皆さんこんにちは
奈良県内で、江戸時代以前の古い町並みを残す場所といえば、あまりにも有名なのが橿原市の今井町ですが、同じ橿原市内に、今井町と並ぶ古い町屋の集中地区があることを、ご存知ですか。
その町は、橿原市の中心鉄道駅、近鉄大和八木駅の東側にある八木地区です。
交通アクセスも良く、散策にもおすすめの場所になります。
八木町とは
八木の場所はこちら。北八木町、八木町、南八木町にまたがるエリアになります
八木は、古代の官道で奈良盆地を東西に貫く横大路と、南北に貫く下ツ道の交差点を中心に発展した町になります。
中世以降、横大路は河内と伊勢を結ぶ伊勢街道(初瀬街道)、下ツ道は京都、奈良から吉野、紀伊へとつながる中街道となり、当時の古文書には「数百間の屋形」が立つ「矢木市」として、早くも町の名が現れます。
この地は、伊勢街道から北は十市郡、南は高市郡となる郡境で、戦国時代は北の十市氏と南の越智氏が争うと、係争地として都度町が兵火で焼かれました。
江戸時代に入って太平の世になると、町は急速に発展。
八木は街道の交差点であることから宿駅として成長し、江戸中期以降、吉野や高野詣、大和巡りや伊勢参りの旅人が、全国から集まりました。
北八木町
それでは八木の町へ。
近鉄大和八木駅から東へ向かい、中街道に達すると、早速趣ある古い町屋が姿を現します。
こちらは旧高取銀札引替所だった町屋(河合家住宅)。
白い漆喰が美しいですね。
中街道沿いに松尾芭蕉の句碑がありました。
草臥(くたびれ)れて 宿かる比(ころ)や 藤の花
1709(宝永6)年刊行の俳諧紀行である『笈の小文』に納められた一句。
当時の芭蕉は、故郷の伊賀上野を出て江戸深川を拠点としており、伊勢から吉野、大和、紀伊を巡っていた時、八木に立ち寄りました。
八木札ノ辻交流館
中街道と伊勢街道の交差点は八木札の辻と呼ばれ、八木の町内でも特に賑わいを見せた界隈です。
ちなみにこの場所は日本最初の官道(=国道)が交わる交差点なので、日本一古い国道交差点ということになりますね。
幕末の1853(嘉永6)年に刊行された西国三十三ヶ所名所図会にも「八木札街(やぎふだのつじ)」として紹介されています。
交差点の中心に札場と六角形の井戸があり、多くの人が往来している様子がわかりますね。
現在、交差点の北東には、18世紀後半~19世紀前半にかけて建てられた旧旅籠(東の平田家)が、橿原市の八木札の辻交流館として、無料で公開されています。
こちらは、旅籠に遺された講看板。
講とは江戸時代、寺社参詣にかかる高額な旅費を積み立てる相互扶助組織で、講員が安心して泊まれる旅籠を定宿として決めていました。
講看板と反物を旅籠に納めることで定宿の契約が成立し、講看板は旅籠で常時保管されます。事前に連絡を受けると、講員の到着予定日に旅籠の軒下に講看板が吊るされ、初めての講員でも、定宿を簡単に見つけることができる仕組みでした。
交流館1階の帳場と座敷。
綺麗な中庭です。
2階の客間。こちらは一番広い8畳のお部屋です。
6つの客間があり、障子で仕切られていたのかと思います。
江戸時代の旅籠を気軽に見学できる施設は貴重ですので、ぜひお立ち寄りを。
こちらは八木札の辻交流館の西向いにある西の平田家。こちらも旧旅籠でした。
丸い郵便ポストがノスタルジー満点です。
こちらは、西国三十三ヶ所名所図会にも描かれた六角形の井戸の跡。
旧伊勢街道の道路を整備するときに、半分に切り取られてしまったようです。
センタイバ(接待場)
札の辻から伊勢街道を西に向かと、「センタイバ」の跡と伝わる場所があります。
八木の人々が、伊勢参りの旅人に湯茶や食事をふるまう、お接待を行う場所でした。
現在は常夜灯と、案内板だけが残ります。
こちらは、当時のセンタイバの様子を記した絵。
江戸時代、庶民の暮らしは決して裕福ではありませんでしたが、お接待という慣習が、寺社参詣する旅人の大きな助けになって、多くの旅人を支えていたんですね。
旅行は一種の贅沢ですが、講やお接待など、貧しい人でも旅に出られる仕組みを備えた江戸の社会は、扶け合いの精神がとても豊かな社会であったことが偲ばれます。
かつてセンタイバに立っていた大神宮の常夜灯。
1771(明和8)年の銘があり、現存し刻銘がある大神宮の常夜灯としては最古級のものになります。
現在は、近鉄大和八木駅の南側、センタイバ跡から西に200mほど移動した伊勢街道沿いに、移設されています。
八木町(伊勢街道より南)
さて、再び中街道沿いに南下します。
こちらは江戸末期の儒者、谷三山生家。
三山は15、6歳で聴力を失い、晩年失明しますが、勉学に励み、大儒学者となった人物です。
1802(享和2)年に八木町の商家に生まれ、京都に兄とともに遊学した三山は正史経学に励み、帰郷後私塾「興譲館」を開いて、多くの門弟を育てました。
1849(嘉永2)年、高取藩から士分に取り立てられ、藩政にも数々の提言を行った人物です。
その学識は、当時大学者として知られた頼山陽にも認められた他、若き日の吉田松陰も三山の元を訪れ、故郷に宛てた手紙の中で「生涯寅次郎(松陰)の高師と敬うべき方」「師の師たる人」と書き、心酔していたことが伺えます。
恥ずかしながら、私は谷三山のことは、八木町を訪れるまでは知らなかったのですが、聴力、視力を失いながらも、そのハンディキャップを乗り越えて、多くの人々に影響を与えた三山は、もっと多くの人に知っていただきたい人物かと思いました。
こちらは高取藩下屋敷跡(福島家住宅)。
ちなみに江戸時代、八木町の伊勢街道から北側は郡山藩、のちに幕府直轄領で、南側は高取藩領でした。
現在の八木町界隈。
いい感じの町屋がたくさん並びます。
タバコ屋さんの雨戸とタイル張りがお洒落な町屋。
町並み保存地区ではないので、自治体で保存されている建物以外は、いずれ建て替えなどで姿を消していくものも少なくないと思いますが、令和になってもこれだけの町屋が残っているのは、貴重な場所だなとしみじみ感じました。
畝傍駅以南
さて、中街道を国道166号線の交差点まで下ると、JR桜井線の畝傍駅があります。
1893(明治26)年開業。現在の駅舎は皇紀2600年を記念し、1940(昭和15)年の昭和天皇行幸に際して建設されたものです。
駅舎内の天井は格式高い格天井。
木組みの屋根が見事です。
現在のプラットホーム。
こちらは皇室用貴賓室へ通じる通路。
残念ながら通常非公開で、扉にも蓋がされています。
現在皇族方が橿原神宮に参拝する折は近鉄を利用されるので、おそらく今後、皇室用に利用されることはありません。
通常、一般人が貴賓室に出入りすることはありませんので、文化財として、ぜひ活用してほしいと思います。
2014年3月に特別公開された際の動画がありましたのでリンクしました。
内部の様子がよくわかります。
1837(天保8)年創業の造り酒屋、竹の里酒造株式会社の町屋。
現在は日本酒の製造は行っておられないようですが、かの大作曲家山田耕筰はこちらの日本酒がお気に入りだったようで、直接注文するほどだったとのこと。
JR桜井線より南側は、昭和レトロな町並みが続きます。
スプライトのブリキ看板がいい味出してます。
中街道を南に進むと、おふさ観音があります。
1650(慶安3)年の創建。正式なお名前は、「十無量山 観音寺」です。
境内は入場無料で、本堂の拝観は300円となっています。
境内は3800種類、4000株のバラで埋め尽くされ、参拝客をお迎えしてくれます。
間口は狭いですが、非常に奥行きのあるお寺で、境内の奥には茶房もあるので、散策の休憩に立ち寄るのもおすすめです。
バラ祭りや風鈴祭りなど、境内を開放して行われる季節の催しも楽しいお寺です。
中街道を南下し、町内の南端、飛鳥川に架かる橋の前に立つ常夜灯。
これを見ると街道筋だなあと感じます。
飛鳥川西岸の道筋にあった道標。
「八木ステーション」とあるので、大和八木駅が開業した1923(大正12)年以降に建てられたものでしょう。
石の道標って雰囲気出ますよね。
近鉄の大和八木駅は京都から吉野までを結ぶ南北の路線と、大阪から名古屋、伊勢を結ぶ東西の路線の結節点で、今も昔も八木は奈良県内において同じ役割を果たしている町です。
今回初めて、八木の町を中街道を中心に散策しましたが、見所も多く、古い町屋の町並みも残っていて、今井町や五條新町と同様、散策するにはもってこいのエリアだと思いました。
八木は乗り換えで通ることが多い人もいらっしゃるかと思いますが、たまには途中下車して散策されるのもいかがでしょう。
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