大和徒然草子

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仏法の種をまいた名僧、高田好胤(7)

皆さんこんにちは。

 

百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を興した、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。

 

金堂再建の最後の難関であった木材の調達をクリアし、無事起工式と上棟式を終えて、工事は順調に進みました。

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いよいよ、金堂再建も佳境となった1973(昭和48)年、棟梁西岡常一は一通の上申書を好胤へ送ります。

西塔再建の上申書

写経の数が50万巻に到達した1973年8月、西岡は常々心に抱いていた、西塔再建の思いを綴った上申書を、好胤に手渡しました。

両塔並び立つ姿こそ、薬師寺本来の姿であり、金堂完成の暁にはなんとしても西塔を再建させなければならない。多くの人々に仏法の種をまいてこられた管長さま(好胤)ならば、必ずや西塔を再建すると信じている。どうかその大願を宣言してほしい。

と西岡は、「大工常一 謹み伏して申し上げ奉りまする」で始まる墨書で、その思いを切々と訴えたのです。

この上申書を受け取った好胤は、

「西岡さんは、ひどい目にあわす人や。私の代では金堂だけでもうええと思っとったのに」

と、笑って答えただけでした。

後に好胤は「この上申書は表装して寺宝とすべき」と語り、西岡は「そんなら、もっとと上手な字で書いておけばよかった」と照れたと言いますが、実のところ、好胤はこの時点で、西塔再建に前向きな気持ちではありませんでした。

 

金堂再建だけで精一杯であったこともありますが、西塔再建に宗教的使命を見出せずにいたことが、大きな要因でした。

 

どこの寺も、塔をは一つ。

二つあったものが一つ残り、なぜ今、また建てなければならないのか。

 

伽藍栄えて仏心滅ぶというようなことがあっては絶対にならない。

宗教的使命にもとづく情熱が沸き上がってこない限り、西塔再建の着工はしないと、好胤は心に決め、周りにもそう伝えました。

 

好胤が後に西塔復興をはじめとした伽藍復興に、心のかじを切る切っ掛けは、写経勧進に対する好胤の大きな心情の変化にありました。

当初、金堂復興のために始めた写経勧進でしたが、写経が目標の100万巻に届こうとするころには、広く多くの人々に写経を行ってもらうことにこそ大きな意義があり、金堂の建設は二義的なものという気持ちになっていったのです。

金堂復興の手段であった写経が、写経こそが目的であり、金堂建設は多くの人に写経をしてもらうための手段であるという、宗教的心情の大きな転換が、好胤の中で起こっていました。

この心情の変化を好胤は後にその著書『薬師寺への誘い』の中で、こう述懐しています。

「目的であった金堂復興よりも、お写経勧進の方がさらに大いなる目的になってまいりました。はじめは目的だった金堂が、逆に、お写経という浄縁を広めるための手段、方便として仏様がお示しになったのではないかと思うようになりました」

仏法を人々に広める勧進こそが僧侶の使命であり、その切っ掛けとしての堂塔復興。

好胤の中で、薬師寺の伽藍復興とその宗教的使命が、徐々に一致していくようになっていきました。

金堂落慶

1975(昭和50)年11月、ついに写経勧進で収められた写経が100万巻を超えました。

1968(昭和43)年に始まった写経は、7年という予想を大きく上回るスピードで、目標に達したのです。

木造の構造物に鉄筋コンクリートを接ぐという、古今未曾有の難工事となった金堂再建工事も、完成間近となり、工事関係者とも相談の上、落慶は1976(昭和51)年春と決まりました。

落慶法要の準備は、それまで金堂復興事務局長を務めていた薬師寺執事長の安田瑛胤が、好胤から指名されて専任することになります。

会場の設営から式次第、会場警備や警察、各種公共交通機関との調整など、膨大な作業を遅滞なく進める必要があり、好胤としては写経勧進の実務を円滑に進めた瑛胤なら、安心して任せられると考えたのでしょう。

瑛胤のもと、準備は着々と進められ、落慶法要の日取りは4月1日から5日までとし、6日から5月9日までは写経をしてもらった人に広く参拝してもらう案内日としました。

そして法要や儀式は金堂の前庭に舞台を組んで行うこととなりました。

 

1976年4月1日、好天の中、1万人の参列者を集めて金堂の落慶法要は挙行されました。

鴟尾を覆っていた白布が取り払われ、白鳳の大金堂が消失から450年の時を越えて、その姿を人々の前に現したのです。

落慶法要はおおむね好天に恵まれましたが、餅撒きをした5月3日は、法要が始まると雨が降り出し、参列者の中にはお堂に入れず濡れている人がいました。好胤は屋内に入ることもできましたが、このままでよいと首を振り、雨の中で濡れながら読経を続けたと言います。

 

結願となる5月9日の夜、好胤は人々の願いの詰まった写経が納められた金堂を見上げ、「南無金堂大菩薩、南無金堂大菩薩」と涙ぐみつつ、何度も唱えました。

好胤にとって金堂は、現世で仏法を広め続ける菩薩と映ったのでしょう。

 

法要と案内日をあわせた39日間の参列者と拝観者は35万人。

その間にも写経勧進は行われ、5万3千巻を数えました。

そして金堂落慶の頃、薬師寺には写経勧進で11億円が集まっていた他、財界からの寄進が4億円、一般からの寄進が5億円で、合計20億円と、当初の目標額に倍する浄財が集まっていたのです。

 

西塔再建、伽藍復興の決意

金堂の落慶法要が明日を持って終わるという1976年5月8日、好胤は西塔再建をようやく決心します。

棟梁の西岡から上申書を受け取ってから、すでに3年の月日が流れていました。

「両塔並び立つ姿こそ、薬師寺本来の姿である」

西岡の上申のインパクトは強く、好胤にとって西塔は「あったほうがよい」から「なくてはならない」に徐々に変わっていきました。

また、金堂落慶後も、多くの人々から写経が集まり続けていたことも、好胤の決意を後押ししたことでしょう。

写経が100万巻に近づくころから、好胤の心情の中では金堂再建は写経勧進を進める手段であり、僧侶として仏法を人々に広める写経勧進こそが目的となっており、金堂に続けて西塔を再建することは、好胤の宗教的使命感と一致していたのです。

 

さらに、西岡棟梁以下、金堂再建を通して伝統建築の腕を磨いた、日本全国から集まった多くの大工たちが、当時の薬師寺にはいました。

金堂再建が終わり、せっかく身につけた技術を活かすことなく、このまま彼らを各地に帰らせてしまうのは惜しく、伝統建築の技法を伝承していくうえでも、西塔やその後の伽藍再建を継続していくことは、意義あることに思われました。

そして、幻の白鳳古建築を確かな考証のもとに蘇らせた太田博太郎ら、建築の碩学たちも健在でした。彼らがいれば、誰も見たことのない白鳳の伽藍も、金堂再建で得た知見をもとに設計できるに違いありません。

 

資金は写経勧進を継続すれば、道は開かれるという手ごたえを感じていました。

用材は、金堂再建の際、後の伽藍復興を見越していた西岡棟梁と執事長の安田瑛胤が、好胤には内緒で確保しており、この時、ヒトもモノも全てが揃っていたのです。

 

この時期を逃してはならない。

 

昭和まで伝えられた古代建築の技術を、西塔再建に活かすことが薬師寺の使命と思った好胤は、ついに西塔再建を決意したのです。

 

さて、好胤の決断により、西塔の再建はとんとん拍子に進んだかと言えば、実はそう簡単には進みませんでした。

西塔再建で、大きな問題となったのが「景観」です。

現在では東西両塔が並び立つ薬師寺は、西ノ京を代表する景観となっているため、意外に思われるかもしれませんが、当時、西塔再建は、伝統的景観を破壊するものとして、非難する声が決して小さくなかったのです。

再建された金堂すら、「博覧会のパビリオン」という批判の声があったほどで、東塔や東院堂といった古建築の古色蒼然とした姿こそ美しく、真新しい建築に対する批判は、現在以上に大変強かった。特に文化人を中心に景観破壊という批判の声が巻き起こりました。

和辻哲郎の「古寺巡礼」以来、西洋美術を取り入れ、寺社、仏像を美術として鑑賞する流れが主流となり、こと奈良の古寺社は「滅びゆく中の美」という見方がすっかり定着していたんですね。

唐招提寺との間にある、薬師寺の崩れた土塀こそが美しい、という見方が大いにもてはやされもし、現在でもそういう見方は決して少数ではないでしょう。

西塔再建にとって非常に大きなハードルだったのは、薬師寺古都保存法によって定められた風致地区にあり、ここに新たな建築や、建築物の修復、再建を行うには、官庁の許可が必要で、その許可を得るには、奈良県から諮問を受ける古都風致保存審議会の賛同が不可欠であったことです。

当時の風致保存審議会の主要メンバーは、その多くが景観破壊を理由として、西塔再建には反対の意思を示しており、高いハードルになっていたのです。

 

この時、再建反対の審議会委員の学者たちを、説得して回ったのが執事長の安田瑛胤でした。

瑛胤にとって寺や仏像は、好胤の考えと同じく、あくまで祈りの場であり、信仰の対象であり、薬師寺は美しい古代寺院の「遺構」ではなく、あくまで「生きた宗教の寺」であるべきと考えていたのです。

歴史ある寺院には千数百年前に建てられた建築もあれば、平安、鎌倉様々な時代のものがある。昭和に何もできなかったら、その時代の僧侶は、何しとったんやとなる。

瑛胤はあふれる熱意を抑えることなく、再建反対の審議会委員たちに反論しました。

もちろんそのまま残しておくことも大事。戦火で焼かれ、黒く変色した薬師三尊を再び鍍金しようとは思わない。東塔を金堂のように朱く塗りなおしたくもない。歴史の重みとして残ったものはそのまま残しておきたい。しかし、本来その場にあるべきものは、その場に再興したい。生きた宗教というものは生々しいものだ。

瑛胤の必死の説得は、反対していた審議会委員の心に響き、急転直下で西塔再建は許可されました。

当時、薬師寺を訪れたフランスの文化相で著名な作家であったアンドレ・マルローが、「昔、塔があったのなら、建てるべき」と語ったことも、反対世論を変える大きな後押しになったともいわれます。

 

景観破壊という批判を乗り越えた西塔再建は、白鳳伽藍復興にとって大きな突破口となりました。

 

この瑛胤の「生きた宗教の寺」という考えは、西塔に続く伽藍復興、そして近年の東塔修理にも反映されていきました。

東塔の基壇は、千年以上の歳月を経て、7~80cm現在の地面から沈み込んでいることがわかっていました。

西塔再建の際、基壇の高さはこの部分を考慮し、東塔より基壇を高くして、創建時の高さとしたことはよく知られています。

千年たてば、同じ高さになる。

大変長いスパンで経年を考える寺院建築ならではのエピソードですが、2009(平成21)年から2020(令和2)年にかけて行われた東塔の解体修理では、創建時の基壇を保護する形で新たな基壇を築き、東塔の基壇の高さは、金堂、西塔といった他の建築と揃えられました。

一方で、外観は室町時代の改修で白壁に塗り込められた連子格子は復活させず、白壁のままで修理が行われました。時代による形状変化を歴史の重みとして残したんですね。

東塔修理でも基壇の高さをどうすべきか、各層の白壁をそのまま残すか、西塔と同じ連子格子を復活させるか等、様々な議論が行われ、何を復して何を残すかが慎重に検討されたことでしょう。

 

閑話休題。西塔再建の話に戻ります。

金堂落慶の直後から、西岡の手により東塔の調査が進められ、西塔再建の準備が着々と進められていましたが、瑛胤らの努力の甲斐もあり建設許可が下りると1977(昭和52)年10月、ようやく起工式を迎えることができました。

 

西塔では、鉄筋の構造材を使わず、木造で再建することが決まりました。西岡の主張が認められたわけです。

「東塔が千年以上立ってるんですから」「西岡さんの思うようにやってください」

とは、設計を担当した京都大学教授の金多潔の言葉です。

やはり、対となる東塔が残っているという事実が、構造設計を決めるうえでも大きな決め手となりました。

古代建築を在りし日の姿で再建することがようやくできると、棟梁である西岡の喜びもひとしおであったと思います。

理想の建築を追求できる、大工冥利に尽きる仕事であったことでしょう。

 

基本的な設計は東塔を徹底的に調査したうえで、東塔と同様の設計としましたが、外観については、創建当時の連子格子の姿で再建することになりました。

薬師寺東塔(修理後)、西塔

東西両塔は、東塔の方が白鳳の古建築ですが、様式としては東塔は室町の様式で西塔の方が白鳳の古い様式なのです。

 

金堂に続き、西塔の再建が進む中、薬師寺には大きな心配事がありました。

好胤の師である前管主、橋本凝胤の病状が思わしくなく、入退院を繰り返していたことでした。

 

<参考文献>

高田好胤さんのちょっとほっこりする話がいっぱい詰まった伝記です。

西岡常一棟梁の自伝や所縁の人々のインタビューがたくさん掲載されており、薬師寺再建に関するエピソードも満載の一冊です。

次回はこちらです。

 

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