歴史好きの大和徒然草子

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金堂の柱はエンタシスか!?管主の機転で守られた寺宝。廃仏毀釈(5)法隆寺

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皆さんこんにちは。

前回は神仏分離令により三者三様の運命をたどった大神神社の3つの神宮寺についてご紹介しました。

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今回取り上げるお寺は「法隆寺」です。

奈良を代表する大寺院、法隆寺がどのように廃仏毀釈の時代を切り抜けたかご紹介したいと思います。

 

世界最古の木造建築群

さて、法隆寺については今更多くを語るまでもないかもしれませんね。

古代寺院の形式を現在に伝える貴重な寺院であり、西院伽藍は世界最古の木造建築群として名高い寺院です。

創建は607年で、聖徳太子の住居であった斑鳩宮(現在法隆寺東院の場所)の西隣りに建てられました。

当初は飛鳥時代から一度も焼けていないと考えられていましたが、近年では一度焼失して再建された説が有力となっているようです。

それでも7世紀末には再建されたということですから、大変な歴史を持つ建築といえます。

 

法隆寺の建築といえば、金堂の柱の「胴張り」という様式。

円柱の下部から上部にかけ徐々に細くしていく様式なのですが、これがギリシアアテネパルテノン神殿の柱の「エンタシス」様式と酷似しており、私が小学生のころには歴史の教科書でも「ギリシアからアレキサンダー大王の東征により、はるばるヘレニズム文化が伝播して日本の法隆寺にも使われたのだ」と書かれていたものです。

要するに法隆寺の金堂の柱とパルテノン神殿の柱は同じエンタシス様式であるというのです。

しかし、現在ではこれ真っ赤なウソと証明されてしまったようです。

パルテノン神殿の柱の様式は「エンタシス」といいますが、そもそもアレクサンダー大王の時代にはすっかりエンタシス様式はギリシアでも廃れてしまっており、実際ガンダーラあたりのギリシア風建築では、まったくエンタシス様式の建築物は残されていないそうです。

なので、ギリシアからエンタシス様式が東に伝播したとは考えられず、現在の学会では法隆寺の金堂の柱が「エンタシス」であるという説はほぼ否定されています。

法隆寺の胴張り様式は6世紀、中国の南北朝時代末には見られた様式で、直接はこれが伝わったものであろうと考えられています。

この、法隆寺金堂の柱がエンタシスであるという説は1893(明治26)年、伊東忠太という建築史家が「法隆寺建築論」という論文で発表し、哲学者の和辻哲郎が1919(大正8)年にエッセイ「古寺巡礼」で紹介したことで広く世に知られるようになりました。

伊東は自説を証明するため3年にわたって中国からインド、トルコ、ギリシアと調査しましたが、結局ギリシアと日本以外で「エンタシス」を見つけることはできなかったといいます。

当時の学問は、やはり西洋中心で、西洋が上で、東洋は下とみる風潮が強く、伊東としては「法隆寺にもギリシアの文化が用いられている。早い段階で日本は西洋の文化を取り入れている」と、主張したい思いが強かったんじゃないでしょうか。

しかし、今にして思えば「トンデモ」説ともいえる「法隆寺金堂の柱がエンタシスである」という説は長い間生き続け、私が小学生のころにはまだ堂々と文化伝播の例として記載されていました。

恥ずかしながら、つい最近まで私は「法隆寺金堂の柱はエンタシス」と信じていました。だって学校でそう習ったんだもの・・・。

教科書の記載が新しい発見によって書き換わるということは最近よくありますね。

鎌倉幕府の成立は源頼朝征夷大将軍任官の1192年から守護地頭の設置を認められた1185年と変わったり、「足利尊氏像」と習った肖像画が「騎馬武者像」になったり、最新の事情はアンテナを張って収集おかないと思わぬところで恥をかくかもと思いました。

でも、この「法隆寺金堂の柱はエンタシス」は「うそ」って、そんなに喧伝されてない気がします。

 

ちょっと金堂の柱のお話が長くなってしまいました。

さて、聖徳太子の死後、その子山背大兄王蘇我入鹿に滅ぼされたとき、斑鳩宮は焼亡しましたが法隆寺は焼けずに残り、斑鳩宮跡には738(天平10)年、行信が聖徳太子を偲んで夢殿を中心とする東院伽藍を建立。ほぼ現在の中心伽藍が完成しました。

その後、一部の建物が焼失する火災は何度かあったものの、全山が焼亡するような兵火や大火は免れ、現在まで貴重な文物や建築を残しています。

1595(文禄4)年、いわゆる太閤検地法隆寺は寺領1,000石とされ、これが幕末まで維持されます。

法隆寺は古くからの建築物が多く、莫大な補修費用が掛かったため、たびたび寺宝や秘仏を「御開帳」することで将軍家から広く庶民まで寄進を集め、費用を捻出していました。

 

管主の機転により文化財を守る

 

明治初年の神仏分離令から始まる廃仏毀釈の嵐は、法隆寺にも容赦なく降りかかります。

まず、鎮守社であった龍田神社が分離され、神社境内にあった寺院建築はことごとく破却されます。

このとき、龍田神社の神宮寺(鎮守社の神宮寺ってちょっとややこしいですね。お寺に付随した神社に付随するお寺ってことなので・・)であった傳燈寺は廃寺となり、本堂は京都市伏見区の法界寺に移築され、同寺の本堂(薬師堂)となりました。ちなみに現在この本堂は国の重要文化財となっています。

 

さらに1871(明治4)年、上知令による寺領の喪失で檀家を持たない法隆寺は経済的な困窮を余儀なくされます。

特に多くの堂宇を抱える法隆寺としては、その莫大な維持管理費用が捻出できない状況となり、みるみるうちに補修できなくなった堂舎の荒廃が進みました。

このままでは、寺宝や同社も売却、破却して「聖徳神社」にでもなるしかない。そこまで当時の状況はひっ迫していたといいます。

多武峰妙楽寺談山神社となったように、法隆寺聖霊院を本殿をした聖徳神社と化す可能性があったのです。

しかし、法隆寺はその法灯を守ると決めます。

1874(明治8)年、塔頭寺院を整理し、寺僧も一か所に集まって共同生活するなど倹約に努めてなんとか寺院の維持をはかりました。

そして1877(明治11)年、管主であった千早定朝の決断で、有名な「聖徳太子及び二王子像」を含む法隆寺の寺宝300点余りを、皇室に献納するのです。

「寺宝献納により相当額の下賜金が得られるのではないか」そんな目論見もあったといいます。

決断は吉と出ました。

この献納により、1万円が法隆寺に下賜されたのです。

まさに目論見通り事が運びました。

さらに法隆寺はこの下賜金を元手に、8,000円で公債を購入。金利600円を法隆寺の運営費に、残り2,000円を老朽化した伽藍の補修費用に充てました。

見事な運用で、苦境を脱して伽藍を維持するとともに、貴重な寺宝の流出も最小限度にとどめることに成功したのでした。

 

現在献納された寺宝のほとんどは「法隆寺献納宝物」として、上野の東京国立博物館にある法隆寺宝物館で鑑賞することができます。

 

法隆寺はこうした僧侶たちの努力と知恵で明治初頭の廃仏毀釈という暴風を乗り切りました。

寺宝を献納して下賜金を賜り、それを元手に資金運用して寺を維持するという、大変近代的な対策で、その知恵には舌を巻く思いです。

江戸時代から巨額な伽藍の補修資金を賄うため、寺宝の御開帳で資金を集めるなど、寺領からの収入だけに頼らず、寺宝をそれこそ「活用」して資金を賄うということを続けてきた寺院であったればこその知恵であったと思います。

 

それにしても興福寺、永久寺とは全く対を成す対応ですね。

この差はなぜ生まれたのかを考えるとき、結局は各寺院のリーダーの差であると言わざるを得ないと思います。

興福寺、永久寺の別当たちはみな京都の大貴族出身で、とくに永久寺の別当尊王思想に強く染まった人物であったといわれています。

心情的にも薩長とお公家さんたちが中心の新政府に近かったんじゃないでしょうか。

卑俗な言い方をすれば、そもそも興福寺、永久寺の当時の別当たちは所属寺院に対する愛着・執着も希薄だったんじゃないかとさえ思えます。

実家の縁故でたまたまその寺に入っただけで、家格に従って就いた「ポスト」に過ぎなかった、というと言い過ぎでしょうか。

 

それに比べて、法隆寺管主、千早定朝は大和国山辺郡出身で、若くから法隆寺の学僧となった、いわばごりごりのお坊さん。

何が何でも法灯を絶やすまいという覚悟がそもそも違ったのだと思います。

 

一部の奈良における廃仏毀釈を扱ったブログで、興福寺が早々に廃寺となったこと等をことあげし、「奈良の人間は明治政府の権力におもねった」かのような記述を見るにつけ、あまりに狭窄な視野に基づいた論で、残念でなりません。

興福寺や永久寺を早々に廃寺に導いたのは、新政府に心情的にも近い京都の公家出身の別当たちであり、奈良県出身の管主を務めた法隆寺は知恵を絞って時流に抗い、廃仏毀釈を乗り越えたのだと声を大にして述べたいと思います。

 

今回まで廃仏毀釈期の5つの寺院の姿をご紹介してきました。

興福寺や永久寺のように僧侶のほうから積極的に廃寺の方向へ向かった寺院もあれば、生き残りをかけて全山神社と化した妙楽寺もあり、やむを得ず廃寺となった後、復興した平等寺、そして僧侶たちが知恵の限りを尽くして寺院を守り抜いた今回の法隆寺と、廃仏毀釈とそれに直面した寺院には様々な様相が伺え、決してすべてが均質的に進行していったわけではないことが非常によくわかりますね。

 

今回法隆寺のことをいろいろ調べて、久しぶりに中に入ってみたくなりました。

次回はこちら。

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