歴史好きの大和徒然草子

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天覧試合。そして伝統の一戦は生まれた。いかに阪神は関西屈指の人気球団となったのか?阪神タイガースの歴史を読み直す(6)

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皆さんこんにちは。

前回は阪神と南海の人気の移り変わりについてご紹介しました。

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今回は阪神の人気上昇のターニングポイントとなった、1959(昭和34)年6月25日、後楽園球場で開催された「天覧試合」について、詳細にご紹介したいと思います。

 

対戦カードは読売戦ありき

プロ野球は2リーグ分裂による人気の低迷期を乗り越え、特にセリーグは1950年代の後半から人気を大きく回復していました。

1958(昭和33)年には東京六大学のスター選手だった長嶋茂雄が読売に入団すると、その人気がますます過熱します。

この当時、皇居から水道橋方向を眺めると、後楽園球場のナイター照明による灯りが見え、この灯りに昭和天皇が興味を持たれたようです。

その意をくみ取った宮内庁からプロ野球コミッショナーに天覧試合の打診があり、昭和天皇プロ野球観覧が具体的に動き出します。

 

まず最初に候補に挙がったのは5月10日、後楽園球場での読売、阪神戦で、3月には決まっていたといいます。

5月10日の後楽園では昼夜2カードが組まれており、当初、デーゲームで国鉄、大洋戦、ナイターで読売、阪神戦が組まれていました。

これをコミッショナー宮内庁の調整で、まずナイターであった読売、阪神戦をデーゲームとしたうえで、国鉄、大洋戦を後楽園球場から他の地方球場での開催に移すという、カードの入れ替えを行い実施しようとしました。

このカード入れ替えは警備上の観点から、天覧試合をデーゲームとしたい宮内庁、警視庁側の思惑があったといいます。

警備上デーゲームが適当であるなら、そもそも国鉄、大洋戦でいいではないかと思われるのですが、読売、阪神戦を天覧試合とするため、他のカードを追い出したのです。

しかしながら、この5月10日案は、昭和天皇が強くナイターの観戦を希望したことから結局お流れとなります。

そのため関係者が再検討し、次に上がった案は5月29日、後楽園での読売、中日戦でした。

次案では読売の対戦相手は阪神ではありませんでした。

しかしこの案も、5月半ばから昭和天皇が風邪で体調を崩してしまったため実現しませんでした。

次の候補となったのが6月13日もしくは14日、後楽園での読売、大洋戦です。

またもや、読売の対戦相手に阪神は選ばれていません。

やはり、天覧試合の優先度は、まずは読売戦のナイター。これを第一として、その対戦相手は特にどこでもよい。そう考えられていたというべきでしょう。

天覧試合は読売、阪神戦である必要はない。阪神ファンにはいささかガッカリかもしれませんが、それも当時の状況を考えれば致し方なかったかもしれません。

 

これまでの記事でも述べてきましたが、阪神は2リーグ分裂後、大きく戦力を落として10年以上も優勝から遠ざかっているチームでした。

 

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そのうえ、2リーグ分裂以前は互角以上の戦いを読売との直接対決で展開していた阪神でしたが、2リーグ分裂後は直接対決で大きく水をあけられています。

1958年にはミスタータイガース藤村富美男が引退してチームを去るなど、スター選手の退団もあって、この年1959年阪神の観客動員は前年を30万人以上下回る526,290人と、人気も大幅に低下していた時期でもありました。

そう考えれば、戦前からの注目カードではあったものの、読売、阪神戦の「価値」は、当時かなり下落していたと考えてよいと思います。

 

しかし3番目の案であった6月の読売、大洋戦も結局見送られることになります。

ちょうど同年6月6日にインドネシア大統領のスカルノの来日が決まったのが原因でした。

外交日程との兼ね合いで、第3のカードも見送られる結果となりました。

ちなみに、このときスカルノに見初められた日本人女性が根本七保子デヴィ・スカルノことデヴィ夫人です。

 

この大洋戦に代わる案として浮上したのが6月25日の読売、阪神戦でした。

そして、この日のカードについては天候やトラブル、その他見送りになる事情が発生しなかったため、予定どおり天覧試合として行われることとなったのです。

ここまでではっきりわかるのは、天覧試合が読売、阪神戦となったのは多分に偶然の要素が重なったということです。

昭和天皇が風邪をひかなければ、天覧試合は読売、中日戦であったでしょうし、スカルノ大統領の来日が前後すれば、読売、大洋戦であったのです。

 まあ、そうはいっても、最初にチョイスされ、4回目の案でも選択されていることを考えれば、対阪神戦が別のカードよりいくばくかは注目をされるカードであったといえなくはないでしょう。

しかし、あくまで重要視されたのは読売戦。

阪神ファンとしてはいささか悔しくもありますが、阪神は読売の「添え物」でしかなかったなかったのです。

 

劇的な結末と新たなる因縁

 

かくして1959(昭和34)年6月25日、後楽園球場で読売ジャイアンツ大阪タイガース阪神)の11回戦が天覧試合として開催されました。

当日は鳴り物での応援は禁止され、いつもの喧騒とは違う静かな球場で、19:00にプレーボールを迎えます。

阪神の先発はその正確なコントロールから「精密機械」と称された、のちの300勝投手小山正明

読売の先発は藤田元司と、両チームエースを立てての一戦でした。

先制したのは阪神で、3回表に先発投手小山のタイムリーで先制。

その後、5回裏に長嶋、坂崎一彦の連続本塁打で読売が2-1と逆転すると、すかさず阪神も6回表に三宅秀史の同店タイムリーに藤本勝巳の逆転ツーランでリードを奪います。

しかし7回裏、小山はこの年ルーキーで後に世界のホームラン王となる王貞治に痛恨の同点ツーランを喫し、4-4と再度読売が追いつきます。

ここで阪神は投手を小山からこの年新人であった、のちの2代目ミスタータイガース村山実にスイッチしました。

両チーム一歩も譲らぬ接戦は9回裏まで進みます。

この日の昭和天皇の観戦は21:15までとあらかじめ予定されていました。

9回時点で21:00を過ぎていたため、このまま延長に突入した場合は、昭和天皇は試合途中で退席となる予定でした。

しかし、21:12という、昭和天皇退席まであとわずかという時間に、若きエース候補であった村山は、先頭打者の長嶋に、レフトポール際にサヨナラ本塁打を放たれるという、阪神ファンには悲劇的な結末を迎えることになるのです。

 

ゲームとしては序盤から僅差の中ともに譲らぬシーソーゲームで、最後はサヨナラ本塁打と、天覧試合としてはこれ以上はないようなプロ野球のだいご味が詰まった試合になったといえるでしょう。

しかし、この一戦は阪神と読売の間、いや、主に阪神の側に遺恨を生み出す結果になったといえるでしょう。

とくに、サヨナラホームランを打たれた村山は、この後、読売と長嶋に対して格別の敵愾心をあらわにします。

巨大戦力を有する読売に、一人敢然と立ち向かう村山は、しばしば味方の援護が得られず玉砕する。いつも必死に読売に食い下がる村山の姿に共感を持つファンも増えてきます。

私の母などもその口で、もともと「闘魂込めて」を諳んじるほどの読売ファンだったのが、異様に読売相手に敵意むき出しの投球で立ち向かい、最後は打線の援護が得られず力尽きる。そんな村山を見ているうちに、「勝たせてやりたい」「何とかしてやりたい」そんな思いがつのり、いつしか阪神ファンになっていたといいます。

打倒読売に燃え、立ち向かうが最後は挫折の宿命にあるというヒロイズムの象徴というべきでしょうか。

そのような姿を村山、阪神に投影する原点が、この天覧試合であったといえるでしょう。

 

そして伝統の一戦は生まれた

 

戦前、阪神と読売は毎年のように優勝を争うチームでした。

しかし、そのころの阪神にとって読売はあのチームだけには負けられないというチームというわけではありませんでした。

プロ野球草創期に、阪神にとって絶対に負けられない相手は、親会社のライバルであった阪急でした。

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戦後間もないダイナマイト打線による人気も、藤村や別当といったスター選手の人気に裏打ちされたものでした。そこには反読売といった要素の思いはなかったといえます。

 

1950年の2リーグ分裂後、阪神は大きく戦力を落とし、読売とはもはや互角に渡り合える力を失っています。

それにより、阪神、読売戦のカードの価値は非常に低くなっていたと考えられます。

1950年代前半は読売の対抗馬としては日本シリーズで対戦する南海、西鉄がむしろライバル視されていました。

同一リーグでいえばこの時代なら中日こそが読売のライバルとしてふさわしかったといえるでしょう。

1954(昭和29)年、読売を下してリーグ制覇を果たし、日本一の栄冠もつかんだ中日は、翌1955(昭和30)年には125万人の観客を集め、読売の112万人を上回る観客動員を誇ります。この年の阪神の観客数は59万人と中日の半数にも満たない数で惨憺たるものです。

 

読売は2リーグ分裂後に常勝チームとなり、1958年には長嶋、翌1959年には王が入団。1960年代には巨大戦力を有して名実ともに球界の盟主の地位を不動のものとしていきました。

そんな中、村山が王と同じ1959年に阪神に入団し、天覧試合での屈辱をばねチーム内で台頭し、戦力的に大きな差を持つ読売に挑んでいく。

そこに戦前の阪神にはなかった、巨大な存在に対する反骨や反抗という姿が投影されることになったといえるでしょう。

ここに現在に至る阪神、読売戦の姿、両チームのファン、特に阪神ファンが読売戦、伝統の一戦で抱く、ぬぐいがたい怨念めいたアンチ巨人意識が形成されていったのではないでしょうか。

阪神ファンは読売への怨念めいた敵意を村山に仮託して熱狂し、読売ファンはそんな阪神を疎ましく思う。

それを当時隆盛しつつあったスポーツ紙をはじめとした、メディアがたきつけ一層盛り上がる。

このうねりが「伝統の一戦」を生み出したといえるでしょう。

 

さて、時代は移り、今はもう令和の時代。

今上天皇陛下は、野球が大変お好きとのこと。

すでに昭和天皇の天覧試合から60年もの時が過ぎ、プロ野球の天覧試合はその後行われていません。

ぜひともまた、天覧試合が行われればと、一プロ野球ファンとして思っています。

実際は警備の都合でなかなか難しいかなとは思いますが・・・。

参考文献

阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。 

 

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