皆さんこんにちは。
壮麗な復興伽藍で知られる奈良薬師寺。
この白鳳伽藍再建を開始したのが、薬師寺管長であった高田好胤です。
度重なる戦災と明治の廃仏毀釈に飲み込まれ、一時は住職も不在となった薬師寺を復興した高田好胤とはどのような人物であったのか。
前回は、その少年期を中心にご紹介しました。
戦争により大学生活を中断された好胤は、終戦を招集後配属されていた千葉県四街道で迎えます。
除隊して奈良に戻った好胤は、龍谷大学に復学することになりました。
もう一人の師
終戦により復学した龍谷大学文学部には、好胤が橋本凝胤と並んで生涯の師と仰ぐもう一人の人物がいました。
仏教学者の深浦正文です。
深浦は現在の奈良県香芝市出身で、浄土真宗本願寺派の僧侶でもありましたが、大乗仏教の根本教義の一つである唯識研究の大家として知られました。
凝胤とも昵懇の間柄だったこともあり、好胤は深浦を慕って龍谷大学へ進学したそうです。
深浦は仏教学だけでなく、国文学や史学にも造詣が深く、その幅広い知識を用いた巧みな話術で繰り広げられる講義は、学生からの評価も非常に高いものでした。
難解な仏教用語や経典の内容も、わかりやすくかみ砕いた言葉で、一人一人に語り掛けるような口ぶりで説明。余談が始まるととどまることなく続き、聞いているうちに心が引き込まれる講義たったそうです。
後年、その天才的話術で知られた好胤ですが、学生時代に受けた深浦の講義や話術の影響を多分に受けたと見られます。
「仏教は、まるいこころの教えです」など、ものの本質を、誰にでもわかりやすい言い回しで語り、多くの人々が腑に落ちるところに、好胤の説法の大きな特徴がありますが、これはもう一人の師である深浦から学び取ったものだったのでしょう。
深浦の話術が磨かれたのは、彼が浄土真宗の僧であったことも大きな要因かと思います。
浄土真宗では、法事においては読経より法話が重要視され、僧には仏教教学を一般信徒へわかりやすく伝えるスキルが要求されます。
布教活動にも精力的だった深浦も、法話を磨き、難解な教学を広く人々に伝えることに心を砕いた人物だったのでしょう。
法相宗をはじめとした南都仏教の寺院は、難解な仏教教学を徹底的に学ぶ学僧の寺という一面があり、好胤も難解な唯識の教学を、幼いころから凝胤から叩き込まれてきました。
そこに、深浦との出会いによって、広く人々に仏教の真髄を伝えるスキルを身に着け、後の説法の達人の原型が形作られたといえるでしょう。
こうして見ると、高田好胤という人物は深遠な仏教教学を追究する南都仏教をベースとしながら、広く一般大衆へ教化の道を開いた鎌倉仏教(浄土真宗)のエッセンスが加わった、ハイブリッドなお坊さんだったのだなと思います。
深浦との出会いがなければ、後の青空説法も、百万巻の写経勧進による伽藍復興という発想も浮かばなかったかもしれませんね。
青年僧好胤
1946(昭和21)年、好胤は龍谷大学文学部を卒業しました。
好胤が大学を卒業した頃の薬師寺は、所有していた田畑がGHQの農地改革によって失われ、他の南都仏教の寺院と同様、檀家を持たない寺であったことから、経済的にたいへん窮乏していました。
拝観料は貴重な収入源でしたが、終戦直後で経済的な余裕が庶民になかったこともあり、まだまだお寺を拝観する人も少なかった時代です。
このような状況で、好胤は僧として寺役を勤めながら、教員となって現金収入を得ようと考えます。
卒業した当日、早速好胤は凝胤に卒業の挨拶とともに、教員になりたいと願い出ましたが、凝胤は「二足のわらじは履くな」と、この申し出を一蹴しました。
「坊主は坊主らしくしておれ」
この凝胤の言葉に、そうは言ってもそれでは食っていけないと、好胤は食い下がりましたが、凝胤はきっぱりと答えました。
「坊主は坊主らしくしておれば、世間の人が食べさせてくれる。食べさせてくれんかったら、食べさせてくれない世間の人がわるいのやから、お前には罰(ばち)はあたらん。安心して死んだらええ」
つくづく仏教とは覚悟の宗教だと感じる凝胤の言葉です。
「死んだらええ」との師の言葉に、好胤も心を決め、僧侶として仏道に専念する道を選びました。
1948(昭和23)年の秋、好胤は法相宗の僧侶にとって登竜門となる堅義加行(りゅうぎけぎょう)に臨みます。
現在も続く堅義加行は、21日間の厳しい加行(準備の修行)の後、師匠から堅義(教義に関する口頭試問)を受けるというもので、機会は一度きり。もし最後の試問で答えられない場合は、破門となって寺から追放されるという厳しいもので、一人前の僧侶となるためには必ず通るべき道でした。
好胤は無事、この堅義加行を終え、翌1949(昭和24)年に薬師寺の副住職となります。
26歳のことでした。
青空説法
大学を卒業したとき教員を目指した好胤は、凝胤に諭されてその道を断念した後、これから自分がどうしていくべきかを考え、一つの結論にたどり着きました。
「寺へやってくる修学旅行生たちへ話をしよう」
明治の廃仏毀釈以降、寺院に対する宗教意識は下降の一途をたどりました。
やがて廃仏毀釈がおさまり、フェノロサや岡倉天心といった美術史家や和辻哲郎の名著「古寺巡礼」などにより、古くから残る堂塔や仏像は再評価されると、薬師寺をはじめとした古刹は再び人々の関心を集めるようになります。
しかし、それはあくまで優れた文化財という扱いで、寺を訪れても礼拝することなく、鑑賞するだけという人も多かったのです。
この風潮を好胤は常々憂いて、何とかしたいと考えました。
そこで得た結論が、「修学旅行生たちへ自ら寺の案内を行う」ことだったのです。
修学旅行や観光だったとしても、寺を訪れるということ自体が大きな仏縁である。寺に来て仏像の前に立てば日常と違った気持になるだろう。そのとき手を合わせる気持ちになってもらいたい。自分は寺の案内に専念して、仏心の種まきをしよう。
それこそが自分の使命であると心に決めた好胤は、凝胤の部屋に出向いてその決意を告げました。
好胤の話を黙って聞いていた凝胤は答えました。
「そら、やったら、ええやろ」
こうして好胤は、副住職となった1949(昭和24)年から、修学旅行生の案内をガイド任せではなく自ら行うようになり、これが後に「青空説法」と呼ばれることになるのです。
1950(昭和25)年に朝鮮戦争がはじまると、日本経済は戦争特需で回復。
国民生活にも余裕が生まれ、修学旅行が盛んとなった時代相もあり、好胤は連日、修学旅行生の前に立ちました。
好胤は境内に散在する灯篭の台であった石の上にのり、薬師寺の由来や仏像から仏教とはどのような教えであるのか、ユーモアとジョークをちりばめて、日常の言葉で語りました。
また、生徒たちの地元の話題も取り込んで、遠い奈良の地にあっても親しみが深くなるよう語り掛け、これまで「仏」に全く馴染みがなく、合掌の所作を知らない生徒には「てのひらの皴と皴を合わせたら幸せ」と独特のユーモアでその所作を伝えます。
ある日、周りの生徒たちが仏像に向かって合掌する中、合掌を逡巡している生徒を見つけた好胤は、「あなたはクリスチャンですね。いいクリスチャンになれるよう祈りなさい」と優しく生徒に促しました。
十字架のペンダントをした生徒はその言葉にそっと頷いたといいます。
どのような人でも、それぞれの祈りや願いの場としての寺院、仏像であってほしいという好胤の気持ちが伝わる話です。
好胤の案内に、古い寺社に興味も関心もなかった多くの生徒が聞き入り、多くの生徒たちが好胤と打ち解け、修学旅行から帰った生徒たちからは、たくさんの手紙が薬師寺に届きました。
その中の一通に、こんな一節がありました。
坊さんとはもちろん好胤のことです。
多い時で1日10校もの修学旅行生を迎えましたが、好胤は連日境内に出て修学旅行生に向かって話を続けました。
直接声を届けたいという願いから、マイクもメガホンも使わず、生の声で生徒たちに向き合ったのです。
ある日、修学旅行生の案内で忙しく日々を送る好胤に、小学校からの親友の一人が、もう副住職になったのだから、案内は若い者に任せて、将来のために住職学とか身につけてはどうか、と忠告しました。
好胤は、友人の忠告を最後まで聞いた後に言いました。
「わしが修学旅行生に話をしているのは、ただ案内をしたり説明をしたりしているだけではないんや。一人一人の生徒の心の中に、仏法の種を一粒ずつまいているんや。それがわしの使命やと思うし、生き甲斐でもあるのや。」
一人でも多くの人の心に仏法の種をまきたいと願って始めた「青空説法」でしたが、後に好胤は、修学旅行生たちとの交流の中で、心に種をまかれていたのは自分であった、生徒たちに仏心の種をまこうというのは、思い上がりであったと思うようになります。
そのように思うようになった後、好胤はそれ以前とは同じ言葉を話していても、自身の内面で大きな変化があったと、著書「心」の中で述懐しました。
好胤による修学旅行生に向けた法話「青空説法」を聞いた生徒は、300万人とも600万人とも言い、18年間にわたって続けられました。
後に百万巻の写経勧進による伽藍復興という発想の原点は、多くの生徒たちと薬師寺との仏縁を結んだ青空説法にあったのだろうと思います。
<参考文献>
高田好胤さんのちょっと心がほっこりするお話が載っている本です。
次回はこちらです。