皆さんこんにちは。
現在の奈良県天理市にあった内山永久寺は、江戸時代までは大和国の中でも屈指の大寺院であったにもかかわらず、明治の廃仏毀釈で跡形もなく消え去った寺院として知られます。
内山永久寺のあった場所はこちら。石上神宮の南側にありました。
内山永久寺は永久年間(1113~1118年)に鳥羽天皇の勅願により建立された寺院で、本尊は阿弥陀如来。興福寺大乗院の末寺で、折からの本地垂迹説の流行から近隣の石上神宮の神宮寺となり、室町時代には大きな勢力を誇りました。
当記事冒頭の絵図からもわかるように、池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲を、本堂をはじめとした多くの堂宇が取り囲み、天正期には56の塔頭を有する巨大寺院でした。
江戸時代に入ると興福寺の支配を離れますが、971石の寺領を持ち、大和国では興福寺、東大寺、法隆寺に次ぐ寺格を誇りました。
その壮麗な大伽藍からついた二つ名が西の日光。
どれだけ煌びやかな伽藍であったかが偲ばれる異名です。
僧侶は全て還俗して、壮麗な大伽藍はこつ然と姿を消しました。
いわゆる廃仏毀釈で廃寺となった寺院ですが、内山永久寺ほどの巨大寺院が、完全に姿を消した例は、全国的にも非常に稀有な事例として知られます。
内山永久寺の廃仏毀釈の詳細については、ぜひ下記の過去記事をご一読いただければと思います。
廃仏毀釈で徹底的に破壊された大寺院の、現在の様子をご紹介していきます。
内山永久寺跡
国道25号線から、いわゆる山の辺の道を南に入ってしばらく歩くと、池のほとりに立つ、芭蕉の句碑が見えてきました。
「うち山や とざましらずの はなざかり」
地元では有名な桜の名所である内山永久寺を、花盛りの時期に訪れた若き日の芭蕉が詠んだ句です。
ちなみに現在でも内山永久寺跡の池の周りは、桜の木がたくさんあり、桜の季節は非常に美しい景色が広がります。
1670(寛文10)年刊行の句集「大和順礼」に収められていることから、伊賀在住時代の23、4歳頃の作品と見られます。
こちらが浄土式回遊庭園の核となっていた大亀池。
現在は木堂池の名で呼ばれているようです。
往時の姿をとどめる現地でほぼ唯一の遺構になります。
訪れた時期は3月の末で、桜の開花はまだでしたが、満開になれば水面に映る桜も美しい場所でしょうね。
桜の時期に山の辺の道を散策する際は、必ず立ち寄っておきたい場所です。
※永久寺跡の桜の様子がよくわかる記事がありましたので、こちらもご参照ください。
池に突き出した、かつて宝蔵があった場所に、1889(明治22)年に建立された「内山永久寺記念碑」があります。
廃寺となって間もないころに建立された石碑で、伝統ある名刹が失われてしまったことを、心に留めておきたいと願う人が当時いたということに、ホッとする気持ちになりました。
後醍醐天皇の萱御所跡の碑。
1336(建武3)年に京都で幽閉されていた後醍醐天皇が吉野に脱出する途中、永久寺に入り、この場所を行在所としました。
江戸時代の名所図絵にも掲載されていて、当時は建物も残っていました。すでに観光名所化されていたんでしょうね。
石碑の周りにごろごろと石が転がっていました。撤去された礎石なのかな。
本堂が建っていたあたりは、一面ビニールハウスの建つ畑となっていました。
話には聞いていましたが、礎石?と思しき石もぽつぽつと散在するだけで、往時の遺構はほとんど見当たりません。
畑にするのに邪魔なので、全て取り払われてしまったのでしょう。
礎石が少し残っていると、建物の規模とかも想像できたりするんですけど、昔ここに西の日光と称えられた大伽藍があったとは、想像もつきません。
また、歴代住職の供養塔も残っているとのことでしたが、どこにあるのか残念ながら判明せず…案内板ほしいてす…。
こちらのサイトに写真が掲載されていましたので、リンクしておきます。
畑の中にあるみたいなので、さすがに断りなくに入るのは気が引ける感じの場所です。
本堂跡の南側に休憩所が設けられていました。
内山永久寺の案内板もあり、かつての庭園跡などを一望できます。
池の周りの木は全て桜なので、桜の季節に来たらほんとに綺麗だろうなー。
休憩所から本堂跡を望みます。
伽藍や子院のあった場所は、全て畑か雑木林になっていました。
内山永久寺は境内の神社以外の建物は全て打ち壊され、廃材は全て付近住民の建築材となり、石垣の石もほぼすべて持ち去られ、明治20年ごろにはすべての建物が消失してしまったと伝えられます。
明治の廃仏で破壊された大寺院の多くで、廃寺後も近隣の住民たちによって一部の仏像や仏具が保管される例が多く見られますが、内山永久寺においてはそういう事例はほとんど認められず、放置された仏堂は近隣住民の容赦のない破壊と略奪の対象となって、多くの寺宝が破壊、散逸の憂き目に遭いました。
ここまでの破壊が進んだのは、やはり江戸時代までの寺と近郷の関係が、非常に悪かったのだろうと考えざるを得ないですね。
奈良県内で同じく明治に徹底的な廃仏が行われた十津川村と、同じような現象が起きたのかもしれません。
今は段々になっている畑や平場に、かつての境内区画の面影が、かろうじてとどめられるのみとなっています。
廃仏毀釈による破壊が徹底的だったことが、実際に足を運んでよくわかりましたが、神仏分離令後、途中まで全く同様の経過をたどり、廃寺寸前だった興福寺も、一歩間違えばこのような状況になっていたかもしれないと思うと、ちょっとぞっとします。
石上神宮
さて、かつて内山永久寺を神宮寺としていた石上神宮にやってきました。
石上神宮は、日本最古の神宮として知られる古社です。
かの日本書紀に「神宮」と記載された社は、伊勢の皇大神宮とこの石上神宮だけで、創建が早いのは石上神宮の方になります。
祭神は、ご神体の神剣に宿るとされる布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。
もともと石上神宮には本殿がなく、拝殿の後背地にあたる禁足地にご神体の神剣が埋められ、これを御本地とする古式ゆかしい信仰形態でしたが、明治の初め頃に神剣が発掘され、大正の中頃に現在の本殿が建てられました。
石上神宮も明治の廃仏毀釈時に、信仰の在り方が大きく変えられてしまった古社と言えます。
ちなみに1874(明治7)年に神剣の発掘を命じたのは、当時石上神宮の大宮司であった水戸藩出身の菅政友。
明治になって宮司の世襲は廃止され、菅は中央から派遣され、地元の信仰とは縁もゆかりもない人物でした。
菅は会沢正志斎、藤田東湖といった、明治維新の思想的原動力となった水戸学の大家に学んだ歴史学者で、後に東京帝大で史料編纂事業に従事して、考証史学の発展に努めたことでも知られる人物です。
水戸学は迷信を無視する儒学思想を中核としてるので、地元で古くから信じられていた禁忌も、菅にとっては排除すべき迷信と映ったのかもしれません。
太古から禁足地とされていた御本地を発掘するあたり、水戸学の薫陶を受けた菅だからこその行為だと思います。
この発掘で、御本地からは神剣の他、勾玉など多くの考古学上貴重な出土品が発見され、伝承が事実であったと実証されましたが、一方で古くから大事に守られてきた信仰の場を荒らしたことにならないかと、複雑な思いもあります。
現在ならば調査の上、埋め戻すなどの措置が取られるところでしょうが、ある意味当時は科学優先の時代だったともいえるでしょうか。
個性ある各地の信仰を「迷信」と切り捨て、中央政府の推奨する「あるべき祀り方」に統一されていったのが明治の神道政策でしたが、石上神宮もそういった古社のひとつでした。
まあ、諸行無常と仏教的にとらえれば、現在の姿への変化も肯定的にとらえられるかもしれませんね。
石上神宮の境内に入ると聞こえてくるのが、神の使いである鶏の声。
楼門が見えてきました。
鎌倉時代後期、1318(文保2)年に建てられ、国の重要文化財に指定されています。
江戸時代までは鐘楼門で、上層に鐘がつるされていましたが、明治の神仏分離令により、仏教的との理由から取り外されたとのこと。
こちらは国宝の拝殿です。
社伝によると白河天皇が宮中の神嘉殿を移築したものと伝わりますが、仏堂風の外観と、柱を貫通する水平材を多用する大仏様(だいぶつよう)の特徴が多くみられることから、鎌倉初期の建築と見られます。
いずれにせよ現存する拝殿としては日本最古。修復、手入れが行き届いていて、たいへん美しい姿をとどめる拝殿です。
石上神宮本殿の回廊内に、内山永久寺の境内図と使用されていた竜吐水が展示されていました。
江戸時代の消火用ポンプですね。
貴重な内山永久寺の遺留品とも言えます。
こちらは、摂社出雲建雄神社の拝殿。
実は、大変貴重な唯一現存する内山永久寺の建築遺構となります。
1300(正安2)年の建築で、こちらもなんと国宝!
内山永久寺は明治の初め頃に廃寺となりましたが、その鎮守社であった住吉神社はしばらく健在でした。
しかし、1890(明治23)年に本殿が放火(なんて罰当たりな…)されてしまい、こちらの拝殿も荒廃が進みましたが、1914(大正3)年に当地に移築され、摂社出雲建雄神社の拝殿となって現在に至ります。
鏡池のほとりから見上げた、出雲建雄神社拝殿。
他の内山永久寺構造物も、現存していれば多くが国宝、重要文化財の指定を受けたことと容易に推察され、石上神宮、内山永久寺エリアは、法隆寺に匹敵する国宝建造物群を構成していたことでしょう。
なら歴史芸術文化村
最後に、内山永久寺跡や石上神宮など山の辺の道観光の拠点としても注目のスポット、なら芸術文化村をご紹介したいと思います。
場所はこちら。
国道25号線の旧道沿いにあります。
2022年3月21日にオープンした複合施設で、文化財修復の見学展示棟や、イベントホール、会議場の他、ホテルや地元農産品や工芸品の直売所、レストランを備えた道の駅などが併設されています。
フェアフィールド・バイ・マリオット・奈良天理山の辺の道
TripBase道の駅プロジェクトによる、道の駅に近接して各地を渡り歩く拠点となることがコンセプトのホテルです。
天理から桜井まで、泊りがけでの山の辺の里観光には、大変便利なホテルではないでしょうか。
宿泊施設の詳細は下記リンクをご参照ください。
こちらは交流にぎわい棟。
産地直送の野菜や奈良の味覚を求めることができる文化村にぎわい市場や、工芸品の文化村伝統工芸館、レストランが入っています。
文化村にぎわい市場の様子です。
古都華をはじめとした、奈良の味覚が並びます。
営業時間
文化村にぎわい市場、文化村工芸館
9:00~17:00
定休日:月曜日
奈良名産レストラン&CAFE まるかつ
9:00~20:30(L.O.20:30)
定休日:なし
※お店については下記の記事で詳しく紹介していますので、是非ご一読ください。
交流にぎわい棟にはサイクルステーションも併設されていました。
1回300円でシャワールームも9:00~17:00(月曜定休)で利用可能です。
あと、レンタサイクルもあるので、自動車で来訪して、1日ゆっくり山の辺の里を自転車で回るのもいいですね。
使用したい場合は情報発信棟の観光案内所で受け付けてくれます。
サイクリングで山の辺の道を楽しむ場合や、車中泊で道の駅を回られている方などにおすすめの施設ですね。
こちらは文化財修復・展示棟です。
この施設での注目ポイントは、実際の文化財修復の現場を見学できることです。
修復作業は撮影禁止なので、その様子は残念ながら撮影できませんでしたが、訪れた日(平日)も、絵画、古文書の修復や、歴史的建造物の修復作業が行われていて、窓越しにその様子を見学できました。
その他、奈良県内の文化財についてのデジタルアーカイブや、様々な企画展示があり、ぜひ立ち寄りたいスポットです。
オープン間もない3月末に訪問しましたが、県内では大々的にニュースなどで報道されたこともあって、平日でも駐車場が昼前にはいっぱいになっていました。
今後もこの賑わいを続けてもらうためにも、様々な取り組みを継続して、文化、教育そして観光の大拠点に成長していってほしいです。
最後に、こちらの施設の統括責任者に就任されたのは、近鉄の伝説的広報マンで、鉄道ファンにはお馴染みの福原稔浩さん。
なら芸術文化村を通した、どんな仕掛けで奈良県を盛り上げてくださるか、本当に楽しみです。