大和徒然草子

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キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(6)

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皆さんこんにちは。

 

真珠湾攻撃の現場総指揮官、淵田美津雄を紹介している当記事も、今回6回目です。

1942(昭和17)年6月、日本はミッドウェー海戦で主力空母4隻と多数の航空機を失って大敗します。

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第一航空艦隊旗艦、赤城の飛行隊長であった淵田は、戦いの直前に盲腸を患い緊急手術したため、赤城の艦上で出撃することなく戦いの当日を迎えました。

アメリカの爆撃を受け、大火災を起こした赤城から、両足骨折の大けがを負ったものの生還した淵田でしたが、前線からは離れることになります。

い号作戦・消耗する日本

内地に帰還した淵田は横須賀病院に入院しました。

10月に退院すると、横須賀航空隊教官、次いで海軍大学校教官へと転任します。

しかし、生徒たちは前線に出払っていて、教官としての仕事はほとんどなかったため、戦訓調査会幹事に任命され、戦闘の記録調査と研究に取り組むことになります。

翌1943(昭和18)年4月、淵田は戦訓の現地調査を行うため、当時ガダルカナル島をめぐって激しい戦闘が繰り返されていた、パプアニューギニア、ニューブリテン島、ラバウル航空基地に向かいます。

まだ怪我が治りきっていない淵田は、松葉杖を抱きながら前線将兵から聞き取りを行いましたが、中々本当のことを聞けなかったといいます。

戦訓調査だといっても勤務評定にでも来たと思われたようで、事実の収集が非常に困難であったようです。

淵田がラバウルで戦訓調査に奮闘していた時、現地はガダルカナル島撤退後、ニューギニア島南東部の連合国側の基地空襲を企図したい号作戦が行われている真っ最中でした。

このい号作戦で戦闘機同士の激しい航空戦となりましたが、日本は大きな戦果を挙げることができないまま、その航空戦力を徐々に削がれていきます。

この消耗戦で、日本は184機の航空機の内、3割の64機の航空機を失いました。

しかし、連合国側にそれほどの損害を与えることをできないまま終了しています。

日本側は、この航空戦に空母から転任してきた経験豊かなパイロットが多数参加していましたが、熟練パイロットの多くがこの消耗戦で命を失い、航空戦力の決定的な弱体化が進むことになります。

そして、この戦いの直後、現地で戦闘指揮にあたっていた山本五十六連合艦隊長官が、前線視察の途上、アメリカ軍の待ち伏せに遭って戦死するという衝撃的な事件が発生しました。

 

外征部隊の全軍指揮官が前線で戦死するという、山本長官戦死の報に接した淵田は、敗戦が必至であることを直感し、戦訓調査への意欲を大きく削がれたとのちに述べています。

 

捷一号作戦・連合艦隊の壊滅

1944(昭和19)年4月末、淵田は連合艦隊航空主席参謀に着任します。

同年6月、日本はあ号作戦を発動。マリアナ諸島に攻め寄せるアメリカ機動艦隊を迎撃したマリアナ沖海戦で、日本は空母3隻に、搭載航空機のほとんどを失う大敗北を喫し、空母部隊の戦力を喪失します。

この敗北で、日本は西太平洋の制海権、制空権を喪失、サイパン島も陥落して、あ号作戦は終了しました。

絶対国防圏を突破された日本は、来るべきアメリカのフィリピン、台湾、そして日本本土への来襲を迎え撃つべく、捷号作戦の立案にとりかかり、淵田も航空参謀として参加します。

 

ミッドウェー海戦以来、過酷な消耗戦にはいっていた日本は、 多くのパイロットを失っており、当時8隻の空母が運用可能でありながら、搭載する艦載機もパイロットもいないという有様でした。

このような状況下で、フィリピンに上陸するアメリカ軍を迎撃すべく立案されたのが捷一号作戦です。

艦載機を持たない空母艦隊で、アメリカの空母艦隊を釣りだして、そのすきに主力の戦艦部隊をレイテ湾に突入させ、アメリカの上陸部隊17万を乗せた輸送船団を撃滅しようというものでした。

攻撃能力を喪失した空母を囮に使うという着想は、淵田によるものです。

淵田は既に敗戦は必至と考えていました。ただ、無条件降伏ではなく、少しでも日本に有利な条件で講和を結びたい、そのためにアメリカに大出血を強いることが、この作戦の大きな目的と考えていました。

アメリカ軍の大上陸部隊を全滅させ、その大損害をもってアメリカを厭戦ムードに包み、講和の道を開かせようというものです。

その後の硫黄島沖縄戦と続く、破滅的な作戦と共通する考えを、既にこのとき、連合艦隊参謀である淵田が持っていることは興味深いことです。

なんとか一撃、大打撃をアメリカに与えることで、少しでも有利な講和を結びたい。

原爆を2度投下された後でも、本土決戦、一億玉砕を主張した陸軍と同じ発想です。

この発想から捷一号作戦では、もう一つ太平洋戦争を語るうえで、落とせない作戦が実行されています。

神風特別攻撃隊による特攻作戦です。

 

結局、捷一号作戦は、小沢治三郎中将率いる囮部隊が、ハルゼーの機動艦隊を釣りだすことには成功したものの、栗田健男中将率いる大和、武蔵を中核とした第一遊撃部隊は、航空支援のないままアメリカの航空隊の猛攻撃を受け、武蔵が撃沈。

それでも、レイテ湾突入目前まで進撃しましたが、作戦目標の不徹底もあったのか、結局アメリカの上陸部隊を目前にしながら、突如転進して作戦目標であった、アメリカ上陸部隊の撃滅は失敗しました。

レイテ沖海戦と呼ばれるこの一連の戦いで、日本は囮となった空母4隻、武蔵を含む戦艦3隻、巡洋艦10隻、駆逐艦11隻を失い、連合艦隊は壊滅します。

 

さて、このレイテ沖海戦で初めて組織的に実行された特攻作戦は、24機が出撃し、空母1隻撃沈、5隻に損害を与える戦果をあげました。

当時通常戦闘で損耗する航空機の数と比して、非常に「少ない」損耗といえます。

この効率性に、「一撃講和」を望む日本は、戦慄すべきことに、すがってしまうのです。

すでに熟練のパイロットの多くを失い、航空機も少ない中、「一撃講和」を望み続けた日本は、戦慄すべき特攻作戦を以後も多用し続けることになります。

 

しかし、このなりふり構わぬ日本の特攻作戦は、その戦果を増すごとに、アメリカの日本に対する嫌悪と憎悪、そして不信感を増す効果しかなかったようです。

「このような生還を期さない作戦を建てるような相手を、同じ人間とは思えない」そのように思ったアメリカ兵も多かったことでしょうし、その被害の大きさを警戒し、アメリカの日本軍に対する攻撃も、その破壊性が徹底的なものとなっていきます。

特攻は、その非人道性はもちろんのこと、「一撃講和」という戦略目標に対して全く無益でした。

「家を失えば戦意を喪失するだろう」と考えたアメリカが、日本の民家を狙って繰り返した戦略爆撃東京大空襲等)も、最終的に日本降伏の決定打とはならなかったように、非道な攻撃で相手の心を折ることはできないというのは、太平洋戦争から得られた大きな教訓かと思います。

 

原爆の惨禍を目にして

1945(昭和20)年8月5日、淵田は第二総軍司令部への出張で広島にいました。

3日間会議に出席し、5日の昼に会議が終わって、淵田は広島市細工町の宿舎に帰ります。

当日は広島市内でもう一泊する予定でした。

しかし、東京の海軍総隊司令部から連絡が入り、今晩の内に大和海軍航空基地(現奈良県天理市)に向かってくれと連絡を受けます。

無線施設の工事で助言が欲しいとのことで、ゆっくりともう一泊するつもりでいた淵田は、不承不承ながらも、自動車で岩国基地へ向かい、指示通りその日の晩には大和基地に到着しました。

翌8月6日午前8時15分、広島市細工町上空580メートルで、原子爆弾がさく裂。広島は壊滅します。

 

淵田が原爆投下の一報を受けたのは、8月6日の午前11時頃、工事関係者との打ち合わせが終わり、少し早めの昼食を食べていた時でした。

広島に新型爆弾が投下され全市が壊滅した。中央から調査隊が派遣されるから、淵田参謀も岩国に引き返してこれと合流せよ、との命を受けます。

この知らせに仰天しながらも、淵田はその日のうちに岩国へ戻り、翌日調査隊と合流して原爆投下翌日の広島へ入りました。

調査の目的は、新型爆弾の正体を調査すること、原子爆弾であるか否かを調査することにありました。

放射線への理解が進んでいなかったこともあり、調査隊への参加者でも後に二次被爆の被害に遭うものが多かったのですが、満足な装備もなく市内に入った淵田は、原爆症を後に発症することはありませんでした。

筆舌に尽くしがたい惨状を目の当たりにしながら、爆心地からの2キロ半四方を淵田らは駆け回りました。

爆心地は細工町。投下の当日、淵田が宿泊する予定だった細工町の宿舎は、影も形もなくなっていました。

その日、8時15分といえば、おそらく朝食をとっている時間帯。そう思って淵田は身が震えたといいます。

これを単なる偶然、幸運と淵田は思うことができず、この経験が後に淵田の中では神の恩寵として受け止められ、キリスト教への深い信仰のきっかけとなります。

 

8月7日から広島に調査に入って3日目の8月9日、長崎に2発目の原子爆弾が投下されます。

この報に淵田は広島での調査を切り上げて、長崎へ調査へ向かうよう命じられます。

即日岩国基地から空路で大村基地へ向かい、翌日は長崎で1日中調査を進めました。

淵田は長崎に入った時の心境を後にこう述べています。

この戦争はもう勝てないと、ひとしく思った。けれども、このような世紀の惨劇も、国民の心を粉砕することはできなかったのである。多くの人々は『参った』とは言わなかった。日本は亡びつつある。この日本と運命をともにすると言ってみんな死んでいった。たしかに原子爆弾は戦争を終結させた。しかし平和を勝ち取ったのではない。恨みは永く、憎しみは残る

調査の最中、何が起きたかもわからず命を失った人々や、アメリカへの復讐を口にしながら命を落としていく人々を、淵田は数多く目の当たりにしました。

戦後、この恨み、憎しみをどのように解決していけばよいのか、その答えを探す道筋を淵田は信仰に求めることになります。

 

長崎の調査を終えた淵田は、8月11日に大村基地に戻り、そのまま空路、大分基地に向かいました。

当時の大分基地には、第五航空艦隊司令部が置かれており、第五航空艦隊参謀長の横井俊之少将は淵田の兵学校時代の教官にあたる旧知の仲です。

横井と面会した淵田は、8月9日に日ソ不可侵条約を破棄して参戦してきたソ連への対応について話し合っていました。

「火事場泥棒的」とソ連の参戦に怒りを持っていた淵田は、横井から、対ソ宣戦の後、ウラジオストクへの空爆作戦を打診され、これに迷わず同意します。

すぐに淵田は、日吉台の総隊司令部(現横浜市港北区慶應義塾大学日吉キャンパス内)に電話をかけ、参謀長の野志加三少将へ、ウラジオストク空襲作戦の立案許可を願い出ました。

しかし、電話口に出た矢野は、積極攻勢は中止して、すぐに総隊司令部に戻るよう、淵田に指示します。

即日空路、厚木に戻り、11日の夜、総隊司令部に戻った淵田。

淵田は総隊司令部幕僚室で、日本の降伏が決まったことを知らされました。

 

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。