歴史好きの大和徒然草子

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柳生(石舟斎)宗厳(3)世を渡り切った石の舟。

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皆さんこんにちは。

松永久秀の配下として、信長上洛など激動する大和の情勢を巧みに生き抜いた柳生宗厳の姿を前回ご紹介しました。

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今回は信長上洛後も、なお揺れ動く大和で、どのように宗厳は動いたかを見ていきたいと思います。

 

 

辰市城の戦い

 

1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて織田信長が上洛します。

松永久秀はそれまで三好三人衆と連携する筒井順慶を相手に、大和で苦戦を強いられていましたが、信長の協力を得ることで状況を逆転。順慶を東山中に駆逐し、大和の支配を進めます。

1559(永禄2)年以来、一貫して久秀に従ってきた柳生氏も、久秀とともに苦境を乗り切ったといえるでしょう。

 

一方、1年余り東山中の福住で反撃の機会をうかがっていた順慶ですが、1570(元亀元)年、当主の死で筒井派と松永派に分かれて内訌が生じていた十市城を攻め落とすなど、ようやく反撃ののろしを上げます。

1571(元亀2)年には、久秀との対立が表面化してきた将軍、足利義昭が順慶に接近し、順慶はその養女を妻に迎えることで、久秀の大和支配に大きなくさびが撃ち込まれることになりました。

息を吹き返した順慶は、久秀の大和支配の拠点である多聞城攻略を目指し、奈良の南側の辰市村に橋頭保として、辰市城を築城します。

目障りなこの小城を叩き潰そうと、築城から数日後の8月4日、久秀は信貴山城を出陣。

主筋の三好義継の援軍を得て進軍し、多聞山城を出立した息子の松永久通と大安寺で合流します。

この軍勢の中に、松永方の部将として柳生宗厳厳勝親子の姿もありました。

久秀は大軍でいっきに辰市城を攻め落とそうと攻撃を開始し、ここに戦国時代、大和最大の激戦となる「辰市城の戦い」が始まります。

当初、松永方優勢で進んだ戦いでしたが、大和各地から筒井方の後詰が来援して戦局は筒井方に傾き、松永方は多くの将兵を失って潰走。大敗を喫します。

この乱戦の中、柳生父子も奮戦しますが、厳勝が銃弾を受けて重傷を負うなど、宗厳にとっても手痛い敗戦となりました。

宗厳の長男、厳勝はこの戦での傷により身体に障害が残ったため、以後柳生庄に引きこもらざるをえなくなり、歴史の表舞台から姿を消すことになります。

宗厳にとっても、期待していた長子が戦でその将来を奪われたことは、大きなショックがあったでしょう。

 

久秀の反乱と柳生氏の没落

 

1571(元亀2)年、辰市城の戦いのあと、順慶は信長への帰属を許され、久秀とも和睦します。

この頃、柳生氏では、長年当主を務めた柳生家厳が隠居し、ようやく宗厳が家督を継ぎました。

すでに45歳となっており、当時としては遅めの家督相続といえるでしょう。

 

さて、宗厳は辰市城の戦いの後も、久秀への臣従を続けていました。

10月に久秀が山城南部に出兵した際には、宗厳は久通の命を受けて伊賀衆への調略や、本願寺との交渉にあたるなど、松永方の将として行動しています。

 

1572(元亀3)年に主君である久秀は反信長の兵を挙げますが、翌年には降伏。

この信長への反抗をきっかけに久秀は大和の支配権を失いました。

このとき、宗厳の動向は明らかではありませんが、1573(元亀4/天正元)年ころから柳生庄に逼塞して、剣術の研鑽に没頭しはじめ、戦国武将としての活躍を積極的に行わなくなっていたようです。

理由は不明ですが、期待していた嫡男厳勝の件が尾を引き、槍働きへの熱意を奪ってしまったのかもしれません。

とはいえ、畿内と伊勢方面を結ぶ街道筋に領地をもつことから、1574(天正2)年ごろには本願寺から、当時信長に攻撃を受けていた伊勢長島の一揆勢への連絡を依頼されたり、緩やかながら松永配下として本願寺に通じるなどの形跡も見られるようです。

 

1577(天正5)年に、筒井順慶の大和守護就任への反発もあって久秀は再び反信長の兵を挙げます。

この時、ついに宗厳は久秀のもとを離れたようで、久秀は信長の降伏勧告も拒絶し、最期は信貴山城の天守に火をかけて自害しました。

 

久秀の敗死後、宗厳は信長の大和支配で中心人物となった筒井順慶の配下に加わることはなかったようです。

しかし、この時点で完全な独立勢力となることは不可能です。

信長に臣従するとなれば、大和に拠点を置く以上、順慶の与力になる以外、選択肢はないように思われますが、宗厳は意外な人物に接近します。

1579(天正7)年ごろ、宗厳は元関白の近衛前久に接近し、これに臣従するのです。

前久は摂関家出身で公家のスーパーエリートでしたが、戦国大名と誼を通じて、積極的に政治活動を行い、花押も武家様式を使うなど、異色の人物として知られます。

宗厳が接近したころは、信長の要請で多くの外交交渉を成功に導くだけでなく、趣味の鷹狩りでも意気投合するなど、信長と公私にわたって親交を深めている時期でもありました。

とくに、1580(天正8)年には石山合戦が打ち続く中、本願寺側と和平交渉を行い、顕如本願寺退去に成功し、10年にわたった戦いを終結に導き、信長の前久への信頼は盤石のものとなります。

 

1577年以降、大和では順慶が反筒井勢力の粛清に乗り出しますが、1559年以降一貫して松永方で、大和国人の中では仇敵ともいえる柳生氏は、この粛清を免れます。

信長の信任が厚い有力な公家であった前久の配下に入ったことで、順慶も簡単には宗厳に手を出せなかったのでしょう。

このとき、筒井氏配下となっていたら、もしかしたら宗厳は誅殺、ないしは謀殺されていたかもしれません。

ここでも宗厳のしたたかな生き残りの戦略が伺えますね。

 

1585(天正13)年、本能寺の変で横死した信長に替わり、天下統一を目指す羽柴秀吉により、畿内の大幅な国替えが行われます。

大和には筒井氏に替わって、秀吉の弟の羽柴秀長が入り、宗厳もその統治下にはいることになりました。

しかし、ここで国人領主、宗厳の人生は大きく暗転します。

いわゆる太閤検地で「隠し田」を摘発され、宗厳は父祖の領地をすべて没収されてしまうのです。

 

柳生石舟斎の誕生

領地を失った柳生氏はたちまち困窮しますが、羽柴秀次から近江国愛知郡に100石の知行で召し抱えられたようで、なんとか糊口をしのいだようです。

1593(文禄2)年、67歳となった宗厳は髪を下ろして「石舟斎」と号します。

この号は、宗厳が詠んだ以下の歌からとったといわれます。

 

兵法の 勝ちを取りても 世の海を

渡りかねたる 石の舟かな

 

剣の腕を磨き極めても、うまく世の中を渡っていけない自らを、いささか諧謔気味に詠っていますね。

生活が困窮を極める中、1594(文禄3)年、黒田長政の仲介で京の郊外において、豊臣政権内随一の大名であった徳川家康に、その剣技を披露する機会を得ます。

この場で「無刀取り」を披露し、その妙技に感服した家康は、その場で宗厳に入門する誓紙を出し、俸禄200石を給して、さらに自分の側に仕えるよう求めます。

しかし宗厳は高齢を理由に出仕は断り、同行していた5男宗矩を推挙しました。

 

この頃、宗厳は毛利輝元にも兵法を教授しています。

新陰流の兵法を通じて徳川、毛利という大大名から支援を得られるようになったものの、相変わらず生活は苦しかったようで、1595(文禄4)年に旅先から妻にあてた書状では、茶道具を売って自らの葬式代にあてるよう書き送っているほどです。

 

1600(慶長5)年7月、上杉討伐の途上で石田三成挙兵を知った家康は、宗矩を柳生庄へ帰し、宗厳ととも大和の国衆を動員して石田方をけん制するよう命じます。

宗厳と宗矩は協力してこの工作を成功させ、宗矩は家康の元に戻った後、関ヶ原の戦いでは家康の本陣で参戦。家康の勝利により、宗矩は戦前の大和での工作を含めた功績が評価されて、太閤検地の結果没収された柳生の本領2000石を取り戻すことができたのでした。

実に15年ぶりの旧領への復帰でした。

 

そして1606(慶長11)年、宗厳は柳生庄で波乱の生涯を終えます。享年80。

宗厳の死後、宗矩は秀忠、家光と歴代将軍の指南役を務めたほか、大目付となって幕政にも参加するなど出世を重ね、ついに1万2千石の大名となります。

宗矩以降も柳生氏は、大和柳生の地に明治維新まで大名として存続し、南北朝以来の大和国人として、父祖の地の領地を維持し続けた唯一の大名となったのです。

 

さて、3回にわたって柳生宗厳の人生を、国人領主としての側面を中心に見てきました。

戦国に生きる小領主として、大国のはざまで生き残りを図る姿は、剣豪、求道者としてのイメージとは、違った宗厳の一面を見せてくれます。

 

「隠し田」を摘発されていったん没落したものの、新陰流兵法という一芸を活かして食いつなぎ、息子や孫も自ら伝えた剣技で身を立てさせ、結果として5男宗矩は徳川家に仕官がかなって旧領を取り戻すあたり、人間のたくましさを大変感じます。

 

戦国を生き抜く小勢力のしたたかさ、たくましさの典型を宗厳に見ることをできるのではないでしょうか。

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