの人を集めて催される茶会の広まりで、小間の格式がかえって上がってしまうなど、様々な価値の逆転が起こったのも、興味深いですね。
やはりメインカルチャーになってブランドが上がると、何事も高級化してしまうのも世の常ですね。
何気ない日常の機微を感じて、そこに美を見出すという侘びの精神は、持っているだけで人生を豊かなものにしてくれます。
珠光が残した一番大きな功績は、そういった心持なのかもしれません。