皆さんこんにちは。
前回は、関西で阪神と人気を二分した南海とその本拠地大阪球場をご紹介しました。
今回はナイター設備の設置が遅れた本拠地甲子園を擁する阪神と、全盛期を迎え、大阪で人気を博した南海のその後を引き続き見ていきたいと思います。
歓喜の御堂筋パレード
大阪球場に遅れること5年。
1956(昭和31)年、ようやく甲子園球場に念願のナイター設備が設置されます。
甲子園球場のナイター開きは5月12日、土曜日の読売戦。
この日、甲子園球場には満員の観客が押し寄せました。
さらに8月上旬の読売三連戦では、3日間で20万人という空前の観客動員を記録しています。
1試合当たり7万人弱ということになります。
現在では消防法上これだけの観客を詰め込むことは不可能ですから、不滅の記録といえるでしょう。
この年の観客動員におけるナイター効果は絶大で、主催試合で1試合平均13,729人を記録します。
前年甲子園の平均入場者数は6千人あまりで、甲子園に限ると実に2.3倍の観客増となりました。
ちなみに前年大阪球場での平均入場者数は1万人余りで、そこからも1.3倍と、マンモススタンドの強みがいかんなく発揮されたといえるでしょう。
ナイター設備はまさに目論見通りの効果を阪神にもたらしました。
この年を含め、1958(昭和33)年までの3年間、甲子園への平均入場者数は1万人を超え全体の観客数でも南海を逆転することになります。
甲子園ナイター元年のこの年は、初代ミスタータイガース藤村富美男が兼任監督を務め、8月には一時2位読売に5ゲーム差をつける(最終的には首位読売に4.5ゲーム差の2位)などチームが好調であったことも観客動員を増やした要因かと思います。
ちなみにこの年のシーズンオフ、シーズン中からくすぶっていた藤村と若手を中心とした主力選手たちの不協和音が顕在化し、一部の選手たちが「藤村監督退陣要求書」を野田オーナーに提出する、いわゆる「藤村排斥事件」が起こります。
この事件はマスコミでセンセーショナルに報じられ、のちに阪神「名物」となる「お家騒動」の嚆矢となるものでした。
紆余曲折はあったものの翌1957(昭和32)年、監督専業となった藤村のもと最終盤まで読売とデッドヒートと繰り広げ、最終的に首位と1ゲーム差の2位につけ、おおむね好成績を上げます。
翌年1958年、藤村は再び選手に復帰、監督は田中義雄に代わりました。
成績は読売に5.5ゲーム差の2位。
この頃の阪神というと、守備の名手吉田義男と三宅秀史が若手で、鉄壁の三遊間をまさに構成しはじめ、精密機械と呼ばれたのちの300勝投手小山正明が主力投手だったころです。
吉田は1985(昭和60)年、阪神を日本一に導いた監督で、関西では朝日放送の解説者としておなじみの人物ですね。
三宅は2004(平成16)年金本知憲が更新するまで、連続フルイニング出場の記録を保持していた選手としてご存じの方も多いかもしれません。
守備の名手として名高いですが、1958年からは5年連続二桁本塁打を記録するなど、打率は高くありませんでしたが時折見せる強打も多くのファンを引き付け、星野仙一、月亭八方が阪神ファンとなるきっかけをつくり、岡田彰布は三宅に憧れて背番号16をつけることになります。
この3年の間、一方の南海はというと、3年続けて西鉄に優勝を奪われての2位。
それまで主力であった飯田、木塚らの力が衰え始め、ちょうど若手との交代時期にあったといえます。
1956年は、3年目の野村克也が正捕手となった年になり、野村は翌1957年に初めて本塁打王を獲得します。
1957年オフには立教大学のスター、長嶋茂雄を獲得寸前のところまでいきますが、読売が家族に接触して長嶋を翻意させることに成功。
結局長嶋は読売に入団。その後プロ野球を代表するスター選手となっていきます。
南海は長嶋獲得はならなかったものの、同じ立教大学のエース杉浦忠を獲得。
その後の野村、杉浦とともに南海黄金期を支える広瀬叔功、皆川睦雄らが若手として活躍し始めたのがちょうどこの3年間でした。
そして迎えた1959(昭和34)年、南海はパリーグを制します。
日本シリーズでも、これまで4度挑んで4度敗れた読売を第1戦からエース杉浦の4連投4連勝という神がかった勝ち方で日本一となります。
エース別所を引き抜かれ、1951(昭和26)年に初めて日本シリーズで相まみえて以来、苦節8年。
恨み骨髄のにっくき読売をようやく打ち倒すことができたのです。
後楽園球場で日本一を決めた翌日の10月31日、南海ナインは難波と梅田を結ぶ大阪のメインストリート、御堂筋で優勝パレードを行います。
優勝の翌日にパレード、それも大阪のど真ん中の御堂筋で行うというのはこれまた交通規制の段取りなど考えると現在では考えられないことですね。
大阪球場前を出発した南海ナインを、警察発表で20万人という大阪のファンが熱狂の中で迎えました。
まさに吉良上野介を討ち果たし、主君浅野内匠頭の菩提寺泉岳寺へ行進する赤穂四十七士、忠臣蔵のクライマックスを彷彿とさせる光景といえましょう。
それは南海の熱狂的人気がピークを迎えた瞬間でもありました。
この1959年から1961(昭和36)年まで、ふたたび南海の観客動員が阪神を上回ることになるのです。
天覧試合と初のセリーグ制覇
さて、1956(昭和31)年にナイター設備を設置し、その後順調に観客数を伸ばした阪神でしたが、ナイター効果は3年しか続かず、1959(昭和34)年には再び観客数が減少します。
原因としては前年ミスタータイガース藤村が現役を引退、スター選手の田宮謙二郎が契約のもつれもあって大毎オリオンズに移籍してしまうなど、チームの魅力が落ちたことが考えられます。
またそれに加え、成績は2位でしたが首位読売が独走、13ゲーム差をつけられるなどペナントも今一つ盛り上がらない展開となったことも大きかったのではないでしょうか。
さて、成績的にはぱっとせず集客も大きく落とした年ですが、この年に後の人気の萌芽ともいうべき出来事がありました。
6月25日、後楽園球場でプロ野球史上初めて行われた天覧試合です。
阪神は小山、読売は藤田という両チームエースの先発で始まったこの試合は、長嶋とこの年ルーキーであった王貞治が初めてONアベック本塁打を放った試合となります。
そして同点で迎えた最終回、リリーフ登板していた阪神の若きエース候補であったルーキー村山実から長嶋が劇的なサヨナラアーチを放って幕を閉じました。
阪神ファンには悲劇的なクライマックスを迎えるこの試合は、その後の阪神と読売のライバル幻想の先駆けともいえる試合といえるでしょう。
翌1960(昭和35)年は大洋、読売の後塵を拝して3位。勝ち越し数も2つと成績が振るわず、結果観客動員も振るいません。
1961(昭和36)年、この年は「阪神タイガース」元年となります。
今まで名義上「阪神」としていましたが、この年までは「大阪タイガース」でした。
フランチャイズ制度で保護区域が兵庫県となったため、阪神タイガースとなったわけですが、それ以前も通称としては親会社が阪神電鉄ですので「阪神」と呼ばれてもいたようです。
今や帽子やヘルメットでチームを象徴するマークとなった「HT」マークもこの年から採用されました。
さて、記念すべきこの年ですが、チームの成績は低迷し、主力選手とたびたび衝突していた金田正泰がシーズン途中で解任されるなど散々で、Bクラスの4位に終わります。
金田の後任となったのが、読売の初代監督にして7度のリーグ優勝に導いた実績を持ち、当時阪神のヘッドコーチであった藤本定義でした。
藤本は日本で初めて本格的に先発ローテーションを採用した監督としても知られています。
阪急の監督時代にはじめたことですが、阪神でも監督となって採用。
1962(昭和37)年、藤本はエース小山、村山を軸に対戦スケジュールから逆算して先発ローテーションを組み、ショート吉田、サード三宅、セカンド鎌田実の鉄壁の内野陣を中心とした守り勝つ野球で見事2リーグ分裂後、初のセリーグ優勝へ導きます。
この躍進に観客動員も前年の8割増と大幅回復して、1試合平均で15,424人を記録。
年間の動員数で球団史上初めて100万人の大台を突破し、再び観客動員数で南海を上回ります。
しかし、現在では毎年280~300万人の観衆を集め、1試合平均3万8千から4万人を動員していることを思うと少し寂しい数字ともいえます。
以前のブログ記事で、甲子園球場がリーグ草創期閑古鳥が鳴いていたことをご紹介しましたが、当時のプロ野球の動員力からいえばこの数字でも大変なものだったのです。
ターニングポイントとなった1959(昭和34)年
一方の南海も1960年代中ごろまで、まさに全盛期を迎えていました。
1959年初の日本一から1966(昭和41)年までの8シーズンでリーグ優勝5回、日本一2回、2位が2回という輝かしい成績をおさめます。
1964(昭和39)年には、阪神を直接下して2度目の日本一の栄冠もつかみました。
しかし、ここで異変が起きます。
南海の観客動員が1960年代頭打ちするのです。
頭打ちどころかじょじょに客足は減少し、リーグ優勝を飾った1966年には平均7千人にまで落ち込んで、強さと人気が比例しない状況が顕著になります。
そんな南海とは逆に、阪神は1960年代飛躍的にファンの数を増やし、1970年代には関西で圧倒的な人気を獲得することになります。
この差はどうして生まれたのでしょう。
大きな影響があったのは、マスコミの露出度の差といわれています。
曰く「読売戦があり、テレビ中継の露出度の高い阪神が、関西のプロ野球人気を獲得していった」。
たしかにそういう一面はあるでしょう。それも大きな影響であったと思います。
このブログ記事でもたびたび参考にさせてもらっている井上章一著『阪神タイガースの正体』では、また別の側面も提示しています。
「最初、読売のライバルと目されたのは、別所を引き抜かれ、リーグ分裂後幾度も日本一をあらそい敗れ続けた南海であった。」
「南海の読売に対する恨み、怨念は1959(昭和34)年に読売を倒して日本一に輝くことで晴らされた」
「阪神は同年の天覧試合で、若きエース村山が、長嶋にサヨナラホームランを打たれて敗れるという「悲劇」にみまわれ、これを晴らしたいという新たな怨念が生まれた」
つまり、1959年、日本一で読売を倒した南海は積年の「恨み」が発散されたためファンの熱気が冷めてしまった一方、天覧試合で悲劇的な敗戦を喫した阪神にかつての南海のようなあらたな「恨み」が醸成され、ファンの熱気に火をつけたというのです。
なかなか面白い見方だと思います。
2019年の現在に至るまで、読売を打倒してセリーグを制したことは阪神はありません。
1962年、1964年は大洋、1985年は広島、2003年、2005年は中日との優勝争いでした。
そういう意味では積年の「恨み」を晴らす機会はまだ訪れていないのかもしれません。
例外をあげるとすれば2014年クライマックスシリーズ。
東京ドームでペナントを制した読売に4連勝して日本シリーズ進出を決めたことくらいでしょうか。
南海は1960年代後半からは成績も下降。
1970年代末からは最下位近辺が指定席となることが常態となり1978(昭和53)年にはついに観客動員数44万人と、パリーグ最下位の集客となります。
この年は前年、チームの顔でもあった野村が家族の問題で南海を去り、それに追随して江夏、柏原が退団するなど南海が激震に見舞われた年でした。
かつてパリーグで一番の集客力をもった南海の凋落は止めようがない状況となります。
1988(昭和63)年10月、ついに南海はダイエーに球団譲渡を決め、本拠地も福岡に移転することになりました。
パリーグの覇権を激しく争ったかつてのライバル西鉄の本拠地への移転には因縁めいたものを感じますね。
福岡へ移ったホークスは当初成績的に苦労したものの常勝軍団へと生まれ変わりました。
九州で圧倒的な人気を博す球団となり、観客動員も毎年読売、阪神に次ぐ集客力を誇ります。
ホークスという名が残り、再び強豪となったことを思えば、大阪のファンには断腸の思いであったでしょうが、良い方向に進んだのではないでしょうか。
そういえば、このところ大阪ドームでのオリックス、ソフトバンク戦では毎年大阪クラシックと銘打ち、ソフトバンクの選手がかつての南海のユニフォームで試合を行う日があります。
この時はソフトバンクのラッキー7で、かつての「南海ホークスの歌」が大阪の夜にこだまします。
往年の南海ファンはときに涙を流して熱唱するといいます。
また、大阪のホークス応援団の振る旗はいまだにかつての南海の応援旗です。
ホークスが福岡に移ってすでに30年を超えましたが、いまだに大阪にホークスが息づいていることを感じさせてくれます。
参考文献
阪神タイガースの虚実を赤裸々に描き出す一冊ですが、阪神だけでなく、草創期から現在に至るプロ野球の歴史をたどる内容となっており、プロ野球ファンならば非常に興味深い内容となっていると思います。
次回はこちら。