大和徒然草子

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キリスト教伝道者となった真珠湾攻撃総隊長、淵田美津雄(7)

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皆さんこんにちは。

 

真珠湾攻撃総隊長として、日米開戦の火蓋を切り、戦後キリスト教伝道者となった淵田美津雄をご紹介して今回7回目になります。

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1945(昭和20)年8月5日、連合艦隊航空主席参謀であった淵田は、出張で広島を訪れ、当日一泊する予定だったところを、急用で奈良に向かうことになり、翌日広島を襲った原子爆弾の惨禍を免れることになります。

広島、長崎と相次いで投下された原爆の調査を終えて、日吉台の海軍総隊司令部に戻った11日の夜、淵田は上官から日本がポツダム宣言を受諾して降伏することに決したことを聞かされました。

無条件降伏

日本の無条件降伏を知らされて間もなく、淵田は海軍総隊司令部に陸軍との連絡役として赴任していた、陸軍の航空参謀から降伏に反対してクーデターの決行を持ち掛けられました。

陸軍大臣であった阿南惟幾大将を首班とする軍事内郭を打ち立てる計画があるので、海軍も同調してほしいと迫られたのです。

ミッドウェー以降、苦しい消耗戦を強いられた対米航空戦で、陸軍航空隊の働きに覆いを不満を抱いていた淵田は、「何をいまさら徹底抗戦か」という思いもあり、「お断りします」と決然と拒否しました。

淵田にクーデターを持ち掛けた陸軍参謀は、この腰抜け目といわんばかりに淵田をにらみつけて出ていったきり戻ってきませんでした。

実際にポツダム宣言の受諾前後で、降伏をよしとしない陸、海軍の将校たちによる反乱計画がいくつも持ち上がり、淵田もそれに巻き込まれようとしていたのです。

 

8月15日正午、海軍総隊司令部の裏庭に、小沢治三郎隊司令以下、幕僚一同と淵田を含めた職員全員が集まり、昭和天皇の肉声による玉音放送を粛々と聞きました。

既に総隊司令部のメンバーは降伏受諾の知らせであることを承知していましたが、淵田は皇軍将校として自分たちの働きが悪かったために、昭和天皇にこのような悲痛な放送をさせてしまったことが、恐懼に堪えない心情であったと述懐しています。

そして、玉音放送の一節「以て万世の為に太平を開かんと欲す」に心打たれ、目頭がうるみました。

「承詔必勤(天皇の詔を承って謹んで実行すること)」を信条とした帝国軍人を25年間続けた習性として、天皇の思いに従い、万世のために太平を開くことが、これからの自分の使命である。淵田はその時、そう決意したといいます。

 

8月19日、連合国軍の日本占領の諸条件や日本軍の武装解除を調整するため、全体を白色に塗装したうえ、機体側面と両翼に緑の十字をマーキングした一式陸上攻撃機が停戦交渉使節団を乗せてマニラに派遣されます。

この停戦連絡機の準備は大本営から海軍総隊で進めるよう指示されたため、航空参謀であった淵田が処理しました。

アメリカとの停戦交渉が無事まとまって、8月22日に交渉使節団が帰還すると、淵田は交渉の経過を確認するため、海軍から使節に参加した寺井中佐と面会します。

寺井から交渉の経過報告を受ける中で、交渉使節団がマニラをジープで移動している最中、マニラ市民から罵声を浴びたと聞いたとき、淵田はその罵倒の言葉にどきりとしました。

バカヤロ、ザマミロ

淵田はその言葉を4年前、真珠湾上空で聞いていました。

日本軍の水平爆撃によって、戦艦アリゾナが大爆発を起こして爆沈したとき、淵田が乗る総指揮官機の操縦桿を握っていた松崎大尉が発した言葉もまた、「バカヤロ、ザマミロ」だったのです。

「成程、バカヤロ、ザマミロの憎悪こそが人類相克の悲劇を生んだ」「人類からこの憎悪を取り去るのでなければ、万世の為に太平を開くことは出来ない」と、淵田は考えるようになります。

 

さて、寺井中佐の報告で、淵田の頭を悩ませたのが、連合国最高司令官であるダグラス・マッカーサーが8月30日、厚木基地に到着することになったということでした。

厚木基地では徹底抗戦を叫んで降伏を拒否する造反分子の騒乱が8月15日から発生しており、この時点でもまだ収まっていなかったのです。

厚木基地の航空隊指令、小園安名大佐が主導したこの騒乱の鎮圧に、淵田も参加し、最終的に小園はマラリアによる心神喪失ということで病院に強制入院させるなど、あの手この手を使って最終的に8月25日に鎮圧しました。

 

8月30日、厚木基地マッカーサーが降り立ちます。

淵田は出迎える日本側将校の中に交じり、コーンパイプをくわえながらバターン号のタラップを降りるマッカーサーの姿を、苦々しい思いで敬礼しつつ見つめていました。

そして9月2日を迎えます。

 

降伏文書調印式

日本人の多くが、太平洋戦争は8月15日に終わったと考えますが、世界的には太平洋戦争の終結は9月2日と記憶されています。

1945(昭和20)年9月2日、東京湾に停泊する戦艦ミズーリの艦上で、日本は降伏文書に調印して、太平洋戦争は終結しました(北方領土ではソ連の侵攻は2日以降も続き、歯舞諸島が占領されるのは9月3日から5日にかけてのことになります)。

 

淵田は日本側の下準備を担当していた関係もあり、アメリカ兵たちに交じってこの調印式を見守っていました。

日本側代表の重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が降伏文書に署名した後、マッカーサーが連合国を代表して署名します。

このとき、マッカーサーは1942年以来日本の捕虜となっていた連合国側の将軍を伴っていました。

フィリピン、コレヒドール要塞失陥時の司令官、ウェインライトシンガポール陥落時の司令官パーシバルです。

マッカーサーは署名を終えると、使ったペンを二人に与えました。

この様に、淵田は複雑な心情を抱きます。

開戦時のフィリピン司令官はマッカーサーだ。しかし、コレヒドール要塞の失陥直前に、要塞と将兵を部下のウェインライトに預けて、自身は妻子と腹心の部下を連れて高速艇でオーストラリアに逃げたのではないか。

「晴れがましい調印式場で、曾ての身代わりをつとめた、可愛そうなウェインライト中将に、ペンを与えて、その苦労をねぎらっている」

淵田の目には「哀れな騎士道」と映りましたが、そんな彼らに敗北したことを受け入れられない思いに包まれました。

 

マッカーサーに続き、アメリカ合衆国を代表して、太平洋艦隊司令長官、チェスター・ニミッツ元帥が署名します。

ニミッツはこのとき、淵田ら日本海軍航空隊を太平洋上で撃破した、アメリカ機動艦隊司令であるウィリアム・F・ハルゼー大将を随伴していました。

その後、中国、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランドの順に署名が続きます。

戦勝に得意げな各国代表の表情を見た淵田に、「われわれの負けたのはお前たちではない」という思いが強く沸き起こりました。

太平洋戦争を失ったのはひとえに、目の前でニミッツに従う、ハルゼー率いる機動艦隊に歯が立たなかったからだと淵田は悔しさにこぶしを握り締めました。

戦争に参加した当事者として、感情的に敗戦の事実を全て受け止めることが出来なかったのだと思われます。

 

帰郷

 

敗戦により、海軍の高級将校であった淵田は公職追放となります。

戦後、淵田のような高級将校は「軍閥の走狗」といった批判を受け、一般国民の多くから怨嗟の的となりました。

大衆の手のひらを反すような態度に、淵田は大きな絶望を抱きながら、故郷、奈良県に帰ってきます。

1945(昭和20)年に入り、神奈川県逗子の自宅にいた家族は、空襲を避けるため、奈良県田原本の親族宅に疎開していましたが、12月になると淵田も加わり、一家で間借りの生活が始まります。

翌1946(昭和21)年には畝傍町(現奈良県橿原市)に三反(900坪)の農地を買い、電車で農作業に出かけるようになりますが、狭い農地では思うように収入を得ることができないでいました。

職もなく、軍人恩給も停止されたため、経済的に困窮していた淵田は、用事で出かけた大阪日本橋で食品加工店を経営する海軍の後輩とばったり再会します。

その後輩から、「(養鶏をして)卵ができれば、うちの店でおきましょう」と、養鶏を勧められた淵田は、農地に鶏舎を建てることにしました。

とはいえ、鶏舎を建てるにも経済的余裕がなかったため、木材は妻の実家が持っている高取の山林から採らせてもらい、自分の手で建てようと決めました。

毎週日曜、早朝から、家族総出で10キロ先の高取まで、荷車を引いて木の切り出しに出発し、木材を畝傍の農地に運び入れました。

木材が運び終わると、これまた家族総出で鶏舎の建設に取り掛かり、ついに完成させました。

今まで爆撃など物を壊すことばかりしていた半生で、小さいながらも建物を建てたことに、大きな充実感を淵田は感じました。

鶏舎に続いて、自宅や子供たちの勉強部屋、風呂、農作業の納屋など、家族で次々と増築していくことになります。

この家族が一丸となっての自宅建設という経験は、長男の善彌が後に建築を志すきっかけともなりました。

現在、淵田一家が暮らしたこの家の跡には、善彌が設計した畝傍南小学校の体育館が建ち、その一角に「淵田邸跡」と刻まれた石碑があります。

 

敗戦で軍人として歩んだ半生を否定され、奈良に帰った直後は一時酒におぼれるなど荒れた時期もあった淵田ですが、この時期がもっとも家族と濃密な時間を過ごした時期になったといえるでしょう。

淵田が失職して奈良に戻った頃、善彌は旧制中学の受験を控えていましたが、成績が芳しくなく、父の出身校である名門畝傍中学(現畝傍高校)への受験はあきらめるよう、担任に言われていました。

それを聞いた淵田は、「俺が教えてやる」と、付ききりで長男の受験指導を行います。

受験までの3か月間、何かと理由をつけて小学校を休ませると、全教科の教科書を持ってこさせたうえで、「お前は3月までここを動くな」と命じ、こたつ部屋で寝食を共にしながら、受験勉強をともにします。

指導方法は実に理詰めで、わからなくなったところを見つけ出し、それを一つ一つ解決させていくというもので、一度わかるようになると勉強も進み、最後には中学1年の学習まですすんで、「よし、もうお前は大丈夫だ」と、太鼓判を押して、ました。

淵田の指導の甲斐もあり、善彌氏は畝傍中学に合格します。

戦前は帝大に入るより難関といわれた海軍兵学校に合格した淵田です。やはり本人も相当勉強ができたんでしょう。

また、理詰めで自信をつけさせる指導は、海軍時代に部下への指導を通じて身に付けたものでしょう。

とかく軍隊式教育といえば、精神論が前面に出るイメージですが、目的に向けて合理的に作戦を建てて実行する様は、優れた将校としての資質の一端が見えると思います。

しかし、いくら時間があるといっても、なかなかここまで子どもの勉強に付き合うのは大変なことで、淵田の子どもに対する愛情の深さが感じられます。

 

淵田は、経済的困窮と元軍人として世間の冷ややかな視線を浴びながらも、家族と温かい時間を過ごし、自宅建設や農作業を通じて、穏やかな時を過ごしていました。

しかし、1946(昭和21)年5月、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判が始まり、高級将校であった淵田も、否応なく巻き込まれていくことになるのです。

 

 参考文献


淵田さん自身が最晩年に書かれた自伝です。太平洋戦争を海軍の中枢から見つめた氏ならではの新事実も含め、読みごたえのある一冊です。

 次回はこちら。

 

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