皆さんこんにちは。
今回は王寺町の観光プロモーション動画でも有名になった、雪丸ゆかりのお寺、達磨寺をご紹介します。
こちらが話題になった空飛ぶ雪丸の動画。今見てもかわいいです。
達磨寺はコンパクトな境内に、見所がギュッと詰まったお寺です。
達磨寺とは
場所はこちら。JR王寺駅の南口から1kmほどの場所にあります。
創建年は不明ですが、寺伝によると、日本書紀にも記載されている片岡山飢人伝説に由来するとされています。
日本書紀によると、推古天皇21(613)年、聖徳太子(厩戸王)が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会いました。
憐れに思った太子は、衣食を施し、和歌を交し合いましたが、翌日、その異人は亡くなりました。
太子は側近に命じて異人を葬りましたが、後日その棺から遺体は消え、施された衣服が畳まれて棺の上に置かれていました。世人は飢えた異人は達磨大師の化身であるといい、太子は自ら刻んだ達磨大師像を異人の塚の上に祀ったのが、達磨寺の起源とされています。
実際に寺院の形式が整うのは、建久年間(1190~1199年)で、解脱上人(貞慶)によって達磨像や堂宇が改修され、達磨寺と称したのが始まりです。
寺院の形式が整って間もない嘉禄年間(1225~1228年)に、興福寺の焼き討ちに会い焼亡しますが、延応年間(1239~1240年)に京都松尾の法華山寺を開山し、法隆寺東院の舎利殿絵殿修復の願主として知られる勝月(慶政)上人によって再興されました。
室町中期の永享年間には、建仁寺の南峯禅師が住持となり、将軍足利義教や山名時熈ら幕府の援助もあって中興されます。
永禄年間(1558~1570年)に大和に侵攻した松永久秀の手により、再び焼亡しましたが、正親町天皇の綸旨と豊臣秀頼によって再建され、1602(慶長7)年に徳川家康から30石の朱印地を安堵されました。
下は1791(寛政3)年刊行の『大和名所図会』に掲載された達磨寺の絵図です。
ほぼ現在と同じ伽藍配置になっています。
本堂や方丈の他、雪丸像や松永久秀の墓、問答石、薬師石なども描かれていることがわかりますね。
創建に伴う縁起「片岡山飢人伝説」のインパクトの強さが、太子信仰とも相まって、たくさんの参拝者を呼び込んでいたのでしょう。
達磨寺境内
それでは境内です。
西門。こちらは王寺駅や達磨寺の駐車場(10数台駐車可・無料)から参拝する人は、ほとんど利用する門になるかと思います。
こちらは山門(南門)です。本堂前の広場は開放されていて、近所の子どもたちが元気に遊んでいました。
こちらは、2004(平成16)年再建の本堂。
非常に基壇が高いことにお気付きかもしれませんが、実は6世紀頃築造されたと推定される、古墳(達磨寺3号墳・達磨塚)の上に、お堂が立っています。
古墳は、達磨大師の化身とされた異人の塚と、地元では伝えられてきました。
本堂は平日は原則閉じられていますが、土日は開扉され、無料で拝観が可能です。
私が訪れたのは平日でしたが、この日は運よく開扉されており、ご本尊を拝観させていただくことができました。
本尊は三つの木製坐像です。
聖徳太子坐像、達磨坐像は国の重要文化財、千手観音坐像も王寺町指定の文化財となっています。
聖徳太子坐像は1277(建治3)年、達磨坐像は1430(永享2)年と作成年代が明らかで、千手観音像も室町時代の復興期に作成されたものと推測されていますが、この像だけ製作年が明らかでありません。
こちらも室町期の作製が立証されれば、まちがいなく重要文化財に指定されるであろう見事な仏様です。
どちらの像も迫力ある坐像で、必見の仏様です。
また、仏像以外にも境内からの出土品も、本堂内でお祀りされています。
鎌倉時代の作で、本堂基壇直下の小石室に収められていました。水晶製の舎利容器が特に見事です。
2004年の本堂建て替えの際に発掘調査が行われ、発見されました。
室町時代の作と推定され、2000(平成14)年、本堂裏の達磨寺中興記念石幢の下から、嘉吉2年銘の碑文が発見され、その下に埋められていた大甕です。
こちらは上の大甕に収められていた青磁香炉。
一緒に発掘された碑文から、南峯禅師にゆかりのものではと推測されています。
本堂内には、こんなかわいいダルマさんも展示されていました。
聖徳太子ゆかりの寺であるとともに、臨済宗の禅寺でもあるので、寺名の由来であるダルマさんもしっかりアピールです。
寺名にちなんで、2021年11月20日には、境内で「第1回全国だるまさんがころんだ選手権」が行われました。その時にニュース動画です。
関西なので、掛け声は「坊さんが屁をこいた」ではないのか、という声もちらほらあったとか、なかったとか。
こちらは境内に鎮座している雪丸像。江戸後期の作とされています。
元々は、境内北東にある雪丸の墓と伝承された、達磨寺1号墳(雪丸塚)の上に祀られていた石像です。
雪丸は聖徳太子が飼っていた犬で、人語を解し、経まで読んだと伝わる異能の犬で、自分が死ぬとき「達磨塚の丑寅(北東)に葬るよう」と遺言したとか。
江戸時代以前から伝わるこの石像が、王寺町のマスコットキャラ・雪丸のモデルとなりました。
ちなみにこの像が元旦に鳴くと、その年は豊作になるという伝承が、地元では伝えられています。
片岡八郎と片岡春利の墓。真ん中の一番小さな古い供養塔が元々の片岡八郎の墓かと思います。
片岡八郎は王寺近辺に勢力を持った片岡氏の武士で、鎌倉末期、母が大塔宮護良親王の乳母だったことから、鎌倉幕府倒幕の挙兵に加わり、護良親王が熊野へ逃れる道中、十津川の玉置神社での戦いで討ち死にした人物です。
ちなみに写真左端の供養塔が、八郎の子孫で戦国時代の片岡氏当主だった片岡春利の墓。
春利は筒井順慶の妹を妻に迎え、近隣の片岡城に拠って松永久秀と戦った人物です。
片岡八郎の墓の南側に1940(昭和15)年、皇紀2600年記念事業として建立された、片岡八郎を顕彰する大きな碑があります。
「石心松操」と刻まれています。
南朝方のいわゆる「忠臣」として、明治に入ると片岡八郎は顕彰され、1915(大正4)年には「正五位」が贈られました。
こちらは松永久秀の墓。
1577(天正5)年、織田信長に反旗を翻した松永久秀が信貴山城の戦いで敗亡した後、筒井順慶によってその首を葬られたと伝わる場所です。※家臣が葬ったという説もあるようですね。
一時は幕政を牛耳るほどの権勢を振るった、戦国随一の梟雄の墓としては非常に簡素な供養塔です。
自らが焼き払った達磨寺に葬られるとは、久秀も想像だにしなかったことでしょう。
達磨寺旧本堂の屋根頂部にあった瓦製の露盤です。
銘文から1692(元禄5)年に法隆寺の瓦職人によって作成されたことがわかっています。
こちらは聖徳太子と達磨大師の化身が問答し、歌を詠み交わしたときに腰かけたと伝えられる、問答石になります。
この時両者が詠んだ歌は以下のように伝わっています。
(聖徳太子)
しな照や 片岡山の 飯に飢えて 臥せる旅人 哀れ親なし
(達磨大師)
斑鳩や 富の小川の 絶えばこそ わが大君の 御名を忘れめ
こちらは九重達磨塔。
塔芯には「法華塔」と刻まれ、もとは本堂西側に接して立っていたそうです。
その地下には石室が作られ、小さな石に一字ずつ経典を書写する一字一石経が、大量に納められていました。
江戸時代には、各所で同様のことが盛んにおこなわれていたそうで、塔の刻銘から法華経が納められていたのでしょう。
こちらは本堂裏に立つ重要文化財の達磨寺中興記念石幢とその地下から発掘された嘉吉2年銘の石碑です。
石幢(せきどう)とは六角もしくは八角の石塔で、こちらの石幢は八角柱。
1448(文安5)年、南峯禅師が建立し、各面には荒廃した寺を室町将軍らの手によって復興させたことを記した、『達磨寺中興記』の文面が刻まれています。
嘉吉2年銘の石碑は、2000年に石幢の地下から発掘されたものです。
こちらは境内北東にある達磨寺1号墳こと雪丸塚。
古墳時代後期の円墳です。
雪丸の墓と伝えられ、もともと雪丸像もこの塚の上に祀られていました。
横穴式石室を持ち、この横穴は法隆寺と繋がっていて、聖徳太子が行き来していたとも伝わります。
とりあえず、穴があると所縁の有名人の抜け穴になる例かと思います。
摂政の聖徳太子がこそこそ抜け穴を通って、ここに通う理由は何だったのでしょうね。
こちらは達磨寺2号墳。
達磨寺境内には、6世紀築造と推定される直系15mの円墳が3基あり、達磨寺古墳群と呼ばれます。
1891(明治24)年再建の鐘楼です。
こちらは境内東にある薬師石。
目を閉じて両手で抱くと、病気が治るとされています。
『大和名所図会』にもすでに描かれていて、江戸時代中期以降には、すでに信仰を集めていたと考えられます。
こちらは方丈。
京都の臨済宗寺院ではおなじみの方丈ですが、奈良では珍しい方丈建築です。
しかも、左右非対称で、西側は入母屋ですが、東側が切り妻屋根という全国的にも珍しい建築になっています。
棟札から江戸前期の1667(寛文7)年に建立されたことが分かっており、県指定の重要文化財になっています。
境内各所に桜が植えられており、訪れた時はちょうど桜の季節。
近所の方が花見に来られていました。
達磨寺いかがでしたでしょうか。
決して広くはない境内ですが、聖徳太子や雪丸の伝説、古代の古墳に中世以来の寺院遺構など、見所が凝縮したお寺です。
王寺町というと、鉄道、交通、大阪のベッドタウンというイメージが強い町ですが、達磨寺は王寺町の「観光」面の目玉たりうるスポットかと思います。
電車でもお車でも、交通至便の場所でもありますので、皆さん、ぜひご参拝ください。