皆さんこんにちは。
百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を興した、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。
金堂落慶のあと、景観破壊との批判を乗り越え、西塔再建を開始した薬師寺。
白鳳伽藍復興に向けて、意気上がる薬師寺にあって、気がかりは好胤の師である前管長橋本凝胤の病状でした。
凝胤遷化
1975(昭和50)年から、凝胤は持病の糖尿病と高血圧が悪化し、入退院を繰り返していました。
金堂落慶法要の際は、本人の意向で人目の立たない場所から、その様子を見守っていたと言います。
金堂落慶の後、2年間の闘病生活を続け、最期の2、3日は拒食して何も食べませんでした。
西行の歌、「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ」を愛した凝胤。「如月の 望月のころ」とは釈迦入滅の3月15日前後のころですが、自身もそうありたいと思っていた凝胤は、1978(昭和53)年3月25日、大阪の病院で世を去りました。享年80。
明治から昭和初期にかけ、廃寺寸前であった薬師寺を、ほぼ独力で支えたのが凝胤でした。
その間、好胤や後に管主となる安田瑛胤ら、優れた弟子を育てた点でも、稀代の名僧といえるでしょう。
経営者としてもっとも優れた業績とは「人を遺すこと」とされます。この点においては、寺院を運営する人物として、最大級の功績を上げた人でした。
凝胤とその弟子たちによって、薬師寺の再興は成し遂げられ、また、凝胤がいなければ、最後の法隆寺宮大工:西岡常一が、薬師寺棟梁となることもなかったことでしょう。
間違いなく凝胤は、薬師寺中興の祖と言える人物でした。
好胤は写経勧進で福井にいて、師の臨終に間に合いませんでしたが、寺に戻ると新聞記者に囲まれ、師の人となりを尋ねられると、こう答えました。
「恐い人でした」
好胤の偽らざる思いだったのでしょう。しかし、あまりに言葉が足りないと思ったのか、言葉を続けました。
「今いった、恐いというのは、取り消してください。厳しい人でした。けれども、やさしい人でした」
幼い頃は容赦ない鉄拳制裁、スパルタ教育で、何度も悔し涙を強いられた人でした。
戦後長らく人権擁護委員を委嘱され、会長も務めた凝胤が藍綬褒章を受章したとき、好胤は、「世の中も、変われば変わるもんですな」「おやっさんは、弟子とはいえ、私らを殴ったり、蹴ったり、放り出したり、ずいぶん人権を蹂躙されました。それなのに、人権擁護で功績があったというので、褒章をもらわれる。世の中も変わったと思われませんか」と、皮肉とも冗談ともつかぬ言葉を贈ったりもしました。
しかし一方で、幼い好胤のため、遠足の弁当を夜なべして作ったり、学徒出陣で千葉の兵営に好胤がいた時、絶えることなく手紙を送ったりと、言葉で伝えられることは少なかったでしょうが、示してくれた無数の深い愛情は、しっかりと好胤の胸に届いていたことでしょう。
密葬は3月28日の夕方に行われ、好胤たち凝胤の弟子が、師の棺を担ぎ、般若心経を唱えながら金堂の周りをまわりました。
従来、元々官寺であった南都の寺院は、境内で葬式は行わないしきたりでした。
いわゆる「死穢」を嫌う思想からできた、習わしでしょう。
中世の奈良の寺院では、平安貴族が嫌った死穢や罪穢といった様々な「穢れ」を疎んじ、そのため、警察権や裁判権、刑の執行といった世俗権を衆徒と呼ばれた下級僧侶に任せ、寺の外で執行させました。ちなみに、戦国期に大和国内で衆徒たちが、戦国大名化していく切っ掛けとなったのは、寺から与えられた世俗権を、自分たちのために振るいだしたことにあります。
好胤は中世以来の伝統・しきたりを廃し、自らの手で師を送りました。
凝胤は体格がよく、重い棺に体重が加わり、担いでいた棺は好胤の肩に食い込んで、鎖骨が折れんばかりに重かったそうです。
「私の師匠は生涯を薬師寺に尽くしたお方ですから、最後にもう一回境内を一巡してもらいました。その時の薬師寺の広かったこと。よう腰が抜けなんだと思うほど重くはありましたが、それは四十年を超える恩愛の重さには比べるべくもありませんでした」
と、後に好胤は、その著書の中で述懐しました。
米朝と掛け軸、真宗寺院で般若心経
さて、この頃の好胤の人となりを感じるお話を、ふたつご紹介させてください。
好胤は副住職の時から、土曜朝のワイドショー「ハイ!土曜日です。」に出演し、このテレビ番組を通じて知り合った、司会の落語家桂米朝とは、非常に親しい関係となっていました。
ある日、米朝が好胤の自坊である法光院に訪れた時、好胤は寺の用を手伝ってくれた米朝に何かお礼をしたいと、「おなたの欲しいものを上げる」と言ったそうです。
米朝は床の間にかけてあった、一幅の掛け軸に目を止めました。
「本来無一物」と書かれた書で、凝胤の手によるものでした。
大切な師匠からもらった書ということもあり、好胤は「むー」と唸って逡巡します。
これに米朝は「本来無一物。これが僧のあるべき姿では」と畳みかけました。
「本来無一物」とは仏教の語で、本来世の中のものは全て空であるから、ものに執着してはならないと諭した言葉なのです。
好胤は「しゃあないなあ」と笑みを浮かべ、「惜しんだら、書いてあることに背くことになるからなあ」と言って米朝に軸をまいて渡しました。
米朝の死後、この掛け軸は米朝の孫弟子にあたる桂南光の手に渡ったそうです。
戦後、絶滅寸前だった上方落語の復興に尽力し、落語家としては二人目の人間国宝となった米朝は、好胤を「話芸の達人」と評し、「人を自分の畑に引き込む力、その要領を教わったように思う」と、その著書で語っています。
話の達人であった米朝。その話芸に影響を与えるというのは、好胤の話術がいかに卓越したものであったのを、示すものと言えるでしょう。
また、1977(昭和52)年のこと。
好胤とは大学の後輩であり、かねてから昵懇の間柄であった放送記者がいました。
記者の実家は浄土真宗寺院で、その父が住職を務めていました。
10月、記者の父が亡くなり、実家の本堂で門徒や近所の人が集まって、通夜が営まれていた時、記者のもとに好胤から電話がかかってきました。
どこから聞きつけたのか、記者の父が亡くなったことを知った好胤は「今からお参りに行きます」と、連絡を入れてきたのです。
すでに有名人であった好胤が来るというので、一目見ようと、夜10時を回っても多くの人が本堂に残っていたそうです。
やがて好胤が到着すると、記者は「わざわざ弔問くださいまして、ありがとうございます」と、お礼をして迎えました。
「君のところのこの寺は、浄土真宗やが、私のほうの般若心経でおつとめしてよろしいか」
浄土真宗は、阿弥陀如来の絶対他力を信心の根本とする宗派で、経典は浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)のみです。したがって般若心経をおつとめすることはありません。
好胤は心からの自分の弔意を示したい純粋な思いから、般若心経をおつとめさせてほしいと思ったのでしょう。
とはいえ、真宗は阿弥陀如来以外の仏について、僧侶に拝むことすら禁じるストイックな宗派ですから、好胤も記者に筋を通したのです。
好胤の思いをくみ取った記者は「はい」といって頷きました。
お経が始まると、真宗門徒には馴染みのない、般若心経の大合唱となりました。
宗派を超えた前代未聞の光景でした。
ふと記者が山門のほうを見ると、ひとりの坊さんが立っています。
友人の真宗寺院の住職でした。
「真宗の寺で般若心経とはなにごとか」
明らかに怒っていました。
浄土真宗の僧侶ならば、常識的な反応といえるでしょう。
記者は飛び出して事情を説明し、ようやく納得してもらったといいます。
東西両塔相並ぶ
1981(昭和56)年4月1日、西塔は晴れて落慶の日を迎え、450年ぶりに東西両塔が並ぶ姿が西ノ京の地によみがえりました。
国宝の東塔を徹底的に調査して設計された西塔ですが、室町時代の地震後に大きく改修された部分や、三重目の軒が短くなっているといった修理後の姿は倣わず、白鳳期の姿そのままに再建されています。
また、基壇が創建当初から80cm地表面から埋まっていることがわかり、金堂同様、基壇は80cmかさ上げして築き、柱も経年による収縮を見越して20cm、東塔より高く設計され、西塔は東塔より2mほど高く再建されました。
ちなみに東塔は2020(令和2)年に終わった平成・令和の解体修理で、基壇の高さが金堂や西塔と合わせられたため、現在、両塔の差は西塔落慶のころより小さくなっています。
「青丹よし」と色鮮やかな西塔と、千数百年の風雪に耐え、古色蒼然とした東塔のコントラストに、当初心配された大きな違和感は感じられませんでした。
7年の歳月と、15億円の工費を投じて再建された西塔の落慶法要は、5日間営まれました。
落慶法要が最終日間近のころ、好胤はいつものように参列した人々に、お礼のあいさつをしていると、視線の先に棟梁の西岡がいることに気付きました。
好胤は西岡の手を取って舞台に上げると、
「あんたが西塔を建てたいといったのですよ。お写経をしてくださったみなさんに、あんたからもお礼をいいなされ」
と言って、西岡にマイクを手渡しました。
「私が西塔の仕事をさせてもらっていましたら、スズメが飛んできて『ちゅうもん(中門)、ちゅうもん』と鳴きました。また、カラスが『かいろう(回廊)、かいろう』、ハトは『コードー(講堂)、コードー』と鳴きよります。」
西岡は持ち前の諧謔で、かねてから心に秘めていた白鳳伽藍のさらなる復興を、多くの聴衆が集まる中、好胤に訴えたのです。
この西岡のあいさつが、好胤の心を動かし、その場で中門や回廊といった白鳳伽藍の復興を、好胤は宣言しました。
参列した人々は、スタンディングオベーションで伽藍復興の宣言を称えたといいます。
西塔落慶の翌年、1982(昭和57)年秋に中門の起工式が行われることになりました。
<参考文献>
高田好胤さんのちょっとほっこりする話がいっぱい詰まった伝記です。
次回はこちらです。