大和徒然草子

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仏法の種をまいた名僧、高田好胤(4)

皆さんこんにちは。

 

百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を興した、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。

前回は、結婚、そしてテレビ出演によって全国的な知名度を得るようになり、薬師寺副住職として活躍する好胤の姿をご紹介しました。

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副住職になったあと、独創的な方法で精力的に仏法を広める活動を展開する好胤は、いよいよ白鳳伽藍復興に取り組むこととなります。

金堂復興の誓い

好胤の師であり、薬師寺住職であった橋本凝胤は、70歳を目前にしたころから糖尿病を患っていたこともあり、体力的な衰えを自覚するようになっていました。

そういうこともあってか、好胤には折に触れて住職をゆずりたいと言っていましたが、都度、好胤は断っていました。

橋本凝胤は南都仏教の金看板。師の引退は仏教会全体の損失と好胤は考えていたようです。

「お前はいつまでおれに苦労をさせるのじゃ」

「そりゃ、かわいい弟子のために、もうしばらくは苦労をしてもらわないといけません」

「師匠が、そんなに辞める、といわれるのであれば、私も一緒に副住職を辞めさせてもらいます」

自分の役目は、一人でも多くの修学旅行生や人々に、仏法の種をまくことという思いも強かったのでしょう。

この話題になると好胤は語気を強めて固辞したと言います。

そのようなやり取りを繰り返しながら、好胤が副住職となってから17年の年月が経ちました。

 

1966(昭和41)年の暮れ、凝胤の部屋で火鉢を囲んで師匠と対面していた好胤に、凝胤は庭に生えていた老松を指して言いました。

「おれは、目の黒いうちに、お前の独り立ちする姿が見たいのじゃ」

老松の根元からは若木が伸びていました。

言ってじっと目を閉じている凝胤の姿に、好胤もようやく決心がついたのか頬を濡らしながら答えました。

「お受けいたします」

 

1962(昭和42)年11月18日、好胤が住職就任を本尊に報告し、大衆に披露する晋山式が、行われました。

抜けるような青空の下、集まった人々は1800人を超えたといいます。

白鳳の創建以来、これほどの人々が薬師寺に集またことはおそらくなかったことでしょう。

緋の法衣に金襴の袈裟を纏った好胤は、半纏姿の男衆が担ぐ輿に乗って、江戸初期に建てられた仮金堂の前に準備された式場に現れ、住職就任の表白文を読み上げました。

この時、好胤43歳。文字通りの晴れ姿でした。

晋山式は滞りなく進み、日が西に傾くころ、好胤が登壇します。

好胤は参集した人々にお礼の言葉を述べ、その中で一つの決意を人々に伝えました。

「橋本凝胤というおやじが、生涯かけて新しい金堂ができる日を願っていました」

「戦争がなかったら、おやじは金堂を創建の姿に建て替えて、いまごろは新しい金堂で、薬師如来を拝んでいたと思うんです。私が、無理は、無理は承知でも、新しい金堂を何とかして、みなさんのお力添えをいただいて完成させたいと思います

金堂再建。

それは戦国の争乱で焼失して以来、薬師寺に所縁ある人々の願いであり、戦前、戦後の混乱期を28年間住職として寺を守り続けた凝胤の悲願でもありました。

好胤は師の悲願である金堂復興を成し遂げることが、師へのなによりの報謝になると考えたのです。

 

薬師寺平城京造営により、718(養老2)年に藤原京から現在の一に移転して以来、大きな火災を二度経験しました。

973(天禄973)年の火災で金堂と東西の三重塔以外のすべての堂宇が消失。その後伽藍は再建されましたが、1528(享禄元)年に筒井順興筒井順慶の祖父)が引き起こした兵乱に巻き込まれて焼かれ、東塔と東院堂を残して全山消失の憂き目に遭います。

この時の兵火はすさまじく、本尊薬師如来三尊像の光背は消失。本体も鍍金が火災の高熱によって黒く変色し、現在のような漆黒の三尊像となったのです。

その後、1600(慶長5)年に大和郡山城主である増田長盛により、本尊を収める仮金堂が建立され、1852(嘉永5)年には大講堂が再建されましたが、往時の大伽藍を想像もできないほどの規模に縮小しました。

仮金堂は白鳳期の金堂と比べて小さく、粗末な造りで、好胤が住職となったころには屋根も傷んで雨漏りもひどくなっていました。

柱と梁もゆるんで壁に隙間が空いて、すでに小手先の修理で維持していくには、限界が近づいてきていることは誰の目にも明らかだったのです。

 

百万巻写経勧進

晋山式で失われた金堂の復興を宣言した好胤でしたが、具体的な方策をこの時点で考えついているわけではありませんでした。

金堂復興にどれくらいの費用が掛かるのか、専門家が試算した金額は10億円

檀家がおらず、末寺もない薬師寺が工面するには、たいへん大きな額です。

「手漕ぎの舟で太平洋に乗り出すようなもの」

というのが、好胤が唱えた金堂復興に対して、当時の薬師寺関係者の多くが抱いた率直な感想でした。

 

さて、昭和期、奈良では薬師寺以外にも古代からの大寺院の修理が他にも行われています。

昭和初期から中期にかけて行われた法隆寺の昭和の大修理、1973(昭和48)から7年をかけて行われた東大寺の大仏殿大修理です。

法隆寺東大寺の大修理では、対象が国宝、もしくは重要文化財の建築ということもあり、多くの国費が投入され、実施されました。

法隆寺の場合は国の事業として修理が進められたこともあり、8億円余りの費用のほぼ全額に国費が充てられ、東大寺の大仏殿では総工費50億円の内、32億円が国と自治体の補助金が投入され、残りは東大寺勧進で集められました。

それに対し、薬師寺は本尊となる薬師三尊像は国宝ですが、それを収める金堂は国や自治体の文化財指定を受けておらず、この復興に行政の補助金は期待できず、全て薬師寺勧進、負担する必要があったのです。

 

しかし、薬師寺ではかねてから金堂復興を考え、資金を積み立てていたものの、農地改革で失った境内周囲の土地の買戻しに充てる必要があり、当時、ほとんど資金がない状態でした。

途方もない金額に、どうすれば資金を集められるか、好胤は懇意にしていた大企業のオーナーに相談しています。

そのオーナーは、毎年1億円ずつ傘下のグループ会社も含めて「宣伝費」を出す。それを10年プールすればで、10億円を準備できると申し出ました。

しかし、好胤は丁重にその申し出を辞退します。

最小の効果のため、最大の努力を惜しんではならない

若年の頃から、師である凝胤から受けた、この教えに反すると考えたからでした。

オーナーの申し出どおり、企業の宣伝費で金堂を復興するのは、最も効率的で能率的な方法だったかもしれません。

しかし、高度経済成長期の日本で、能率主義が至上のものとされる中、それと反対の心の存在を薬師寺の金堂復興を通じて、将来の日本人に伝えたいという気持ちが、好胤の心に強くありました。

日本中の多くの人々から集めた浄財で金堂を再建する。

これが、金堂再建、伽藍復興における、資金集めのすべての基本となりました。

 

こうしてたどり着いた結論が、般若心経の写経による勧進だったのです。

この写経勧進を提案したのは、当時薬師寺執事長で好胤の弟弟子である安田瑛胤でした。

写経によって浄財を集めるという、当時として画期的なアイデアを最初に着想したのは、実は好胤、瑛胤の師である橋本凝胤で、1966(昭和41)年にインドのブッダガヤに日本寺の建立を発願した時、写経勧進で浄財を募りました。

この時は、微々たる額しか集まらず、結果ははかばかしくありませんでした。

しかし、毎日境内に立って青空説法を続ける好胤を、じっと見続けてきた瑛胤は、兄弟子好胤の多くの人を惹きつける人間的魅力と、相手を納得させる弁舌の才、そしてどのような困難にもひるまない強い意志を感じ取っていました。

この人なら写経による勧進が達成できる。

瑛胤にはそのような確信があったのでしょう。

後に薬師寺管長となる瑛胤は、好胤と並んで白鳳伽藍復興におけるキーパーソンとなります。

というより、好胤はこの時点では金堂復興までしか考えていなかったようで、後に中門、西塔と進められる白鳳伽藍復興を後押しした人物は瑛胤に他なりませんでした。

管長である好胤だけでなく、副住職の松久保秀胤、執事長の瑛胤や執事の山田法胤といった優れた弟弟子たちの活躍を抜きにして、現在の薬師寺の姿はなかったといえるでしょう。

 

さて、般若心経は大乗仏教の空の教えを説く、600巻の魔訶般若波羅蜜経の神髄であり、262文字の簡潔なお経で、広く知られたお経です。

写経勧進とは、この般若心経を書き写し、納経料1000円を寺に納めてもらい、これを金堂復興の資金とするという、前代未聞の取り組みでした。

集める浄財の目標額は10億円。

達成するには百万巻という途方もない数の写経を、人々に書いてもらわねばなりません。

さらに当時は「写経」という行為自体が、一般にあまり知られておらず、一部の寺院では行われていたものの、僧侶や信徒の修養を目的とするもので、一般の人々が普通に行うものという認識がなかった時代です。

末寺、檀家を持たない薬師寺にとっては、何年かかれば達成されるのかさえ見通しの立たない目標といえました。

 

しかし、好胤以下、薬師寺の僧侶と職員は、敢然と金堂落慶の日を目指したのです。

1968(昭和43)年6月、かくして写経勧進は始まりました。

好胤は写経勧進にあたり、色紙にこうしたためています。

 

永遠なるものを求めて

永遠に努力する人を菩薩という

 

自分を含め、百万巻の写経勧進に挑むすべての人たちへのエールでした。

 

<参考文献>

高田好胤さんの心が少しホッとなるエピソードがいっぱいの伝記です。

次回はこちらです。

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