皆さんこんにちは。
百万巻の写経勧進による白鳳伽藍復興という空前の事業を起こした、薬師寺管長高田好胤とはどのような人物だったのか。
前回は、学徒出陣からの復員と復学、大学卒業後に薬師寺副住職となり、修学旅行に訪れる生徒たちへ「青空説法」を始めた若き日の好胤の姿をご紹介しました。
「寺を訪れた人々に仏法の種をまきたい」
この一念から始まった「青空説法」が評判を呼び、好胤は「薬師寺の話のおもしろいお坊さん」として、その名が広く知られるようになっていきます。
戒律を破った幸福
好胤の青空説法は多くの修学旅行生の心を打ち、薬師寺や好胤の元には、帰郷後の修学旅行生達から多くの手紙が寄せられました。
そんな生徒たちの一人だった東京在住の女性と、好胤は心を通わせ文通を始めます。
所用で上京するたびに会うようになり、やがて好胤は彼女との結婚を考えるようになりました。
かつて仏僧は、我欲を抑え、仏道に専念するため様々な戒律を守ることを求められました。
特に、不殺生戒(殺してはならない)、不盗戒(盗んではならない)、不婬戒(性交渉してはならない)は、特に厳しく守るべきものとされ、明治以降僧侶の肉食妻帯は国家的に合法化されたものの、薬師寺では橋本凝胤の代まで、自身も含めて僧侶は肉食も妻帯もせず、厳しく戒律を守っていました。
好胤自身も自分が結婚するなど、当初は考えてもいなかったかもしれませんが、交際を開始して4年目に、思案の末、師である凝胤に自分の思いを打ち明けます。
「結婚させていただきとうございます」
お辞儀をしたままそういった好胤へ、しばらく沈黙が続いた後、凝胤は言いました。
「まあ、よかろう」
凝胤は以前から好胤が女性と文通し、頻繁にあっていることを知っていたようで、そのうちに何かを言ってくるであろうと思っていたようです。
これまでの薬師寺の長い伝統を考えた時、自らの後継者と考えていた好胤の結婚はそうやすやすと諾とすることはできないことでした。
しかし、好胤には好胤の生き方があると、思いぬいた末に二人の結婚を許したのであろうと思います。
こと仏道修行においては鬼のような厳しさを持った師匠でしたが、弟子への深い信頼と愛情の末の決断でした。
薬師寺の僧侶が結婚するという話は瞬く間に周囲に広がり、信徒総代からは「薬師寺として本当に良いのか」と、凝胤はしつこく念押しされましたが、「時代は、かわったわなあ」と答えて、二人の結婚を認める姿勢を明らかにしたのです。
好胤の結婚に対する風当たりは決して弱いものではありませんでしたが、生涯不犯を通し、厳しく自らを律することで知られ、南都仏教の金看板であった凝胤が認めることで、雑音は聞こえなくなりました。
そして好胤は1954(昭和29)年4月に結婚しました。
この好胤の結婚を、奈良の地方紙、大和タイムスはこのように伝えています。
「法相宗大本山・薬師寺の副住職高田好胤氏(三〇)が同時千二百年来の伝統を破り、昨日二十三日、同寺東院堂の聖観音菩薩の前でめでたく結婚式をあげた」
「この戒律を破った幸福は百二十五代橋本住職の”新時代に応じた宗教の歩みはかならずしも旧儀を模することではない”とするあたたかい親心からもたらされたもの」
結婚から2年後には娘が生まれ、凝胤が名付け親となって「都耶子」と名付けられました。
しかし、結婚してから10年後、妻は娘を連れて東京へ帰り、その2年後正式に離婚します。
それから30年。
脳梗塞で入退院を繰り返す好胤を看病していたのは、別れた妻と娘、都耶子でした。
同じころ、再び二人は夫婦となっています。
好胤はその著書『情』の中で、「夫婦生活についての教え」を中国の古典を引きながらこのように書きました。
仁を過ぐれば弱くなる
義に傾けば固くなる
勇に過ぎれば暴になる
礼に過ぎれば囚われる
結婚、離婚、復縁を実体験した好胤だからこその説得力がありますね。
写真家たちとの交流
奈良の古社寺の美が広く知られるようになるのに、優れた写真家たちによる作品が果たした役割は、非常に大きなものがあったと思います。
奈良の古社寺を題材とした作品を、多く世に送り出した写真家として、まず名があがるのは入江泰吉でしょう。
大和時の風景や社寺の写真を撮り続けた入江は、薬師寺にもよく撮影に訪れていました。
とくに寺の西側から池を挟んで眺める塔の姿を愛し、幾度も撮影したといいます。
現在でも上の写真のように、このアングルは薬師寺撮影の定番ですね。
美しい薬師寺の姿を捉えた入江の作品を、好胤は青空説法の際、よく頭上に掲げながら薬師寺の説明を行っていました。
ある日、入江が薬師寺境内で撮影をしていたとき、いつものように入江の写真を掲げて修学旅行生に薬師寺の案内をしていた好胤は、入江の姿を見つけると、「この写真を写したのは、あの人」と入江を指さしたといいます。
生徒たちの視線が一斉に集まって、入江は逃げ出すわけにもいかず面はゆい気持ちでいましたが、法話が終わると今度はサイン攻めにあい、それ以来入江は、境内で好胤の法話が始まると、見えないところに退くようになったと言います。
入江と並んで、奈良の古社寺の美しい作品を残した写真家に、土門拳がいます。
土門は1960(昭和35)年、ライフワークとなる「古寺巡礼」の撮影を開始。
この撮影で初めて薬師寺を撮影に訪れたとき、土門は同年に発症した脳出血から回復したばかりで、足が不自由だったのですが、それを知った好胤は「お堂の前までタクシーを乗り入れてもよろしい」と、「下車」が原則の境内へ自動車を入れても咎めないように本堂へ事前に連絡するなど、当時まだまだ無名の写真家であった土門へ深い心遣いを見せます。
土門が撮影のお礼として「香華料」を包んでも、「無理をしなくてもいい」と突き返し、手土産には手も触れずにお供え物としてしまうなど、土門の方がすっかり恐縮してしまったとか。
写真家が何度も境内を訪れては撮影するのを迷惑がり、土門の前で露骨にいやな顔をする僧侶も多かった中、好胤は猛暑の中、撮影を終えた土門を自坊の台所に招いてビールでもてなしたり、二人の助手を引き連れて何度も宿舎と寺を往復するのは費用もかさみ大変だろうと、若い僧を駅に走らせて宿舎のある京都までの切符まで買わせたこともありました。
写真撮影を通じて、多くの人との仏縁をつなごうとしてくれる土門へ、好胤は最大限の感謝の気持ちを持っていたのかもしれません。
テレビ読経
好胤が全国にその名が知れ渡る切っ掛けとなったのは、テレビ番組のレギュラー出演者になったことでした。
1966(昭和41)年、関西テレビで「ハイ!土曜日です」という、土曜朝のワイドショーが企画されます。
フジテレビ系列の全国ネット番組であり、局側も関西発の放送であることから、出演者に関西の多様な文化人を起用したいとの思惑がありました。
そこで、修学旅行生相手の青空説法が評判となっていた薬師寺の好胤に、白羽の矢が立ちます。
早速、関西テレビは局員を薬師寺に送り、出演を交渉しましたが、好胤は多忙のため毎週大阪には出かけられないと、いったん断りました。
関西テレビは諦めず、師匠である凝胤に口添えを頼みます。
「声がかけられるのは、けっこうなことやないか」
凝胤は好胤を呼び出してつぶやきました。
師匠のこの言葉に背中を押され、好胤もテレビ局側の話も聞いておこうと思いました。
修学旅行生が多い季節季節以外ならと言う好胤に、関西テレビの局員は全国ネットの視聴者は1回で百万単位いるというと、好胤はこう切り返しました。
「私は小さいころから師匠に『最小の効果のために最大の努力を惜しんではならない』といわれてきました。椅子に腰かけてしゃべって、一度に大勢の人に話を聞いてもらおうなどと、思っていません。テレビに出演したい人は世の中にいくらでもいるでしょう。だが、薬師寺で修学旅行生たちにお話をするのは、この私しかいません」
この言葉に、局員は座りなおして「今の世の中は、おっしゃるように、効率や能率を優先させて、効果や成果を上げることばかりを考えるようになってきています。」「どうか、今おっしゃったことをテレビでお話ししてください。そして日本中に広げてください」と、畳みかけました。
この言葉が口説き文句となったのかは定かではありませんが、好胤は隔週で番組に出演することになりました。
番組の出演料を受け取らなかったそうで、あくまで好胤にとってのテレビ出演は、多くの人々に仏法の種をまくための機会をいただいているのであって、それでお金を受け取るのはおかしいという考えだったのでしょう。
司会の桂米朝との息も合い、好胤は茶の間の人気を獲得していきます。
番組が始まって1年半ほど経ったころです。
好胤は人と出会うとき、別れるときに必ず合掌して一礼していました。
番組出演時にも同じ所作をしていたが、このときテレビを仏壇の方に向ける視聴者がいると、好胤や番組スタッフの耳に入ってきました。
薬師寺の高僧である好胤が、テレビの画面越しに深々と合掌する。これを仏壇に向けたら、お参りしてもらったのと同じでありがたい。ということだったようです。
好胤はこの話を聞いて、ふと思いました。
挨拶するだけでそこまで喜んでくれる人がいるというのであれば、お経をあげたらもっと喜んでいただけるのではないか。般若心経であれば、3分あれば読誦できる。
早速番組スタッフに提案すると、なんとスタッフも諸手を挙げて賛成したのです。
その年のお盆に、放送することが決まると、好胤は般若心経の経本を5千冊準備するよう、担当ディレクターに依頼しました。テレビの前で一緒に読誦したい希望者に無料で配布するためでした。
この前代未聞のテレビ読経が、放送2週間前に告知されると、経本の応募が1万件をこえ、局側は急いで増刷しました。
放送当日、朝9時からの生放送で、好胤は鉦を打ち、カメラつまり視聴者に向かって礼拝すると、お供についた二人の僧とともに般若心経を読誦し、その模様は全国の茶の間へと流されました。
このあまりにエキセントリックな放送に、「やりすぎ」という批判も一部上がったものの、テレビ読経は大きな反響を呼びます。
テレビ局には多くの投書が寄せられ、中には現金が包まれているものもあったそうです。
この放送のあと、反響の大きさに好胤はふと、「最小の効果のために最大の努力を惜しんではならない」という考えに、テレビ読経は矛盾しないだろうかと考えました。
考えた末に、1万人を超える人々が般若心経の経本を送ってほしいといってきた。これは大衆が仏教を求めている表れで、これに応えなければならないと思った好胤。
その一つとして、経本を求めた人々の施餓鬼法要を営み、ご先祖の菩提を弔うことにしました。
真夏のうだるような暑さの中、好胤は経を読み、テレビ局に届いた経本希望の封筒に書いてある送り主の名字を読みあげて「○○家、先祖代々証大菩提」と唱えました。
好胤はそのさわやかな風貌と、人を引き付ける話術が視聴者の心を掴み、「ハイ!土曜日です」以外のテレビ番組にもたびたび出演するようになります。
お色気要素も多かった深夜番組11PMにも出演して周りを驚かせ、大橋巨泉や好胤自身が大ファンであった美空ひばりと雑誌誌上で対談するなど、瞬く間に全国的な有名人となりました。
知名度が上がることは、後に進める写経勧進にとって大変な助けとなった反面、「タレント坊主」「仏教の堕落」など、批判を受けることもしばしばありました。
そのような批判も受け止めて、好胤はいいました。
「誤解や中傷があるのは、自分の徳が足らんからです。人を責めるわけにはいきません。何をいわれようと、私は私の道をあるきます」
好胤が副住職時代に始めた青空説法とマスコミを通じた活動は、広く、たくさんの人々に仏法を広めたいという願いから始めたものです。
その願いの集大成といえるのが、薬師寺管主への就任と同時に発願した、白鳳伽藍の復興でした。
<参考文献>
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