歴史好きの大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

忽然と消えた「大和の日光」。跡形もなく消失した大寺院とは。廃仏毀釈(2)内山永久寺

皆さんこんにちは。

 

明治維新とともに吹き荒れた廃仏毀釈の嵐。

前回は興福寺の荒廃と復興についてご紹介しました。

 

さて、現在奈良の有名で大きな寺院といえば、皆さんどういったお寺を思い浮かべるでしょう。

興福寺東大寺法隆寺がまず脳裏に浮かぶ方が多いのではないでしょうか。

 

奈良の大寺院は多くが廃仏毀釈によって危機的な状況に置かれつつも何とか生き残ったところが多く、鹿児島県のように大寺院が跡形もなく消え去るなどという事態とは無縁であったと思われる方も多いかもしれません。

しかし、そんな奈良県にあって完全に消え去ってしまった巨大寺院がありました。

 

 
大和の日光と称された大伽藍

 

その寺院とは、石上神宮の南側、現在の天理市杣之内町にかつてあった「内山永久寺」です。

お寺のあった場所は、こちらで、石上神宮の南になります。

 

三方を山に囲まれているため「内山」と称されたこの寺院は、平安末期の永久年間(1113~1118年)に鳥羽天皇の勅願により、興福寺大乗院の当時の院主により創建されました。

当初から大乗院の末寺という性格から、興福寺との関係が極めて深く、興福寺の権勢を背景として室町時代には隆盛を誇ることになります。

また、本地垂迹説による神仏混交がすすみ、石上神宮の神宮寺という側面も持ちました。

 

本尊は阿弥陀如来で、天正年間には50を超える坊と院が存在し、池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲に多くの堂宇が立ち並ぶ巨大寺院に成長します。

 

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和州内山永久寺之図(奈良県立図書情報館蔵)

江戸時代後期に描かれた永久寺の姿です。

中央に池があり、宇治の平等院と同じく浄土式回遊庭園の周りを取り囲むように堂宇が立ち並ぶ姿が描かれていますね。

 

寺領は豊臣秀吉から与えられた971石が江戸時代を通じて維持されます。

なお、一貫して興福寺支配下にありましたが、江戸時代、興福寺の支配を離れて真言宗寺院となりました。

大和国では興福寺東大寺法隆寺に次ぐ寺格を持ち、その規模と壮麗さから江戸時代「大和の日光」と称されたのです。

 

廃寺、そして消滅へ

 

1868(明治元)年、神仏分離令が発せられると、当時の寺主であった上乗院亮珍は、自ら還俗して石上神宮の神官になり、永久寺を石上神宮の「社地」とする申請書を役所に提出します。

非常に既視感のある光景ですね。

さらに上知令により寺領が没収されると、経済基盤を失った内山永久寺は「廃寺」となり、僧侶は全員還俗して多くが石上神宮の神官となりました。

ここまで興福寺とほぼ同様の展開といえます。

 

僧侶が全くいなくなった永久寺は競売にかけられたものの買い手がつかず、子院を含めて多くの堂宇が取り壊され、壮麗な大伽藍は完全に姿を消してしまったのです。

貴重で価値が高かった寺宝は住民たちの略奪・破壊でほとんどが散逸、消失。
多くが県外のみならず海外へも流出していきます。

 

徹底的な破壊と略奪にさらされ、現在では境内の大半は農地となり、本堂の池と松尾芭蕉の歌碑や歴代住職の供養塔が残る以外、往時をしのばせるものは何も残されていません。

 こちらが現在の永久寺跡で本堂の池の前の光景です。

建物の礎石すら残されておらず、徹底的に破壊されたことがうかがえます。

現地の遺構は皆無なのですが、実は石上神宮に当寺の遺構が一つだけ残されています。

それは石上神宮摂社である出雲建雄神社拝殿です。

もともと永久寺の鎮守である住吉社の拝殿だったのですが、1890(明治23)年、本殿が放火されて消失。

そのまま荒れるに任せて放置されていたものを1914(大正3)年に移築され現在に至ります。

こちらは平安時代に建立された貴重なもので、現在国宝となっております。

こういった貴重な遺構が全く顧みられることもなく明治の初期にことごとく消失してしまったことは大変残念ですが、伝統建築を尊ぶような心性がそもそもわれわれ日本人には乏しい証左といえるかもしれません。

もし、江戸時代の伽藍と長く伝えられた寺宝が残っていれば、石上神宮と合わせて一大観光エリアとなっていたかもしれません。

当寺から消失・散逸した寺宝のうち国内で確認されているものが10点足らずありますが、すべて国宝か重要文化財に指定されており、当時の工芸技術の粋が結晶された優品ぞろいです。

破壊され、あるいは消失してしまった寺宝は数知れずですが、寺宝や建築物も残されていれば多くが国宝、重要文化財指定されていたことと思います。

まさに奈良公園周辺や法隆寺と並ぶ国宝、重要文化財の集中エリアになっていたんじゃないでしょうか。

返す返すももったいないことをしたと思う一方で、やはり廃仏毀釈が行われた当時、この荒波を乗り切るには、残された僧侶の熱意や地元住民の支援、あるいはその両方が必要だったのだと思います。

とても残念なことですが、永久寺にはこの二つが全くありませんでした。

永久寺は僧侶が一人残らず還俗した上に、もともと大寺院にはありがちなのですが檀家をもたない寺でもあったことから、積極的に寺院を維持しようという声が、地元中心にあがらなかったのが致命的だったのでしょう。

 

塀がすべて取り払われ、子院もことごとく破却されながらも残った興福寺とこの永久寺の差は、まさに紙一重であったともいえます。

 

参考文献

現在の寺社の在り方や我々の信仰の形態にも大きな影響を与えたにも関わらず、具体的な情報に乏しい廃仏毀釈

その発端から、廃仏運動が起きた背景、地域による特徴や違いを、現地取材をとおして緻密に描き出した一冊になっています。

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