織田家家臣となった順慶のその後を今日は紹介していきます。
大和守護
1574年に織田信長に母親を人質に差し出して臣従した筒井順慶。
この年の3月、松永久秀の居城だった多聞山城は信長に接収され、このとき東大寺で有名な信長による「蘭奢待」切り取りが行われました。
翌1575年2月、順慶は信長の縁者(娘か妹といわれる)を妻に迎えます。
信長は大和支配にあたって、興福寺衆徒である筒井氏を内に取り込むことで、旧来勢力である興福寺をいたずらに刺激しないよう気を配ったのでしょう。
これが3度目の結婚。
例によって以前妻としていたはずの足利義昭の養女がどうなったかは記録に残っていません。
このあたり、戦国を生きる中小勢力の目まぐるしくドライな婚姻事情が伺えますね。
同年3月に信長は家臣の原田直政を「大和守護」とし、順慶はその与力に組み入れられます。
そして1575年5月には長篠の合戦に鉄砲隊を50名派遣し、同年8月には越前一向一揆との合戦に原田直政率いる大和国衆に兵を出し参戦します。
順慶自身が戦場に行ったのかどうかはわかりませんが(多分行ってない)、信長に臣従したことで、これまでにない遠国までの出征が行われています。
なれない遠国での合戦はいろいろと大変なことも多かったのではないでしょうか。
激戦となった天王寺の戦いに参戦します。
この戦いでの本願寺方の指揮官は、高度な鉄砲用兵で名高い鈴木重秀(通称「雑賀孫一」)です。
この戦いの緒戦で順慶が属した大和国衆を率いる原田直政の軍は、本願寺勢に包囲殲滅され、直政自身が討ち死にするなど大損害を出して潰走します。
直政率いる軍中に身を置いていたと思われる順慶も命に係わる危機に直面したのではないでしょうか。
このときの順慶の動向はよくわかりませんが、明智光秀らがこもる天王寺砦に引き上げて、その後も合戦に参加し続けたと個人的には考えます。
※尻尾を巻いて大和に逃げ帰っていたのではその後出世もしようがないので・・・。
この天王寺の戦いは、信長が送った援軍の活躍もあり、最終的に信長の勝利に終わりますが、大和守護であった原田直政の戦死で、順慶は大きな転機を迎えます。
直政の戦死で空位となった大和守護を誰にするかが懸案となったのです。
信長が選んだのは順慶でした。
同年5月、順慶は信長から大和一国の支配を任され、明智光秀の与力に組み入れられました。
辰市合戦直後に信長へ取り次いでもらって以来、このあとは織田家中にあって順慶は光秀と行動を共にします。
この決定に一番の衝撃を受けたのは松永久秀でしょう。
1559年の大和侵攻以来、常に大和の覇権を争ってきた順慶に守護の座を奪われ、久秀の大和支配に向けた事業は完全にとん挫することになったのです。
また同5月には人質となっていた順慶の母親が大和に帰っており、信長も順慶の働きと、大和支配における利用価値の高さを改めて認めたものと思います。
冷酷で人を信じない信長の性格を考えると、破格の待遇ではないでしょうか。
信貴山城の戦い
翌1577年2月、信長は石山合戦で苦戦を強いられる中、本願寺の強力な支援勢力である紀州雑賀の攻略を決めます。
この紀州攻めに順慶も参加しました。
圧倒的な兵力で和歌山に攻め寄せた織田勢でしたが、雑賀衆の巧みなゲリラ戦に戦線は膠着。
結局3月は和議を結んで引き上げとなりました。
同年6月、信長は順慶に多聞山城の破却を命じ、順慶は久秀の大和支配の象徴でもあった多聞山城を破却します。
これがきっかけになったのかどうかは定かではありませんが、同年8月、松永久秀は石山本願寺攻めの持ち場を勝手に離れ、信貴山城に立てこもって再び信長に反逆するのです。
佐久間信盛配下として大きな武勲も立てられず、大和守護を順慶にとられた久秀にとっては、大逆転を狙った反乱だったでしょう。
当時、石山合戦は膠着状態でしたが、第一次木津川口の合戦で毛利水軍が織田水軍を打ち破って、大阪湾の制海権を握り、北陸では上杉謙信が上洛の構えを見せた時期でした。
本願寺と毛利、上杉と連携すれば、全く分のない蜂起とも言えないと久秀も考えたのかもしれません。
信長は久秀の反乱をまたも許そうとしますが、久秀はこれを拒否したため、9月には討伐軍を大和に送ります。
この討伐軍の先鋒は、大和を本国とする順慶です。
順慶はいよいよ宿敵松永久秀との最後の決戦に臨むことになりました。
同年10月、順慶は光秀と、順慶同様光秀の与力となっていた細川幽斎らとともに、信貴山城の支城、片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)を攻撃、激戦の末これを陥落させます。
そのころ、北陸では手取川の戦いで柴田勝家が上杉謙信にさんざんに打ち破られていましたが、謙信の進軍はここでストップ。
ここで信長は謙信の上洛はないと判断したのでしょう。
新たな大軍を久秀討伐に大和へ派遣し、久秀はいよいよ窮地に追い込まれます。
同10月、信貴山城への総攻撃が始まると久秀も必死に抵抗し、寄せ手の織田方にも大きな被害が出ますが、10月10日ついに落城しました。
一説には順慶の元家臣で当時久秀に仕えていた森好久が内応して落城させたともいわれています。
合戦のさなか、本願寺からの援軍として森好久連れてきた兵が、実は筒井の鉄砲隊であり、10月10日の総攻撃に際して城内で呼応したというものです。
落城に際して四層の天守閣も炎上。
久秀、久通父子は城を枕に自害して果てました。
久秀は享年68。動乱の中、戦国史上稀にみる浮き沈みの激しい生涯を送ったと思います。
一説には自害の際、信長が所望していた茶釜「古天明平蜘蛛」に爆薬を詰め、それを抱いて爆死したという説も巷間広まりましたが、現在の通説では否定されてるようです。
しかし久秀の人生はそのくらい劇的な最期に説得力を持たせるほど、激しい人生であったといえるでしょう。
順慶と久秀の戦いはここにようやく終結しました。
1559年に始まった久秀の大和侵攻以来、18年にも及ぶ抗争に終止符が打たれたのでした。
最後に松永久秀にまつわる書籍をご鍾愛して今回は終わりにしたいと思います。
ともに従来の「梟雄」像にとらわれることなく、松永久秀の実像に切り込んだ本となっています。
謎に包まれながらも大きなスケールで戦国の畿内を駆け抜けた久秀の生涯は魅力がいっぱいです。
この機会に是非一読してみてください。
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