大和徒然草子

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中世大和一向宗の拠点・吉野。蓮如創建の飯貝御坊・本善寺は美しい桜と近世真宗建築の宝庫

皆さんこんにちは。

 

吉野で仏教といえば、金峯山寺を中心とした山岳信仰のイメージが強いですよね。

その一方で、吉野が中世、本願寺教団(一向宗門徒の一大拠点だったということを、ほとんどの方はご存知ないかと思います。

 

鎌倉時代親鸞が興した浄土真宗は、室町時代に入ると本願寺8世法主蓮如により、大きく全国へその教線を伸ばしました。

しかし、古代から興福寺東大寺といった大寺院の勢力が強かった奈良、大和国への進出は難しく、北和地域への本格的な進出は興福寺の力が衰える戦国後期まで果たせませんでした。

そんな大和で本願寺教団が最初に教線を伸ばしたのが、北和に比べて南都仏教の影響が小さかった南部の吉野地域です。

 

その吉野で蓮如が布教拠点として創建したのが、奈良県吉野町飯貝御坊本善寺でした。

本善寺は下市御坊願行寺と並んで吉野の一向宗門徒の拠点であり、中世から近世にかけて大和国における本願寺教団の寺院では、最高の寺格を誇りました。

 

※本善寺と並んで一向宗吉野門徒の拠点だった下市御坊・願行寺については、下記の記事をご覧ください。

その高い寺格にふさわしい伽藍が、現在も残る本善寺を今回はご紹介します。

 

本善寺とは

六雄山本善寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、1476(文明8)年、本願寺法主蓮如によって創建されました。

蓮如が1495(明応4)年、生まれたばかりの12男実孝を住職に定めると、以後、歴代住職は本願寺宗家である大谷家と姻戚や後見の関係を重ねたため、室町から江戸時代にかけ、一家衆の中本山として本願寺門徒から格別の崇敬を受けます。

しかし、古代以来の旧仏教勢力が強い大和。

本善寺は興福寺や同じ吉野を根拠とする金峯山寺との確執を、避けることはできませんでした。

1531(享禄4)年には興福寺衆徒によって伽藍を打ち壊された一方で、1534(天文3)年には本善寺の一向宗門徒金峯山寺傘下の大峰山に攻め入り、山上の大峯山寺を焼き討ちにするなど、周囲の他宗勢力と小競り合いを繰り返しつつ、寺勢を強めていきます。

※16世紀の本願寺教団と南都仏教勢力の角逐については、下記の記事も是非ご一読ください。

 

戦国期には吉野の本願寺末寺86ヶ寺を束ねて隆盛を誇り、石山合戦では本山の石山本願寺とともに織田信長に反旗を翻しました。

これが引き金となって、1578(天正6)年に信長の命を受けた筒井順慶の侵攻を受けると、下市の願行寺ともども全山灰燼に帰します。

その後まもなく再建が始まり、江戸時代中期までに現在の伽藍の姿となりました。

1902(明治35)年に本善寺で行われた蓮如上人400回忌法要の様子を描いた版画

江戸期に再建された伽藍は、近世の浄土真宗建築の特徴を今に伝える文化財としても評価が高く、2010(平成22)年に本堂、蓮如堂、蓮如堂拝堂、経堂、鐘楼、茶所、大玄関、客殿、御成御殿、庫裏、山門の11棟が国の登録有形文化財に指定されました。

門前

本善寺のすぐ北側に、吉野川が流れます。

飯貝は山間を蛇行してくる吉野川の流れが、まっずぐ直進を始める場所にあり、古くから吉野川上流で伐採される木材の集積地でした。

本願寺教団はこの立地に着目して、吉野の材木でいかだを組み、吉野川紀の川)の水運を利用して和歌山から大坂に至る木材の販売ルートを開発します。

現在でも近鉄吉野神宮駅周辺の吉野川南岸には、材木業者が集まっていますが、本善寺による吉野木材の販路拡大は、吉野林業発展の大きなきっかけとなりました。

大坂の町を筆頭に本願寺寺内は商業が発達するところが多く、現在まで続く多くの都市の礎になりましたが、飯貝、上市もその例にもれません。

お寺を中心に産業を興して人々を集め、都市を形成していく姿は、城下町を形成した戦国大名の姿と重なります。

北陸の大都市金沢(金沢城は元々蓮如の建てた尾山御坊)は言うに及ばず、下市といい、寺の立地を見ると蓮如の都市デベロッパーとしての才能の高さがうかがえますね。

 

本善寺門前からまっすぐ北に向かうと、桜橋のたもとに柿の葉寿司の名店、平宗の本店があります。

持ち帰りはもちろん、お店の中で食事もできます。

本善寺のすぐ前に道標がありました。

左 たふのみね(とうのみね)

なら いせ

とあります。

道標にどおりに左側へ進むと、吉野川の北岸、伊勢街道の宿場町だった上市の町。

上市は吉野町役場がある吉野町の中心地域で、街道沿いには古くからの町屋も残ります。

こちらもまた時間をかけて、ゆっくりと散策したいです町ですね。

 

道標から南に向かうと、本善寺の山門が見えてきました。

本善寺も願行寺と同様、河岸段丘に建立された寺院で、近世城郭の武者返しを彷彿とさせる高い石垣の上に築かれています。

 

裏手の山は飯貝城

いざというときに門徒たちが立て籠もる詰城だったと考えられています。

本堂の裏に蓮如上人御廟(周囲は墓苑になっているようです)へ向かう参道があり、これが山上の主郭に向かう大手道になっています。

※飯貝城の様子については下記のサイトが詳しいです。

中世以来の寺院には城郭のような防御の備えが遺っていて、戦国の緊張感が伝わってきますね。

境内

本堂

江戸中期(1661~1750年頃)に再建された本堂

内陣の奥に僧侶の出入り口を設けた後門形式の大型本堂で、吉野における中核寺院にふさわしい格調高い仏堂です。

 

願行寺と同じ吉野の中核寺院ですが、建立年代がこちらのほうが新しいため、虹梁や瓦の意匠は願行寺に比べて、江戸期特有のやや凝った造りになっています。

本堂内は解放されていますので、自由にお参りすることができます。

 

本堂前に桜の巨木があり、「懐(おもいの)桜」と呼ばれています。

2代目の住持となった実孝が桜を植え、桜の木を愛した父蓮如を偲んでいたと伝わります。

ちなみに元の木は枯れ、現在の木は枯れた古木の根から出た芽を育てたものとのこと。

春、花が満開となる姿は絶景です。

 

 

恥ずかしながら本善寺を訪れるまで、こちらの桜は知らなかったのですが、なかなかの名木かと思います。

吉野で桜といえば吉野山ですが、「懐桜」も桜の時期には是非チェックしたいですね。

茶所(太鼓楼)

本堂南側の茶所は、1790(寛政2)年の建立。

内部は三層で、1階は参拝者にお茶をふるまう茶所、2階は踊り場で、3階が太鼓楼になっています。

 

太鼓楼は戦国期に物見櫓として使われていたものが、太平の世になってからも様式として伽藍に取り込まれ、真宗寺院にはお馴染みの建築になります。

入母屋造りの茶所の上に太鼓楼が立つ姿は、ほとんどお城の隅櫓。

 

1階にはお茶を沸かす竈が設置されていました。

銘によると1780(安永9)年に、八尾新町(現奈良県田原本町新町)の門徒から奉納されたものです。

大玄関・書院門

17世紀末の建立で、幕末の1860(安政7)年にほぼ改築に等しい修復を受けた客殿の大玄関

唐破風を持つ格式高い建築です。

 

内法の欄間には波、龍、麒麟の豪華な彫刻が施され、虹梁の上に乗る力士像は目つきに愛嬌がありますね。

豪華な衝立に、生け花が出迎えてくれます。

中の客殿、奥の御成御殿(書院)は非公開なのかな。

 

玄関の前の書院門は、例によって普段は閉じられています。

大事な客人を迎える時だけ開く格式高い門です。

庫裏

庫裏は構造から客殿と同時期、江戸中期の17世紀後半から18世紀前半ごろに建てられたとみられます。

僧侶の生活空間であり台所ですが、現役で生活感ありますね。

 

浄土真宗の寺紋というと「下り藤」ですが、「五七桐紋」が鏝(こて)絵で描かれています。

1559(永禄2)年、本願寺11代法主顕如のとき、正親町天皇の綸旨で本願寺が門跡となったため、皇室の副紋であった「五七桐紋」の使用が認められました。

以来、家格の権威を示す紋として使用されています。

台所門

庫裏の前に立つ台所門は、1828(文政11)年の再建。

京都の西本願寺の台所門同様、台所(=庫裏)の前に建つ長屋門で、門番が常駐していました。

 

2階は参拝者の宿泊にも使用されていたとのこと。

2011(平成23)年に修復され、塗りなおされた漆喰がきれいです。

蓮如上人像・蓮如上人歌塚

本堂と蓮如堂の間に蓮如上人像があります。

本善寺は、すでに60歳を超えていた蓮如自ら同行の者たちと汗を流して、建立に取り組んだと伝わります。

吉野に最初に本願寺教団の教線を伸ばしたのは、本願寺3世で、事実上本願寺教団を創設した覚如とその子存覚で、衰退していた吉野での布教を再度活発にしたいという蓮如の強い意志を感じます。

 

蓮如上人歌塚は、もともと蓮如が歌を詠んだ吉野川河畔に建っていましたが、1965(昭和40)年に、本善寺境内に移転されました。

1496(明応5)年5月25日に飯貝御坊で詠んだ歌二首が刻まれています。

 

み吉野の 心とどまる 川づらに すみてもみばや ここに飯貝

名もしるく 波音たかき 吉野川 ちまたの里を むかふにぞ見る

 

当時飯貝御坊に下向した蓮如が、吉野川を前にして見た情景が伝わってきますね。

蓮如堂・拝堂

こちらは1747(延享4)年建立の蓮如

御廟形式のお堂で、厨子に入った蓮如の御影像をお祀りしています。

虹梁や正面桟唐戸に細かな彫刻が施されています。

蓮如堂と拝堂をつなぐ向唐破風造の繫廊は1881(明治14)年に造られました。

 

1748(延享5)年に建立された拝堂

毎年5月1日、2日の蓮如忌法要では四方の戸が解放され、お勤めが行われます。

鐘楼

江戸中期(17世紀後半~18世紀初頭)にかけての建築とされる鐘楼

様式から本堂と同時期の建立とみられます。

元の鐘は四百貫の大きさがありましたが戦争で供出され、現在は1954(昭和29)年に鋳造された二百貫の鐘が吊るされています。

経堂・納骨堂

1792(寛政4)年に

中央に設置された八角輪蔵に浄土経典600巻を収める経蔵で、2004(平成16)年の解体修理で内側周囲に納骨壇を設けて、納骨堂としても現在使用されているお堂です。

2代住職の実孝が入山したとき、親鸞と父蓮如の遺骨を持参して以来、本善寺は蓮如以降の歴代門主の遺骨を欠けることなく分骨されており、この納骨堂に収められています。

 

江戸時代以来の伝統的な浄土真宗建築のお堂が立ち並び、中世以来大和随一の格式をもったことも納得のお寺でした。

 

本善寺の基本情報

住所:奈良県吉野郡吉野町飯貝567

電話:0746-32-2675

拝観無料

 

アクセス:

近鉄大和上市駅吉野神宮駅から徒歩20分

※駐車場はありますが、大きくありませんのでなるべく公共交通機関をご利用ください。

※現地は観光地化されていない静かな町ですので、マナーを守ってお参りください。