大和徒然草子

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異端の天才、世阿弥はなぜ忘れられたのか(6)

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皆さんこんにちは。

 

能の大成者世阿弥は、その晩年から死後、20世紀初頭まで一般には忘れ去られた存在でした。

現在では史上最も有名な能楽師の一人である世阿弥はなぜ忘れられたのか、彼の人生から追っていくシリーズの今回6回目です。   

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享年81歳で静かに世を去った世阿弥

世間一般からは完全に忘れられた存在となりながらも、彼の能は次代の能楽師たちによって引き継がれていくことになります。

世阿弥没後の能

世阿弥が世を去ったと考えられる1443(嘉吉3)年、その父観阿弥が旗揚げした観世座、太夫の地位にあったのは、甥の元重のちの音阿弥でした。

将軍足利義教の寵愛を受けた音阿弥の前途は順風満帆に見えましたが、1441(嘉吉元)年、最大のパトロンであった義教が、音阿弥の舞台の観劇中に斬殺されるという大事件に見舞われます(嘉吉の乱)。

将軍の後援を失った音阿弥率いる観世座は、たちまち苦境に陥りますが、独自の勧進能を行い、観覧料を値下げするなどの営業努力も重ねて何とか座の維持に努めます。

また、禅竹率いる金春座とともに、幕府へ働きかけて京での他座の興行を妨害するなど、現代的視点で見るといささか「汚い」工作も行って、必死に座の経営を行いました。

世阿弥からは、後継者としてその能力を認められなかったとみられる音阿弥ですが、座の経営者としての能力は、はるかに世阿弥を凌駕していたといえるでしょう。

有力なスポンサーを見つける力、その支援を取り付ける交渉力の高さは、祖父観阿弥を彷彿とさせるものがあります。

必死に座を維持した甲斐もあり、音阿弥は8代将軍義政からその芸を高く評価され、1452(享徳元)年頃から再び表舞台に戻ります。

10年ほどの雌伏の時を経て、50歳を過ぎた音阿弥の芸は冴えわたったようで、義政からは「当道の名人」と称えられました。

晩年、銀閣をはじめとした東山山荘の造営に没頭し、東山文化を文字通り主催した義政の審美眼に留まったその芸は、やはり一級品だったのでしょう。

1458(長禄2)年、60歳で出家し、この時、音阿弥を名乗ることになります。

観阿弥世阿弥とその名の一字目を続けると「観世音」となり、観世宗家の後継者である自負がうかがえる名乗りですね。

 

音阿弥は世阿弥と違い、作品も著作も残しませんでしたが、座を維持するため、公演や各方面への交渉といった、主演の役者、座長としての役割に専念せざるを得なかったのかもしれません。

役者として一流であっただけでなく、その類まれな交渉力と政治力を発揮して再び幕府に接近し、観世座の地位や権威を不動のものとしていく契機を作りました。

しかし観世座も、その後安穏とした道を歩んだわけではなく、音阿弥が1467(応仁元)年に世を去ると、そのわずか三年後に跡を継いだ観世政盛が急逝したうえに、応仁・文明の大乱が発生。大混乱をきたした世情の中で、観世座も安定した興行を打てる状況ではなくなってしまいます。

 

この困難な時代に、若年の五世観世太夫之重を支え、再び観世座を勃興させたのが、音阿弥の第七子、観世小次郎信光です。

信光はもともと太鼓方だったようですが、シテ(主役)、ワキもこなす優れたパフォーマーであり、「船弁慶」「紅葉狩」など現在にも伝わる名作を遺すなど、作能にも抜群の才を発揮しました。

まさに曾祖父観阿弥の再来というべきでしょうか。

その作風はシテとワキが対立する劇的、ショー的要素満載のものが多く、登場人物が10~20人に及ぶ大活劇もあって、およそ現在では能とみなされないような演目も多くありました。

おそらく応仁の乱で地方公演が増え、地方で人気の高い活動的な舞台劇を指向する必要性に迫られたからと考えられ、世阿弥的な能とは全く対照的ものでした。

しかし、初代観阿弥以来の、劇的な現在能の作品系譜からいえば、むしろこちらが当時としては正統派のど真ん中にいたといえるでしょう。

 

一方、世阿弥の芸道の後継者とみなされる、金春禅竹 にも触れておきましょう。

岳父世阿弥の薫陶を受け、関白にして古典学者である一条兼良や、名僧一休宗純らとの交友を通じて、連歌、和歌といった当時の上流階級の教養を身に着け、仏教、神道にも深く通じた禅竹は、世阿弥の目指した夢幻能をさらに先鋭化し、能楽作品にも幽玄性の高いものが多いとされています。

 

しかし、その一方で佐渡に配流された世阿弥に「鬼」の能について相談するなど、決して劇的な能を無視することはできなかったと考えられます。

多数の登場人物が登場する劇的な能「谷行」(作者未詳)について、禅竹の作とする説もありますが、これも全く考えられないことではないでしょう。

芸論として岳父であり、尊敬する師である世阿弥が指向した能を理想としつつも、座を預かる身として大衆が常識的に猿楽一座に求める、当時の一般的な能を、世阿弥のように捨て切ることはできなかったんじゃないでしょうか。

実際に、禅竹の孫、禅鳳は、女色によって通力を失った仙人を描いた「一角仙人」を創作していますが、この能は、後世、歌舞伎十八番の一つ「鳴神」の原型となるほど、劇的要素の強い作品でした。

さらに禅鳳は、舞台で大掛かりなセットを組んだり、外連味あふれるにぎやかな演出で、観客の度肝を抜いたことがその著述や史料で伝えられており、やはり多くの観客に楽しんでもらう、非常にショー的要素の高い舞台を作り上げていたようです。

現在的感覚で言えば、能というより歌舞伎に近いといえるでしょうか。

世阿弥の思想を色濃く受け継いだはずの金春座にしても、やはり当時主流の劇的な能を中心として公演を続けており、世阿弥的な能が前面に出ることはなかったのです。

 

 

世阿弥はなぜ忘れられたのか

さて、現在では能といえば、世阿弥が指向した抒情的で舞や歌を中心とするものをイメージしますが、このブログで繰り返しご紹介してきた通り、世阿弥の生きた室町時代、能は台詞と演技(=真似)を中心とした演劇でした。

シテ、ワキ以外の多くの人物が登場するものも珍しくなく、派手できらびやかな演出、多くの大道具、小道具を使い、涙あり、笑いあり、軽妙な活劇ありといったショー的な要素を多く持っていたのです。

また、足利尊氏の執事であった高師直を扱った「四反八足」、明徳の乱を題材とした「小林」など、同時代に起こった事件を題材とした能も作られていました。

近世で言えば、人形浄瑠璃や歌舞伎における「曽根崎心中」、「仮名手本忠臣蔵」、「東海道四谷怪談」などと同じで、同時代の話題の事件をすぐに演劇化して観客の関心を集めるといった手法も積極的に行っていました。

老いも若きも気楽に楽しめる大衆的な娯楽。それが、延年の風流から発展し、観阿弥が飛躍させた当時の能であり、その流れは大和四座をはじめとした各座によって室町時代を通じて主流であり続けました。

 

一方、世阿弥の指向した能は、当時の主流の能からは対極にありました。

一切の無駄を省き、具体性、写実性を排したその演技は極限まで抽象化され、台詞よりも歌や舞を中心に据えて舞台を進行するその姿は、当時の観客に猿楽能としてはたして受け入れられたのか、はなはだ疑問です。

題材や台詞、歌詞も王朝文学を取り入れた格調高いものでしたが、そこに込められた意味や面白みは、一定以上の教養をもたねば理解できないものであり、大衆娯楽であった当時の能にあって、世阿弥の能は全くの異端であったといえるでしょう。

 

大衆から離れ、最大の庇護者であった足利義満の死後、権力から遠ざけられた世阿弥の存在感は薄れていきます。

観客の理解を得られないその作品の露出度は減っていったことでしょう。

そして、残した伝書、芸能論の多くは、世阿弥の芸道を継いだ金春家や観世家により、長らく門外不出の書として公開されることはなく、一般からも、支配層からも次第にその名は忘れられていったのです。

世阿弥の復活

一般社会から世阿弥の名が急速に忘れられていった一方で、世阿弥が目指したその独自の能楽理論の芽は、実は着実に若き才能たちの中で萌芽しようとしていました。

音阿弥亡き後の観世座を支えた小次郎信光は、多くの活動的な能を残しましたが、一方、「吉野天人」「遊行柳」といった夢幻能も創作しており、これらはすべて世阿弥の理論の範疇にある内容となっています。

一見華やかで世阿弥の好みとは一線を画するような演目であっても、世阿弥以降の能には、世阿弥の提唱した理論、様式を無視することはできないものとなっていました。

劇中、後半は激しい活劇でも、前半は閑寂としてシテの優美な舞歌を見せ場とするなど、世阿弥の幽玄の美を取り入れることで、より深みや芸術性の高い能を創っていったのです。

 

さて、戦国時代末期まで、能は大衆的娯楽としてあり続けましたが、次第に力を蓄えた戦国大名も、猿楽座を支援するようになります。

大和国を根拠とする金春座は、筒井順慶の支援を受け、その後、大和郡山に入った豊臣秀長を通じて秀吉に紹介され、太夫喜勝は天下人秀吉の能の指南役となって、金春座の全盛期を築きます。

一方、観世座は浜松時代の徳川家康に伺候するなど、有力な猿楽座が次々と大名や天下人のお抱えとなっていくにつれ、大衆娯楽であった猿楽能は、庶民からは切り離されていきました。

大坂夏の陣の直後には、その様を描いた「大坂落去」や、当時新進気鋭のスターである出雲阿国、名古屋山三を扱った「歌舞伎」などといった、時事的な題材をなおも取り込んでいた能でしたが、江戸時代に入ると、武家の式楽の地位を確立し、能の固定化が始まります。

戦国末期までのリアルな所作や外連味、派手な動きが影を潜め、格調高く、幽玄の美にあふれる舞台芸術としての能が完成していくのが、近世初頭、安土桃山から江戸時代初期にかけてのことでした。

三代将軍家光の頃には、能役者の身分も固定化し、能の古典化が始まります。

大衆演劇の王座を、当時興隆していた歌舞伎に明け渡し、各猿楽座の能楽師たちは観客の歓心を買うことに心を悩ますことなく、ひたすら自己の内面世界と向き合い、理想とする芸に磨きをかけることになったのです。

 

ここに至って、一躍、能のメインストリームとなったのが、世阿弥が指向した幽玄美であり、その理念、理論でした。

かつて世間に顧みられることもなく、相次ぐ悲運の中、土俗的信仰や大衆芸能の枠から抜け出して、ひたすらに能の芸術性を高め、そのあるべき姿を模索して孤高を生きた世阿弥は、その死後200年の時を経て、古典芸術への道を進んだ能の世界で、復活を果たすのです。

「自然居士」「卒塔婆小町」といった、劇的な現在能までが、世阿弥の理論に基づいて演じられるようになり、能といえば即、世阿弥的な幽玄美をイメージし、日本を代表する舞台芸術として脈々と受け継がれていくことになりました。

 

そして1909(明治42)年、吉田東伍によって、奈良金春家に秘伝の書として相伝されていた「風姿花伝」が学会で発表されて以降、世阿弥の名は広く一般に知られるようになりました。

その名とともに、その著書も多くが現代語訳され、その言葉、思想は、能楽論の枠を超えて、高く評価されていますね。

とくに有名な名言といえば「初心忘るべからず」でしょうか。

「花鏡」に登場するこの言葉、世阿弥は各年代によって挑むにふさわしい芸を規定していて、いかに経験を積もうとも、その年代では初心者なのだから、己の未熟さを忘れてはいけないと説いたものです。

つまり、初心は一生続くものであり、何歳になっても向上心を忘れずに、いつまでも成長を続けていけという意味が、この言葉には込められているのです。

もともとは芸の道を究めるための心づもりを説いているのですが、世阿弥の言葉は、その抽象性ゆえに、時代や芸能論の枠を超えて、人々の心に響くものになっています。

550年以上の時を超えても、広く深く人々の心をとらえる世阿弥は、間違いなく日本史上最高の天才の一人といえるでしょう。

  

それにしても、生前は主流から離れ、人々の記憶からも消えていった世阿弥が、その死後、150年あまりで能の形をほとんど固定してしまい、それが今もなお続いているというのは非常に興味深いことです。

ふと思ったですが、同じ伝統芸能でも狂言や歌舞伎の役者さんは、現代劇にも積極的に出演する方が多いですが、同じ能楽師でもシテ方ワキ方の方は、狂言の方に比べて能以外の舞台や映像作品に出演されることは非常に少ない印象を受けます。

今回、世阿弥のことを調べるうちに思ったのは、やはり演技に対する考え方の違いが大きいのかなとも思ったりしました。

とはいえ最近は表現の幅を広げようと、現代的な視覚効果を演出に盛り込んだ能や、現代劇に出演されたりする機会も増えているようで、いろいろな新しい取り組みも行われているようです。

 

世阿弥一色に染まってしまった現在の能ですが、古典芸能としてその流れを継承、熟成させていく一方で、室町時代の型にはまらない自由な能も一度見てみたい、そんな気持ちに最近なってます。

 

<参考文献>

世阿弥の生涯とその芸論を概観する世阿弥考察の書としては最適の一冊です。