大和徒然草子

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キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(1)

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皆さんこんにちは。

 

今回ご紹介する人物は、日米開戦の火ぶたを切った真珠湾攻撃で、真珠湾攻撃隊の総指揮を執り、「トラトラトラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」のトラ連送の暗号打電を行った、淵田美津雄です。

 

太平洋戦争の戦史について、詳しい人以外、日本ではほとんど知られていない人物かと思います。

 

淵田は海軍将校として真珠湾攻撃からミッドウェイ海戦など、太平洋戦争の主要な戦いをくぐり抜け、原爆投下から戦艦ミズーリでの降伏文書調印にまで立ち会い、戦後は一転してキリスト教に改宗、戦争による憎しみの連鎖を裁ち切ろうと伝道に生涯をささげた人物です。

その非常に数奇な人生を、今回から数回に分けてご紹介していきたいと思います。

 

航空機に魅せられて

 

1902(明治35)年、奈良県北葛城郡磐城村(現葛城市)に淵田は生まれました。

父の彌蔵は、高市郡真菅村(現橿原市)出身の教師で、小学校の教頭を務めていました。

淵田が物心つくかという頃、勃発した日露戦争(1904~1905年)の影響から、幼いころから東郷平八郎に憧れ、海軍大将になることを夢見た淵田少年。

両親からは、医者になることを期待されていましたが、それに反して軍人を志し、軍人になるなら陸軍へという両親の希望にも反して、畝傍中学を卒業後、1921(大正10)年、超難関である海軍兵学校に52期生として入学します。

海軍兵学校の同期では、昭和天皇の弟、高松宮宣仁親王、そして、後に淵田とともに真珠湾攻撃で大きな役割を果たし、戦後航空自衛隊設立にかかわることになる源田実がいました。

 

さて、淵田が海軍兵学校に入学する直前まで、世界は第一次世界大戦戦勝国による熾烈な建艦競争が繰り広げられていましたが、際限のない軍拡は各国の財政をひっ迫させていました。

そんな折、淵田が入学した同年11月から、各国は軍拡競争に歯止めをかけようと、ワシントンで軍縮会議が開かれ、翌1922(大正11)年2月に、ワシントン海軍軍縮条約が締結されます。

淵田が海軍兵学校で過ごした時期は、日本海軍にとってはいささか肩身の狭い、軍縮の時代で、冬期休暇で帰省するとき、軍服姿で颯爽とした姿を郷里の級友らに見せてやろうと意気込んでいたのが、軍縮風でとてもそのようなことができる雰囲気ではなかったと、淵田は後に述懐しています。

 

海軍兵学校に入学してから3年目の1923(大正12)年、そんな淵田に運命の出会いが訪れました。

海軍兵学校のある広島県江田島に、当時まだまだ珍しかったF5飛行艇が飛来したのです。

 

淵田ら兵学校生徒は、飛行艇の離着水作業を見学。性能説明などを受け、最後に、将来飛行将校を目指すものに限り、飛行艇への同乗を許可すると話がありました。

淵田は真っ先に挙手して同乗を希望します。

実はこのとき、淵田に飛行将校を目指す意思なく、飛行機に特に興味があるという訳でもありませんでした。

もともと引っ込み思案な性格だった淵田は、そんな自分の性格を積極的な方向に変えたいと考え、兵学校に入ってからは、たとえ答えがわからなくても教官の質問には真っ先に手を挙げるようにしており、この時もいつもと同様に真っ先に挙手した、というだけだったのです。

このような経緯で、生まれて初めて飛行機に搭乗することになった淵田ですが、この一回のフライトで、空を飛ぶ爽快感にすっかり心を奪われ、パイロットを強く志望するようになります。

 

1924(大正13)年、海軍兵学校を卒業した淵田でしたが、最初の数年は海軍将校として軍艦での勤務となりました。

1925(大正14)年の12月、海軍少尉となった淵田は、翌1926(大正15)年の初秋、定期考課表の進達時期にあたり、身上申告に「飛行学生熱望」と記入して提出しました。

実のところ、淵田は父、彌蔵から「飛行機乗りと潜水艦乗りだけはやめてくれ」と、釘を刺されていました。

当時、飛行機や潜水艦の事故が相次いでおり、そのようなニュースに触れた彌蔵にすれば、事故の少ない軍艦勤務で海軍の主流を歩んでほしいと考えたのも無理のないことでした。

翌1926(昭和2)年7月、子宮癌で死期が迫った母、シカを大阪の病院に見舞った時、「飛行機乗りになりたいようだが、お父さんを心配させないように」と言葉をかけられましたが、淵田の決意は揺らぐことなく、同年12月、25歳で中尉に任官。念願の飛行学生に採用され、霞ヶ浦海軍航空隊(現茨城県稲敷郡阿見町)に転属し、パイロットとしての道を進むことになるのです。

 

盟友との出会い

1928(昭和4)年11月、霞ヶ浦航空隊偵察科を卒業した淵田は、空母「加賀」の偵察分隊士を皮切りに、飛行将校としてのキャリアを積んでいきます。

1931(昭和6)年には、奈良県明日香村の地主の次女、北岡春子と結婚。2年後の1933(昭和8)年には長男善彌が誕生します。

1936(昭和11)年、少佐に任官した淵田は海軍幹部への登竜門である、海軍大学校甲種学生に合格。

毎年数百名が受験して、合格者は30名ほどという超難関を突破した淵田は、いよいよ海軍の中枢幹部への道を歩むことになりました。

淵田が公私ともに充実した日々を送っていたこの頃の世界情勢は、戦艦を中心とした主力艦の制限を定めたワシントン海軍軍縮条約(1922年)以来の軍縮の時代が揺らぎだした頃でした。

1930(昭和5)年、補助艦の制限を主眼に開催されたロンドン海軍軍縮会議で、日本は再び対米英比で劣勢の条件を突き付けられます。

フランスやイタリアが潜水艦の保有制限に反発して部分的参加にとどまったのに対し、条約交渉に臨んだ浜口内閣は、他の列強との協調と軍縮による財政支出の削減に積極的だったこともあり、ロンドン海軍軍縮条約に批准しました。

この軍縮条約締結によって海軍の予算は大幅に削減され、海軍の一部に強い反発が生まれるとともに、当時野党であった立憲政友会犬養毅らは、条約締結を「統帥権の干犯」であると与党民政党攻撃の口実としました。

後に犬養は、五・一五事件ロンドン海軍軍縮条約に不満を抱いた海軍将校に暗殺され、議会は統帥権を盾とする軍部の独走を抑えられなくなっていきます。

ロンドン海軍軍縮条約批准から4年後、1934(昭和9)年、対英米との海軍力劣勢に耐えかねた日本は、条約の破棄を通告。

条約は2年後の1936年に破棄されることになり、1922年から続いた軍縮の時代は終焉を迎えました。

淵田が海軍大学校に入学した年は、再び無制限建艦競争の時代に突入した、まさにその年だったのです。

 

軍縮の終焉とともに、海軍は大和、武蔵の超弩級戦艦の建造を中心とした第三次海軍軍備補充計画、いわゆる③計画を立案し、英米の海軍と対峙しようとしました。

海軍大学校に入校して、この計画を知った淵田は、日本海海戦以来の旧態依然とした艦隊決戦を想定したこの計画に大きく落胆します。

これからは航空機の時代だと考えていた淵田は、大和などの大型戦艦の建造は即刻中止し、空母をもっと多く建造すべきと考えていたのです。

淵田と考えを同じくする飛行将校たちとともに、淵田は「航空研究会」を立ち上げ、作戦・用兵・技術の研究を進め、空母建造計画を進める啓蒙活動を始めました。

この研究会で、淵田は兵学校同期の源田実と再会し、海軍時代を通じて盟友関係となります。

源田は早くから航空主兵論を唱え、後に日中戦争で航空参謀として頭角を現し、真珠湾攻撃では具体的な空襲作戦を立案した人物です。

戦後は自衛隊の初代航空総隊指令、第3代航空幕僚長を歴任して、ブルーインパルスを創設。航空自衛隊の発展に大きく寄与し、自民党参議院議員を4期務めるなど、戦中戦後を通じて、公の舞台で活躍しました。

ちなみに当ブログでご紹介した矢田坐久志玉比古神社の神門に掲げられた「航空祖神」の扁額は、源田の揮毫によるものです。 

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研究会は海軍全体に呼びかけを行い、飛行将校以外にも幅広く参加を呼び掛けて行われましたが、公然と大艦巨砲主義への批判を行ったことが海軍上層部に睨まれ、「私的研究会」との理由で、海軍当局から解散を命じられてしまいます。

しかし、この研究会を通じて親しくなった源田との縁が、後に淵田を真珠湾攻撃へと向かわせることになるのです。

運命の日に向けて

 

1938(昭和13)年、海軍大学校を卒業した淵田は、空母龍驤の飛行隊長に着任して、前年に開戦していた日中戦争で、広東攻略作戦に参加します。

猛者ぞろいだったという龍驤飛行隊員を相手に、本人曰く「酒を飲みすぎた」ため、胃潰瘍を患った淵田は、その後佐世保鎮守府参謀に転任しますが、翌1939(昭和14)年には空母赤城の飛行隊長に転任しました。

 

さて、現在では空母ならびに航空兵力は、攻撃の主力という認識が常識化していますが、当時の空母や航空戦力は、あくまで補助的な戦力という位置づけでした。

そのため、当時空母は各艦隊に1隻配置し、偵察が主な任務で、航空攻撃も潜水艦との連携で 進行してくる敵艦を漸減する程度の期待しかされておらず、主力兵器とはみなされていませんでした。

しかし淵田は、航空機は多数を集中運用することで、戦艦をはるかに凌駕する主戦力になると考えていました。

淵田が転任した赤城が所属する第一航空戦隊の司令官、小沢治三郎少将は元来水雷が専門でしたが、淵田と同様、航空機は多数を集合させ、集中攻撃を行うことで艦隊決戦の主力たりうることを見抜いており、淵田にとっては非常に頼もしい上司といえました。

しかし先述の通り、当時の空母は各艦隊に分散しています。

分散した各空母の航空機を、洋上で集合させるのは至難の業で、実際に現場で指揮を執る淵田にとっても、もっとも困難な作業でした。

ここで淵田は閃きます。

そもそも空母を分散配置しているから洋上での集合が困難なわけだから、最初から空母を集合させて艦隊を組めば、洋上集合の問題は解決するではないかと。

空母の分散配置は、空母が敵艦からの攻撃に対して脆弱なことから、敵から目立たないようにするためのものでしたが、空母群を集団運用した方が直掩機も多数配備できるので、防御力も増すではないか。

淵田はこの考えを、小沢に建言しました。

その内容は第一航空戦隊の赤城、加賀、第二航空戦隊の蒼龍、飛龍の4隻の空母で一つの航空艦隊を編成し、空母4隻の集中運用による航空兵力の集団攻撃を実現させるというものです。

この淵田の建言に小沢も同意し、1940(昭和15)年に小沢第一航空戦隊指令から海軍大臣宛に、航空艦隊編成に関する意見が具申され、ここに空母集中運用への道が拓かれたのです。

 

この年、出口が見えず泥沼化した日中戦争と、日独伊三国同盟の締結により、日本はイギリス、アメリカとの関係が急速に悪化していました。

英米戦が現実味を帯びる中、「その日」は刻一刻と近づいていたのです。

  

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。

次回はこちら。

 

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