大和徒然草子

奈良県を中心とした散歩や歴史の話題、その他プロ野球(特に阪神)など雑多なことを書いてます。

仏法の種をまいた名僧、高田好胤(9)

皆さんこんにちは。

 

百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を興した、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。

 

景観問題を乗り越え、1981(昭和56)年4月1日、ついに西塔は再建されました。

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西塔落慶法要の挨拶で、好胤が西塔再建を提言した棟梁西岡常一を壇上にあげ、写経した人々への挨拶を促すと、西岡は持ち前の諧謔で、好胤へ白鳳伽藍のさらなる復興を促します。

「私が西塔の仕事をさせてもらっていましたら、スズメが飛んできて『ちゅうもん(中門)、ちゅうもん』と鳴きました。また、カラスが『かいろう(回廊)、かいろう』、ハトは『コードー(講堂)、コードー』と鳴きよります。」

西岡の提言に、その場で好胤は中門・回廊の再建を宣言。

薬師寺の白鳳伽藍復興は、さらにアクセルが踏まれることになりました。

玄奘三蔵院伽藍の構想

薬師寺法相宗の寺院です。

法相宗の開祖は、『西遊記』で知られる玄奘三蔵で、1942(昭和17)年に南京市内で旧日本軍によって、その頭骨が納められた墓が発見されます。

当時の南京政府汪兆銘政権)との話し合いの結果、骨の一部は仏教国である日本に贈与され、埼玉県の慈恩寺に奉安されました。

西塔再建が進む1979(昭和54)年、その慈恩寺から、玄奘の遺骨を薬師寺へ分骨しないかと打診がありました。

好胤はこの申し出を受け、玄奘の遺骨を納めて、その業績を顕彰する伽藍の造営を構想します。

後に玄奘三蔵院伽藍として実現するこの構想を、好胤が思い立った大きな理由は、『西遊記』に登場する虚構のキャラクターとしての玄奘像だけが、巷間に広く流布されていることを打開するためだったようです。

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実際の玄奘は、単身国禁を犯してインドにわたり、唯識教学を研鑽して、多数の経典を唐に持ち帰り、漢語に翻訳した人物でした。

写経勧進で多くの人々が写経した般若心経も、玄奘が漢訳したものです。

また、薬師寺の伽藍配置も、金堂や三重塔に備えられた裳階(もこし)も、玄奘が著した『大唐西域記』の記述に由来するものでした。

法相宗の開祖であるばかりでなく、薬師寺と数々の縁をもつ玄奘

その縁に思いを寄せて、好胤は白鳳の頃には存在しなかった玄奘三蔵院伽藍の造営を発願しました。

 

西塔が落慶した1981(昭和56)年、玄奘の遺骨は薬師寺に分骨され、いったん完成した西塔に納められました。

そして中門の設計が進められる中、棟梁の西岡は、伽藍造営に要するヒノキ材を調達すべく、台湾に飛びます。

中門の設計、工事が進む中、昭和の新伽藍として玄奘三蔵院伽藍の造営準備も、着々と進められていったのです。

 

昭和天皇行幸

1982(昭和57)年に起工した中門再建工事は2年で完了し、1984(昭和59)年10月8日、落慶の日を迎えました。

薬師寺中門

落慶当日「扉開きの儀」は行われましたが、「通り初め」は行われませんでした。

 

この年、奈良では「わかくさ国体」こと第39回国民体育大会が開催され、昭和天皇が開会式の前日10月11日に奈良に来訪することが決まり、この日、唐招提寺薬師寺行幸することになっていました。それならば、天皇陛下に通り初めをしていただこう、という運びになったわけです。

当日は、執事長の安田瑛胤がご先導、好胤がご案内という役回りとなりました。

昭和天皇は必ず先導に続いて歩く決まりになっており、これには好胤も「困ったな」となりました。

県の担当者も、天皇陛下は通り初めにおこしになったのではないから、必ず先導役が先に門をくぐるよう、念押ししていたといいます。

このままだと瑛胤が最初に門をくぐることになる。好胤は「執事長、あんたのために中門を建てたのではないからな。天皇陛下に初のお通りをしていただく」と瑛胤に言い含めました。

瑛胤は、昭和天皇と同時に門をくぐることで、なんとか好胤から与えられたミッションをクリアします。

 

境内に入った昭和天皇を迎えた好胤は、東塔を見上げ、青空説法で修学旅行生たちを魅了した、いつもの調子で案内を始めました。

「この三重塔は一階にも、二階にも、三階にも裳階、つまりスカートを着けています。こんな形の塔はほかにありません。ですから、この塔はスカーッとして美しいのです」

いつもなら修学旅行生がドッと沸くくだりに、昭和天皇は反応しません。

めげずに好胤は続けます。

「そういうわけで、この塔は三階ですが、六階に見えます。六階に見えますが三階なのです。どうぞ誤解(五階)のないように」

いつもなら、ここで再び笑いがおきますが、昭和天皇は表情を崩さず、いつもの調子で応えました。

「あ、そう」

昭和天皇としては、好胤の説明に真剣に聞き入っていたのだと思いますが、笑わない天皇に好胤はますます畏まったそうです。

金堂の案内では、昭和天皇も少し気持ちがほぐれてきたのでしょう、笑顔も見えたそうで、天武天皇が発願し、持統天皇によって建立されて以来の、昭和天皇による薬師寺行幸はつつがなく終了しました。

 

好胤遷化

中門が完成した1984年、玄奘三蔵院伽藍が着工。翌1985(昭和60)年には上棟式が挙行されました。

また、並行して大講堂、回廊の再建準備も着手されます。

7年の歳月をかけ1991(平成3)年に玄奘三蔵院伽藍は落慶

玄奘三蔵院伽藍・玄奘

伽藍の中央に立つ、玄奘塔に掲げられた「不東」の扁額は、経典を持ち帰るまでは故国の方角(東)を振り返らないという、玄奘の決意を示すもので、好胤の揮毫によるものです。

また、この年、写経はついに500万巻に到達しました。

 

玄奘三蔵院伽藍に続き、大講堂の再建が始まろうとしていました。

大講堂と回廊が完成すれば、白鳳伽藍の復興は、ほぼ完了です。

大講堂の基本設計は棟梁である西岡が行い、完成すれば薬師寺最大の木造建築物となります。

着々と準備が進み、起工を目前にした1995(平成7)年、薬師寺に大きな衝撃が走りました。

4月、白鳳伽藍再建の現場指揮を執り続けた棟梁、西岡常一が癌のため世を去ったのです。

西岡は晩年、病気もあって工事の第一線から退いてはいましたが、現場の大工たちに愛され、精神的支柱でもあり、薬師寺にとっても大きな損失でした。

さらに、同年1月に発生した阪神淡路大震災によって建築基準法が大幅に改正され、西岡の遺した基本設計による木造の伝統建築では、大講堂が建設できない見込みとなってしまったのです。

 

木造の伝統建築による大講堂再建は、亡き西岡の悲願であり、西岡を慕って全国から集まった大工たちの願いでもありました。

伽藍の再建を木造にこだわった好胤も、可能な限り西岡の基本設計をベースとした再建を強く望んだことは、想像に難くありません。

設計建築委員会で検討を重ねた結果、常一の基本設計を軸にあらゆる分野で耐震補強設計が加えられ、構造の強度実験を繰り返し実施することで再建を目指すことが決められ、1996(平成8)年に起工しました。

 

大講堂が起工した1996年の11月、好胤は法話中、脳梗塞に倒れ、以後入退院を繰り返し、第一線から離れることになります。

その翌年、1997(平成9)年、折から進められていた構造実験の結果、ようやく大講堂の建築許可が下り、西岡棟梁の基本設計をベースラインとした大講堂の施工がついに開始されました。

 

翌1998(平成10)年初頭、脳梗塞に加え、胆石の悪化を併発、胆嚢癌を発症していた好胤に、母校であった龍谷大学の校友会から一つの賞が贈られます。

毎年、顕著な成果を収めた卒業生、1名に贈られる「龍谷賞」という賞でした。

好胤は、自身の名誉に関心がなく、僧侶は世間の栄誉を受けるべきではないという考えから、あらゆる褒章、叙勲を固辞してきましたが、病床で受賞の報を聞くと、「校友からいただくのならありがたい」と答え、人生で唯一の賞を受けました。

京都で行われた贈呈式には、好胤に代わって娘の都耶子と龍谷大学出身の薬師寺の僧8名が出席したといいます。

 

そして、同年6月22日の朝、多くの人々に愛された好胤は、静かに息を引き取りました。

薬師寺別當 探題大僧正 好胤大和上 遷化 享年74。

 

好胤さんが遺したもの

好胤さんの死後も、写経と白鳳伽藍の復興は、後進の人々によって受け継がれています。

2003(平成15)年、7年の歳月を経て、大講堂は落慶しました。

大講堂

その後、回廊食堂と再建が進み、白鳳伽藍の再興は、ほぼ一段落したといってよいでしょう。

 

好胤さんが遺したものは、今や薬師寺だけにとどまらなくなっています

広く人々に仏法を広げる勧進によって浄財を募り、寺院の維持や堂塔の再建・修理を進めるというスキームは、現代を生きる伝統寺院の、一つのスタンダードとなりました。

また、一度失われたかつての巨大な堂宇を、古式の建築をベースに再建できるようになったのも、白鳳伽藍復興で培われたノウハウが大きく寄与しています。

薬師寺の伽藍復興がなければ、2018(平成30)年に落慶した、興福寺中金堂の復興もなかったのではないでしょうか。

 

2020(令和元)年8月、薬師寺では加藤朝胤さんが新たな管主に就任されました。

朝胤さんは、好胤さんの直弟子で、先代までの薬師寺管主は全て好胤さんの師匠である橋本凝胤さんのお弟子さんたちでしたから、令和を迎えて、ついに薬師寺は、好胤さん門下の世代が中心になったことになります。

優れた経営者は「お金を遺すのが下、事業を遺すのが中、人を遺すのが最上」ともいわれます。

好胤さんは「写経勧進」という大きな事業を薬師寺に遺しました。

その師である凝胤さんのように、好胤さんが多くの優れた弟子を遺したと、寺院経営者として評価されるかは、これからの薬師寺で活躍される僧侶の皆さんの、ご活躍にかかっているかと思います。

※とくに前管主がいささか不名誉な異性問題で退任したこともあり、是非とも薬師寺や仏教界を盛り上げていくような、生き生きとした取り組みを一段と進められることを、期待しています。

 

好胤さんは、高度経済成長期、お金と効率が何よりも重んじられた時代に、「物で栄えて、心で滅ぶ」と語り続けた人です。

難解な唯識教学を修め、常人には理解困難な仏教教学から得られる、生きるための様々なヒントを、誰にでもわかる言葉で伝え続けた人でした。

現代的な僧侶の在り方、仏法興隆の在り方を身をもって示し、広く人々に仏法の種をまき続けた名僧の言葉は、今も我々の心に刺さり続けるのです。

 

最後に、好胤さんに関連した動画を、いくつかご紹介しておこうと思います。

こちらは奈良テレビで放送された、写経勧進にまつわる動画です。

www.youtube.com

こちらは、好胤さんの肉声の法話が聞ける動画になります。

www.youtube.com

 

<参考文献>

高田好胤さんのちょっとほっこりする話がいっぱい詰まった伝記です。