歴史好きの大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

奈良にもあった米軍基地。平城宮跡の南に突如現れ3年で消えた巨大青線地帯とは。奈良R・Rセンター周辺。

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皆さんこんにちは。

この記事の公開日は9月2日です。

1945年9月2日は、日本が降伏文書に調印した日で、世界的にはこの日が第二次世界大戦終結の日として知られています。

日本全国に占領軍が展開し、もちろん古都奈良にも占領軍がやってきました。

 

 

占領軍と奈良

 

奈良で占領軍が基地としたのは、かつて陸軍の歩兵第38連隊の兵営と練兵場で、現在の奈良教育大学および奈良女子大学附属中等教育学校の敷地となります。

ちなみに第38連隊は戦中おもに中国戦線で活動していて、南京攻略戦など主要な戦いに投入されました。

現在奈良教育大学教育資料館として使用されている赤レンガの建物は、1908年に第38連隊の糧秣庫として建設されたもので、当地がかつて軍施設であったことを偲ばせるものです。

また、奈良女子大学附属中等教育学校の校庭には"REGIONAL POST ENGINEER. CAMP NARA. HEAVY EQUIPMENT. ROADS & GROUDS SHOP"(キャンプ奈良 工兵隊支部 土木重機場)と記された当時の占領軍の石碑が現在も残され、今となっては数少ない米軍占領期の痕跡となっています。

第38連隊の関連施設だけでなく、その他の施設も占領軍により接収され、将校用の住居として、高畑町では連隊司令官官舎などのほか、志賀直哉邸までが接収されました。

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志賀直哉旧宅

市内の北部黒髪山にはアメリカ軍将校向けの宅地建設が進められ、米軍撤収後、この跡地が「奈良ドリームランド」という遊園地になります。

 

また、クラシックホテルとして名高い「奈良ホテル」も接収。

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奈良ホテル本館

辰野金吾設計による木調が美しい和洋折衷洋式の本館で知られますが、占領軍の衛生担当者から「不潔」ということで、これをすべて白ペンキで塗装をするよう指令がでたそうです。

当時のアメリカ人が木の地肌がそのままというのは、衛生的に不良とみていたことがよくわかるエピソードですね。

しかし、これでは格調高い外観が台無しになってしまうと当時の従業員が抵抗し、従業員の部屋だけペンキ塗りにするということで占領軍と話をつけたそうです。

この時占領軍に押し切られていたら、あの格調高い奈良ホテル本館は現在残されてなかったかもしれません。

一方でアメリカ兵にサービスすることで、徹底した火災予防と衛生管理というアメリカのホテル運営の優れた点を吸収できたことが、戦後のサービス向上に大いに役立ったという一面もあったそうです。

占領期の奈良の姿を今に伝える貴重な写真資料が、奈良県立図書情報館からWEB上に公開されていますので、ご紹介しておきます。

 「戦争体験文庫

第38連隊関連の写真も多く掲載されており、とても興味深い資料です。

 

朝鮮戦争と奈良R・Rセンター

 

さて、奈良と占領軍を語るうえで、あまり知られていない負の記憶というべき施設があります。

1950年に設置された「奈良R・R・センター(NARA Rest And Recuperation Center)」です。

このR・Rセンターは 1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争に際し、前線の米兵が5日間だけ帰休して「休息・元気回復を目的とした宿泊施設」として日米両国の協定により奈良市横領町(平城宮跡正面)に設置された施設です。

戦前のこの地は軍需工場で、戦後は米軍に接収され占領軍第六軍の将兵四個連隊の宿舎として利用されていました。

積水化学工業の工場敷地を含むこの広大な土地に、宿泊施設と劇場、クラブ・バーなどが設置され、前線からの帰休兵への慰安に供されたのです。

現在朱雀門ひろばとして整備が進んでいるあたりに、突如米兵用の巨大な歓楽施設が姿を現しました。

伊丹空港からバスや近鉄でこの奈良R・Rセンターへやってくる大量の帰休兵の出現を商機とみたのか、奈良R・Rセンターに隣接する現三条大路三・四・五丁目から尼ケ辻にかけて、米兵たちを目当てに、開設から1か月後にはカフェバー34軒、ギフトショップ12軒、ストリップ小屋が3軒などが建ち並び、少なくとも3千人という私娼たちが全国から集まったといいます。

今では住宅街となっている地域で、現在の姿からは想像もつきませんが、前線から5日間の休暇を得て帰ってきた兵士たちが、昼夜を分かたず歓楽に耽る不夜城と化しました。

R・Rセンター自体はいわゆる性風俗を供するような施設ではありませんでしたが、周辺に現れたカフェバーや飲食店の多くは、赤線地域でいうところのいわゆる「特殊飲食店」であり、実態は暴力団が取り仕切る私娼窟で、米兵相手の巨大青線街が突如として出現したといえます。

本当に現在の町からは想像もできない光景ですが、当時のこの地の状況はほぼ同時代の1954(昭和29)年に制作された映画「狂宴」で描かれています。

eiga.com

奈良R・Rセンター開設後、センター周辺からJR奈良駅にかけた地域で米兵による性暴力事件の増加や、私娼の増加や暗躍する暴力団同士が客をめぐって争うなど風紀・治安が深刻なレベルまで悪化します。

これを受け、奈良R・Rセンター廃止を求める住民運動が活発化します。

一方で、奈良R・Rセンター周辺の飲食店業者たちが中心となって「奈良駐留サービス協会」が県の指導のもとに結成され、「接客婦」に週一回の性病検診を受けさせ、性病が陰性だった者には安全バッジを与えて米兵に「安全な女性」を知らせるシステムを作るなど、廃止運動とは真逆の動きも現れます。

県が売買春を助長するようなシステムを指導するというのは現在ではありえませんが、実態として戦前の公娼制度がまだ残っていた当時の時代背景を物語るものといえるでしょう。

また、いわゆる戦前から各国の兵舎に隣接する「慰安所」の実態について、一側面を示す興味深い事実といえます。

 

結局反対運動は実を結び、1953(昭和28)年8月、神戸への移転が決まり、翌9月には奈良R・Rセンターは閉鎖されました。

あくまで移転で施設そのものは存続されたというのは当時の時代性として必要な施設であったからでしょう。

 

奈良R・Rセンターについては、奈良県の歴史の中で現在ほぼ語られることがなく、私も最近まで全く知りませんでした。

しかし、こういった事実を知ると、今現在進行形で進んでいる沖縄をはじめとした各地の基地問題や、昨今日韓で懸案となってしまったいわゆる「慰安婦」の問題を身近に感じられます。

 

<参考サイト>

RAAと「奈良R・Rセンター」: 慰安婦&ジェンダー平等ゼミナールのブログ

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