歴史好きの大和徒然草子

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キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(8)

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皆さんこんにちは。

 

日米開戦の火蓋を切った真珠湾攻撃

その空中攻撃隊総隊長、淵田美津雄をご紹介して今回8回目です。 

www.yamatotsurezure.com

敗戦とともに公職追放となって、故郷奈良に帰った淵田。

恩給も止められ経済的には困窮しつつも、家族とともに耕作や自宅の建設と穏やかな日々を過ごします。

しかし、1946(昭和21)年5月から始まる極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判に淵田も否応なく巻き込まれることになります。

 

東京裁判

東京裁判が始まると、淵田も証人として、何度も東京丸の内の郵船ビルにあった占領軍法務部に召喚され、取り調べを受けることになります。

淵田自身、この裁判を「勝者による復讐」とみており、特にA級戦犯が問われた「平和に対する罪」は事後法すなわち、法が施行される以前の、過去の出来事には遡及して適用されることはないという、近代法の基本原則に反したもので、受け入れがたい思いでいたようです。

要するに開戦当時、戦端を開くことが国際法上違法とされていたわけではなく、後からそれを罪だと問うて罰するのは、合点がいかないという訳ですね。この点、私も非常に同感です。

自伝の中でもインド代表判事だったラダ・ビノード・パルの言葉を引用して、この点は厳しく批判しています。

 

パル判事は、A級戦犯について全員無罪の意見書を提出した人物として知られます。

靖国神社でも顕彰されたりしているためか、まるで日本人戦犯のすべてを無罪としたかのように誤解されていることも多いようですね。

パル判事は、近代法の原則に反するような「平和に対する罪」での訴追には、法学者としての良心と矜持から、裁判全体を通じて流れる空気に同調せず、敢然と正論を叩きつけた人物です。

また、国家の意思による非戦闘員の生命財産に対する無差別破壊として、ドイツのホロコーストに比するものはアメリカの原爆投下であると主張するなど、戦勝国で構成された判事たちの中にあって、戦勝国にすら忖度抜きの姿勢で臨みます。

一方、日本軍の残虐行為についても公正かつ厳格な姿勢で臨んでおり、「南京事件」については、誇張のある証拠には疑義を示しつつも、残虐行為そのものの存在は否定しがたいとしており、「バターン死の行進」をはじめとした、日本軍による捕虜虐待や住民殺害については、「鬼畜行為」と厳しく断罪しました。

根底に欧米列強に対する反植民地主義思想が強い人物であったという指摘もありますが、法学者として極めて常識的で、真摯に是々非々の姿勢で東京裁判に臨んだ人物といえるでしょう。

とはいえ、パルのような人物は例外中の例外で、連合国側の戦争犯罪について、東京裁判で取り上げられることはありませんでした。

 

淵田は真珠湾攻撃の空中攻撃隊総隊長として取り調べを受けることになります。

従来の戦犯法廷では、受命者はその命令実行の責を負わないことが常識でしたが、東京裁判では「不法な命令実行者は免訴されない」という方針が打ち立てられていました。

また、当初検察側は真珠湾攻撃を「だまし討ち」として、宣戦布告前の攻撃であるから、これに関わったものを「殺人罪」として扱うべきと主張していました。

これらのことから、淵田自身、攻撃隊を指揮した自分は、真珠湾攻撃で死亡した米兵3000人に対する殺人罪の筆頭に上がるだろうと思いました。

これでは首がいくつあっても足りない、せっかく戦争で生き残ったのにやはりだめかと首をすくめていたといいます。

 

結局、淵田が訴追されることはありませんでしたが、淵田は弁護側証人として市ヶ谷の法廷に出廷することになります。

真珠湾攻撃が、開戦の何年も前から綿密に計画されたものである、という検察側の主張へ反証することが淵田の役割でした。

真珠湾攻撃を指揮した隊長が出廷するとあって、法廷には多くの傍聴人が詰めかけました。

淵田は真珠湾作戦の準備に大きくかかわっていたことから、訓練や装備の準備を作戦決行の数か月前から開始していたことを詳細に証言します。

攻撃用の800キロ徹甲爆弾は、戦艦用の主砲砲弾を改造して間に合わせたことや、魚雷などの整備も単冠湾への集合ぎりぎりまでかかるなど、とても数年前から計画的に立案遂行されたものではないことを、事細かに立証しました。

 

丸の内裁判

1948(昭和23)年4月、東京裁判が結審しましたが、10月にA級戦犯容疑で拘留されていた者のうち、戦争犯罪を立証できそうな人物を対象として、GHQによる裁判が丸の内で開廷します。

淵田は戦犯として訴追された、豊田副武海軍大将の弁護側証人として出廷します。

豊田が沖縄戦アメリカの病院船2隻が、日本軍の特攻で沈められた事案で人道上の罪を問われていました。

特攻機搭乗員の遺体から攻撃命令を記したメモが発見され、その中に撃沈された病院船の名があったことから、病院船を攻撃目標としたとして、当時の連合艦隊司令長官であり、攻撃命令の責任者であった豊田に人道上の罪の嫌疑がかけられたのです。

当時豊田のもとで航空主務参謀を務めていた淵田は、沖縄での航空戦の作戦起案を担当しており、検事たちの「病院船を攻撃目標にした」という主張に真っ向から反論しました。

命令書には、まず第一に攻撃目標の敵勢力の全容を記載するので、病院船が含まれているのはそのためであること。また、病院船を記載したのは攻撃目標としたのではなく、逆に攻撃対象としないよう、警告として記載したものであると証言します。

それに対し、検察側が、ではなぜ撃沈したのかと質問すると、淵田は南方作戦で日本の病院船がアメリカの潜水艦に撃沈された例を挙げ、同様に「誤認したもの」と答えました。

続いて、検察側から、日本海軍ではパイロットに戦時国際法規について教育していたのかと問われます。

淵田が充分に行っていたと回答したのに対し、検察はそれを実証する例などがあるのかと質問を畳みかけました。

その問いに、淵田は真珠湾攻撃の際、病院船が停泊していたのを確認しており、その船が一切攻撃を受けていないはずであるから、それが実例といえないかと、答えました。

淵田の証言の効果もあってか、豊田は無罪を勝ち取ることになります。

 

マーガレット・コヴェル

東京裁判に大きな反感を覚えた淵田は、なにか「しっぺ返し」をする手はないかと、考えていました。

そんな時、アメリカから日本兵捕虜が帰還したという話が淵田の耳に入ります。

この一報を受けた淵田は、捕虜たちから収容所でどのような扱いを受けたか、聞き取りを始めました。

連合国側にも捕虜虐待があったのではないかと考え、それらを綴って「しっぺ返し」の材料としようとしたのです。

 

聞き取りを開始すると、直接的な暴力はあまりなかったものの、情報提供を拒むと、食事が徐々に減らされたり、全裸にされてさらし者にされるなど、多くの精神的虐待が行われていたという証言を得ることができました。

虐待の内容が、近年イラクイスラム国の捕虜に対する米軍の虐待事案と類似している印象を受けますが、こういった暗部も伝統として受け継がれているんでしょうか。

 

さて、アメリカ軍による捕虜虐待の証言を集める中、すっかりアメリカへの復讐心が消えて還ってきたという元捕虜の話を、淵田は聞くことになります。

彼らはユタ州の捕虜病院に収容されていた人々で、戦闘で手足を失った重傷者たちでした。

終戦の半年前頃、彼らの病院に20歳前後のアメリカ人女性が一人、ソーシャルワーカーとしてやってきました。

マーガレット・コヴェルという名で、やってきたその日から、連日手足が不自由な日本人捕虜に献身的に奉仕を続けたといいます。

あまりに親切な看護に、次第に捕虜たちも心打たれ、ある日、捕虜の一人がどうしてここまで日本人に親切にしてくれるのか、と尋ねました。

しばらく曖昧な返答を繰り返していましたが、日本兵の熱心な問いかけに、マーガレットが答えた内容は衝撃的なものでした。

「私の両親があなたがたの日本の軍隊によって殺されたからです」

 

マーガレットの両親は、戦前の日本に派遣されたバプテスト系の宣教師でした。

横浜、神戸などで布教活動をしていましたが、日米関係が険悪化すると、引揚勧告を受けて夫妻ともどもフィリピンに移動します。

日米開戦後、間もなくフィリピンは日本に占領されますが、戦況が日本優位の間は比較的夫妻の活動にも日本軍は寛大な態度で臨んだようです。

しかし、戦況が悪化して、1945年1月にルソン島アメリカ軍が上陸し、マニラ平原で大敗した日本軍は、組織的な抵抗力を失って、ルソン島北部の山中に敗退します。

このような状況下で、夫妻の家に日本兵たちがやってきました。

前面のアメリカ軍だけでなく、後方をかく乱するゲリラたちにも悩まされていた日本兵は、夫妻にスパイの嫌疑をかけたのです。

夫妻がたまたま持っていた小型のラジオ受信機を、通信機と見た日本兵たちは、その場で夫妻の首を軍刀で刎ね、処刑してしまいます。

 

両親の死は、ユタ州で留守を守る娘のマーガレットに伝えられました。

スパイ容疑で理不尽に両親を殺されたマーガレットは、両親を失った悲しみと、日本人への怒りで、堪え難い苦しみに包まれます。

しかし、彼女の心の救いとなったのは、両親の死に関する報告書に記された、処刑を目撃した現地住民の証言でした。

夫妻は両手を縛られ、目隠しをされて、日本兵の振りかざす軍刀の下に引き据えられた時、その死の間際まで、二人は心を合わせて熱心に祈り続けていたというのです。

マーガレットは両親の、最期の祈りの意味を深く考えました。

すると彼女の胸の内に、二人の娘として自分の在り方は、憎いと思う日本人たちに憎しみを返すのではない。憎いと思う日本人たちにこそ、両親の志を継いで、イエスの教えを伝えることだという思いが、沸き起こったというのです。

すぐにでも日本に行きたい気持ちでしたが、まだ戦争が終わっておらず、その思いは遂げられませんでしたが、近所に傷病を患った捕虜を収容した病院があると聞き、迷わず働くことにして、捕虜たちが日本に送還される日まで、6か月の間、献身的な奉仕を続けたのです。

 

この話に、淵田は深い感銘を受けます。

そして「やはり憎しみに終止符を打たねばならぬ」と、意趣返しじみた捕虜虐待の聞き取りを、即刻やめることにしました。

この話を聞いた淵田は、帰途、何度もよい話だと思い返していましたが、この時点で、夫妻の最期の祈りとは、どのようなものであったのか、いろいろと推察してみましたがどうしてもわかりませんでした。

しかし、捕虜から聞いたマーガレット・コヴェルの話は、淵田がキリスト教に関心を寄せる大きなきっかけとなったのです。

 

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。

 

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