大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

仏法の種をまいた名僧、高田好胤(1)

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皆さんこんにちは。

 

奈良の西ノ京にある世界遺産薬師寺

奈良時代から残る国宝の東塔や鎌倉時代築の重文・東院堂などの古くから残る貴重な建築だけでなく、創建以来の度重なる火災や自然災害、兵火により失われた大伽藍を復興したことでも名高い名刹です。

 

この白鳳伽藍復興事業は、1967(昭和42)年、薬師寺管長となった高田好胤が金堂復興を発願したことから始まりました。

金堂復興に始まり、西塔、中門、東西回廊と次々に再建された復興事業は、好胤が1998(平成10)年に世を去った後も続き、講堂、食堂と再建されて現在まで続きます。

白鳳の大伽藍を復興させるという、空前の大事業を始めた高田好胤は、私(1974年生まれ)の親世代くらいだと、土曜朝のワイドショーの今でいうコメンテーターという印象が強い方も多いかと思います。

薬師寺を訪れる修学旅行生向けの案内が「青空説法」と話題を呼び、薬師寺の話の面白いお坊さんとして、多くのテレビ番組に出演していた人物でした。

私自身は年代的にも直接テレビでお見掛けする機会が少なく、そのお名前だけを知っている方でしたが、以前からとても興味のある人物でしたので、最近その著作や伝記を読んでみて、多くの人に知っていただきたい人物だと思いました。

百万巻のお写経勧進による薬師寺の復興事業を推し進めた、高田好胤とはどのような人物だったか、ご紹介させていただきたいと思います。

師・橋本凝胤

高田好胤は1924(大正13)年3月、大阪市で生まれました。本名は「好一」といいます。

好胤の生まれた年は甲子の年。同年8月は甲子園球場が竣工した年で、好胤は後に話の中で「私は甲子園球場と同い年なんです」というフレーズをよく用いたとか。

父は証券マンでしたが1934(昭和9)年、好胤が10歳の時に肺結核で亡くなり、母親のフジは好胤とその姉を連れて、実家である東大寺塔頭の龍蔵院に身を寄せます。

好胤少年は、しばらくフジの弟で叔父にあたる龍蔵院住職、橋本聖準のもとで養育されましたが、聖準と親しい東大寺の僧侶の紹介で、奈良西ノ京の法相宗大本山薬師寺橋本凝胤の弟子となり、1935(昭和10)年、凝胤を戒師として得度。この時、大道房好胤の名を与えられました。

 

さて、好胤の師僧となった橋本凝胤という人物は、「怪僧」という二つ名にふさわしい傑物でした。

1897(明治30)年、奈良県平群村(現平群町)の農家に生まれた凝胤は、1904(明治37)年に当時法相宗であった法隆寺に入山し、管主佐伯定胤に師事し唯識を学びます。

凝胤の師、佐伯定胤は明治以降衰微した法相・唯識の教えを再興し、寺領を失って補修もままならなかった堂宇を、聖徳奉賛会を組織して昭和の大修理を実現させるなど、ソフト、ハードの両面で廃仏毀釈により衰退した法隆寺を再興した名僧でした。

この定胤のもとで厳しく育成された凝胤は、青年になると上京し、1923(大正12)年に宗教大学(現大正大学)を、1925(大正14)年には東京帝大文学部印度哲学科を卒業し、師と同様に仏教研究にも本格的に取り組みます。

とくに仏典の収集を中心に精力的に活動して、若き日には中国を放浪。漢訳される前の仏典を入手すべく隊商に紛れてチベット潜入を図った際には、スパイ容疑で逮捕され、危うく処刑されかけるなど、大陸浪人顔負けの超行動派の仏僧でした。

1939(昭和14)年、凝胤は43歳で、大正以来住職が絶え、定胤が兼務していた薬師寺管主を師から引き継ぎます。好胤が弟子入りした4年後のことでした。

明治初頭の上知令で寺領を失い、いわゆる「檀家」を持たなかった南都の大寺はどこも困窮しましたが、薬師寺も例外ではなく、凝胤は師から管主を引き継いでから好胤にその座を継がせるまでの30年間、寺の維持に努め、後の伽藍復興の礎を築いたのは間違いなく凝胤でした。

また、明治以降、僧侶の肉食妻帯は許されてましたが、凝胤は文字通りの「菜食不犯」を実践した人物としても知られます。それだけに保守一辺倒の人物かというと、デパートで仏像の展示会を行うなど、新たな試みにも柔軟な姿勢を見せました。

性格は、頑固なうえに毒舌、歯に衣着せぬ物言いで、著名人と激しい論争となることもしばしばで、1951(昭和26)年に週刊朝日誌上で当時人気のマルチタレントであった徳川夢声と繰り広げた「天動説」を巡る論争で、一躍有名人となりました。

一方、大野伴睦佐藤栄作といった政治家や、阪急の総帥小林一三、電力業界の実力者松永安左エ門といった政財界の大物と広く交流し、そのコネクションを活かして遅々として進まなかった平城宮跡国有化を実現に導くなど、その頑強な体躯と鋭い眼光も相まって「昭和の怪僧」の異名で呼ばれたのです。

 

凝胤の弟子に対する指導は、自身が受けてきたのと同様、厳しいスパルタ式の教育で、理屈はともかく言葉や動作を、徹底的に好胤たち弟子の心身へ叩き込むものでした。

早朝からお堂に集まり凝胤の講義を受け、寺の掃除をしてから学校へ登校。昼に学校から帰れば読経の稽古で、読み方を誤れば容赦のない鉄拳制裁。

好胤は度々、持ち前の反骨心から、師匠への口答えも多かったようですが、なおさらひどく叱られたといいます。

好胤が中学時代、友人の家に招かれ「清水港は鬼より怖い、大政・小政の声がする」という浪曲の一説を聞いたとき、友人に「薬師寺に来てみろ、鬼よりもっと怖い、橋本凝胤というごおっつい坊さんがおるぞ」と思わず漏らすほど、好胤にとっては恐ろしい師匠でした。

しかし一方で、小学生時代の好胤が楽しみにしていた遠足の前日、賄のおばさんが急病でこれなくなると、凝胤は夜遅くまでかかって、好胤のために海苔巻き寿司の弁当を作ったり、皮膚病で苦しむ好胤に自分の薬を分けてあげるなど、弟子への愛情を欠かすことはありませんでした。

 

野球好き

好胤が通っていた奈良県立郡山中学校(現郡山高校)は、奈良県で最も古い歴史を持つ中学であり、県下有数の進学校でありながら、運動部の活動も盛んなことで知られる学校で、野球部は現在でも時折甲子園に出場する強豪校です。

好胤は「私は甲子園球場と同い年なんです」というフレーズを後年多用したことからもわかるように、大変な野球好きでした。

ある日、好胤が中学の校庭で友人とキャッチボールをしていたところ、野球部の監督をしていた先生が通りかかります。

その先生は好胤の投球フォームをしばらく見ていましたが、好胤を呼び寄せると「野球部に入らないか」と勧誘しました。

好胤は飛び跳ねるほどうれしかったのですが、野球嫌いの凝胤の顔が浮かび、返答に逡巡しました。

しかし、どうしても野球がしたかった好胤。なんと凝胤に内緒で野球部に入部してしまいます。

亡くなったお父さんも、大学時代は野球選手で、息子の好胤を慶応大学の野球選手にすることが夢だったといいますから、野球には縁があったのでしょう。

小さな頃から大の野球好きだった好胤は、凝胤が外出する時を狙っては、寺の拝観が終わると近所の子どもや、ほかの弟子たちと、なんと薬師寺の境内で野球をしていたと言います。

国宝三重塔に向かって打ち、二層を超えたらホームランという、とんでもないルールだったとか。打球を当てて破損させたら冗談ではすみませんね。

凝胤もうすうす気付いていたようで、外出の際は「まり遊びなどするでないぞ」と弟子たちに告げていました。

ご法度破りの薬師寺境内の野球は、近所の農家から凝胤の耳に入り、好胤たちはもれなくお仕置きされたそうです。

 

憧れであった野球部に入部したものの、読経の稽古があるため、練習は30分で切り上げさせてもらい、それでも半年後にはレギュラー候補になったと言いますから、相当筋はよかったのでしょう。

ますます練習に打ち込みたい矢先、中学で野球をしていることが凝胤に知られてしまいます。

凝胤からは退部するよう言いつけられましたが、どうしても野球から離れがたかった好胤は、マネージャーとしてこっそりと野球部で活動を続けました。

この時期、好胤が凝胤から叱られる理由の第一はお経の覚えが悪いこと、第二は居眠り、そして第三は野球だったそうです。

しかし師匠のことを「鬼より怖い」としながらも、自らの意思をぶつけ続ける好胤少年の姿に、後の伽藍復興事業で見せた意志の強さの片鱗が見えますね。

凝胤は相撲は好きでしたが、野球は毛嫌いしており、長らく薬師寺内では野球の話はタブーだったようです。

戦後、好胤が薬師寺副住職になった後のある日、好胤が部屋で音を小さく絞ってラジオの野球中継をこっそり聞いていると、その場を凝胤に踏み込まれたことがありました。

「野球というのは、そんなに面白いか」「はい面白いです」

そんなやり取りがあった後、好胤は一度野球を凝胤に見せてあげたいと思い、怒鳴られるのを覚悟で声をかけたところ、よほど機嫌がよかったのか凝胤は快諾し、二人で難波の大阪球場へナイター観戦に行くことになりました。

野球を全く知らない凝胤は、ルールから試合の内容まで、全て解説するよう好胤に言い、好胤は身振り手振りも交えて、師匠に野球を説明しました。

8回裏の攻防が終わり、帰りの電車が混雑するのを気遣った好胤が、そろそろ帰りましょうかというと、凝胤は「帰りたかったら、お前、先に帰れ。今ええところや、わしは見ている」と答えたので、最後まで二人で観戦しました。

後に好胤は、野球を知らない師父(凝胤)が、1試合見ただけで野球がおもしろくなったはずはない、凝胤の言葉は、好胤に好きな野球を最後まで見せてやりたいという思いから出た言葉だったと述懐しています。

しかし、この野球観戦で好胤の解説がいかばかりか野球の面白さを凝胤に伝わったこともあったのでしょう。この野球観戦以後、薬師寺内で野球の話題やニュース、実況中継はタブーではなくなり、凝胤自身もスポーツニュースに聞き耳を立てるようになったそうです。

戦争の混乱の中で

1941(昭和16)年の春、郡山中学を卒業した好胤は、龍谷大学予科へ進学します。

西ノ京から京都まで、近鉄電車で4~50分ほどでしょうか。

この通学電車に毎日乗り合わせる女学生がいました。

好胤は日増しにその女学生のことが気になるようになり、大学でも寺でも、彼女のことを考えると楽しく、たまに車内で目が合うとドキドキと胸の高鳴りがとまらないようになります。名前もどこの学校の生徒かも知らない女学生でした。

初めて味わう自分の感情に戸惑った好胤は、大学の先輩に相談すると、先輩は「高田君、それはお前、恋をしてるのや」と、こともなげに言いました。

何とか女学生に自分の気持ちを伝えたいと思った好胤でしたが、結局言えずじまいのままとなりました。

戦後軍隊から復学した後、好胤は人づてにその女学生は結核で亡くなったことと、その法名を聞き、お堂での読経の後は、一両年、父母の名に続いて女学生の法名をそっと唱えて菩提を弔っていたそうです。

 

さて、好胤が大学入学した年の12月、真珠湾攻撃により英米蘭と開戦した日本は、当初快進撃を続けたものの戦況は悪化。1943(昭和18)年には文系大学生の徴兵猶予がなくなり、いわゆる学徒出陣が始まります。

龍谷大学に在学していた好胤も1944(昭和19)年に招集され、千葉県四街道の陸軍野戦砲学校に入りました。

入隊後、凝胤からは2~3日おきに便りが届いたといいますから、相当弟子のことが心配だったのでしょう。

戦況が日に日に悪化する中、本土への空襲も激しくなり、奈良の寺院では仏像などの疎開や防空対策がとられ、薬師寺では国宝の吉祥天画像が、山の辺の道沿いにある円照寺に疎開しています。

そして1945(昭和20)年8月15日、好胤は玉音放送を四街道で聞くことになり、好胤の戦争は終わりました。

9月に除隊となった好胤は、超満員の東海道本線に乗り込み、薬師寺へ帰還します。

 

さて、終戦直後の混乱期、占領軍に日本人は奴隷のように扱われるといった類の流言飛語が飛び交う中、好胤の耳にもとんでもない噂が飛び込みます。

それは、アメリカが戦後賠償に、薬師寺の本尊の薬師如来像と日光、月光の両菩薩像を接収しようと計画しているというものでした。

動揺した好胤が、凝胤に「進駐軍が接収に来たら、お堂に火をつけて、寺の者はみんな腹かき切って死にましょう」と涙ながらに訴えると、凝胤は、「わしは、お薬師さんが行かれるところ、アメリカへでも、砂漠へでも、どこへでもついて行く。そこで、毎日、お経をあげる。どこで拝んでも、お薬師さんやないか。お薬師さんに仕えるのが、わしらの務めや」と、決然とした姿勢で諭しました。

どこで拝んでも、お薬師さんやないか

この言葉が、そうか、そのとおりやな、と好胤の心に響いて動揺を静め、好胤もまた、どこまでも、師匠と薬師如来について行く覚悟を定めました。

もちろん仏像を戦後賠償に接収する話は根も葉もない噂で、いつの間にか消えていました。

 

戦争から無事帰還した好胤は、龍谷大学に復学。

仏教学を専攻し、そこで凝胤と並ぶ、終生の師と巡り合うことになるのですが、続きは次回にお話ししたいと思います。

 

<参考文献>

次回はこちらです。

 

www.yamatotsurezure.com

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